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「今年のまとめ」 一 ファンタジーの年 去年、今年と、訳した本をながめると、やっぱりファンタジーのブームだったんだなと思う。「レイチェル」(理論社)「マインド・スパイラル」(あかね書房)などのシリーズ以外にも『アースヘイヴン物語』(角川書店)もあるし『エルフギフト』(ぽぷら)もある。 たまに講演などにいくと、「『ハリー・ポッター』をどう思われますか」という質問を受けることがある。たいがいが、アンチ・ハリポタの方であることが多い。それは質問をなさるときの表情から明らかである。「夢中になって読みました」などと答えようものなら、次の日から、金原訳の本は読まないと顔に書かれている。 しかし、『ハリー・ポッター』はそう嫌いではないのだ……といっても第一巻を英語で読んだだけなので、二巻三巻のことはわからないし、日本語の翻訳についても何も言えない。が、やっぱり面白いと思う。つまり、これまでのファンタジーをそのままに踏襲して、巧みに派手に演出してみせた……という意味では、賞賛に値すると思う。これまでのファンタジーの素人受けする部分をうまく抽出して、枠を越えず、水戸黄門的な学園物に仕立て上げた手腕は素晴らしい。新しい世界観を提示しようとか、新しい価値観にこだわってみようとか、新しい世界を創造してみようとか、そういう素人っぽい試みには決して手を出さず、エンタテイメントの王道を進んでいる。 つまり、「ファンタジー入門」としてこれほどいい作品はほかにないと思うのだ。 たとえば、十九世紀の『水の子』は今読むとやっぱり説教臭いし、テンポがのろい。同じく十九世紀の『不思議の国のアリス』は今読むとやっぱり、ナンセンスに走りすぎていて、感動がない。そのあとに出てきた『ピーターパンとウェンディ』も『メアリー・ポピンズ』も面白いけど、ちょっとつらい。さらに時代が下って、C・S・ルイスの「ナルニア物語」も、いささかキリスト教くさいし、なんだか古くさい。トルキンの『指輪』はたしかにファンタジーの金字塔ではあるけれど、全体に冗長で、そのあたりを楽しめる玄人の読者以外にはともかく、一般の読者や現代の子供には、かなりしんきくさいところはある。さらに『ゲド戦記』は、主人公のゲドがあまりにストイックで真面目で、世界観もあまりにメッセージ性が濃すぎるような気もする。そしてぼくの大好きなステファン・ドナルドソンの『信ぜざる者コブナント』にいたっては、読むのがしんどいうえに、主人公の置かれている立場がしんどいうえに、物語までがしんどい。エンデのファンタジーも、見方によってはずいぶんと説教臭くて、教訓臭い(エンデはブームになったが、それが結局ファンタジーのブームにつながらなかったのには、そのへんに原因があると思う。あの作品群の魅力はファンタジーの魅力というよりは、エンデの魅力なんだろう) 今年は、とくに「レイチェル」のシリーズの読者カードを読んで驚いてしまった。普通、児童書の場合、読者カードを送ってくださる方というのは、ほとんどが三十代以上の女性で、司書か文庫をやってらっしゃる女性のことが多い。ところが今回はそのほとんどが、十歳から十五歳まで! なかには初めて本を最後まで読みましたという子もいた。 こういう形でブームが、潜在的な読者を掘り起こしてくれるのは、書店や出版社に限らず、本にたずさわる者すべてにとってとてもうれしい。こうした流れで本のおもしろさに目覚めた人のうちの数パーセントは必ず、この世界にはまっていくんだから。 それともうひとつ頼もしく思ったのは、日本の国語教育もまんざら捨てたもんじゃないということ。小学生でも読む気さえあれば、分厚い本でも楽しく読めるんだから。 二 お気に入りの訳書 ファンタジーの話はさておき、今年訳したなかで気に入っている本はといえば、『エルフ・ギフト』(スーザン・プライス、ぽぷら)『神の創り忘れたビースト』(ジム・ハリスン、アーティストハウス)『ジャックと離婚』(コリン・ベイトマン、東京創元社)『ヴァイキングの誓い』(ローズマリー・サトクリフ、ほるぷ出版)『物語に閉じこもる少年たち』(セオドア・ルービン、ぽぷら)……といったところ。しかしこういう本に限って、あまり売れない。ま、ある意味、マニアックな本だし、しょうがないのはわかってるんだけど、ちょっとだけ、くやしいかも。 三 来年の予定 フランチェスカ・リア・ブロックの『Violet&Claire』『The Rose and the Beast』『Echo』、スーザン・プライスの『The Sterkarm Handshake』、デイヴィッド・アーモンドの『Heavenly Eyes』、スタッド・ターケルのノンフィクション『Will the Circle Be Unbroken?』など。まだ日本では紹介されていない作家のものとしては、ソーニャ・ハーネットの『Thursday's Child』、ジェイムズ・カーロス・ブレイクの『In the Cold Blood』、クリス・クラッチャーの『Whale Talk』、ミッチ・カリンの『Tideland』、ダン・ローズの『Timoleon Vieta, Come Home』などなど。また変わり種としては、『サンドマン』などのアメコミでコアなファンの心をつかんでいるニール・ゲイマンのファンタジー『Coraline』。 それから以前、ベネッセから出ていてロバート・ウェストールの『かかし』が徳間から復刊の予定。 ともあれ、来年の金原の活動はちょっと目が離せない……というほどでもないか。 まあ、ちょっと気になったら、本屋で立ち読みでもしてみてください。 というわけで、今回は今年出た本のあとがきをいくつか。 四 「レイチェル」のあとがき(第三巻は松山さんが担当) 訳者あとがき さて、イギリスの新人クリフ・マクニッシュの『滅びの呪文』(原題 The Doomspell)の登場だ。 雪の降り積もった階段を、薄い黒のドレスをまとった魔女がはだしで足早におりていく。背の低い五百歳になる老人が遅れまいと必死についていく……舞台は一転してレイチェルとエリックの姉弟の朝食の場に移ったかと思うと、ふたりはいきなり地下室の壁のなかに引きずりこまれ、恐ろしい魔女の支配する世界に…… そこからはもうジェットコースターそのもの。このスピード感、二転三転四転する物語のおもしろさ、最後の最後まで続く魔法と魔法の戦い。読み始めたらもう、終わりまで一気に読み進んでしまうしかないだろう。 自分が思わぬ力を持っていることに驚き、まどうレイチェル、この異世界をいっしょに支配しないかとレイチェルをさそう魔女、魔女を倒そうと画策する小人たちのグループ、とぼけた反応がいつもかわいいエリック……これらの登場人物がからみあい、もつれあって、物語はいよいよおもしろくなっていく。 登場人物のなかでもすごいのは魔女だろう。血のように赤い肌、刺青でふちどられた目、ヘビのようにゆがんだ口、四組の歯、歯のまわりでうごめくクモ。姿形もそうだが、うちに秘められた憎しみもすさまじい。 作者は最初、娘のレイチェルにたのまれて物語を書くことにしたが、そのときの娘の注文はこうだったらしい。「魔女の出てくるお話しがいいな。すごく不気味な魔女。むちゃくちゃ気味が悪くて意地悪な魔女よ」 まさにその望みどおりの魔女ができあがった。これまでのファンタジーのなかで、これほど不気味ですごみがあって、しぶとい魔女はなかなかみあたらない。 作者のマクニッシュ、IT関係の仕事をしているせいか、とにかくイメージを作り上げるのがうまい。魔女もそうだし、子どものまま何百年も生き続けて老いていく小人たちもそうだし、いや、この魔法の世界そのものも、まるで目の前にみえるようにあざやかに描きだしている。そして魔法と魔法の戦いまでが、視覚的に迫力たっぷりに表現されている。奥深いファンタジーの世界を、RPGのゲーム感覚でみごとに再現したような感じといってもいいだろう。 読みだしたらやめられないノンストップ・エンタテイメントの傑作。まずは手に取って読んでみてほしい。 なお、第二巻もそろそろできあがりつつあって、舞台はこの地球。こちらはさらにスケールも迫力もアップした力作のようだ。 最後になりましたが、編集の奥田知子さん、翻訳協力者の松山美保さん、原文とのつきあわせをしてくださった小林綾子さんに、心からの感謝を。 二00一年六月十二日 訳者あとがき 第一巻の『レイチェルと滅びの呪文』で早くも作者マクニッシュの魔法にかかってしまった人が、子ども大人を問わず、世界のあちこちで続出しているらしい。「いままで読んだ中で最高のファンタジー……ただし続編が出ると、どうなるかわからないけど」(アマゾンUK)といった声まできかれるほどだ。 第一巻で邪悪な魔女ドラグウェナの支配する酷寒の星イスレアに引きずりこまれたレイチェル、第二巻の『レイチェルと魔法の匂い』(原題 The Scent of Magic)でも胸のすくような活躍をみせてくれる。今回は地球に魔女軍団が押しよせ、地球の子どもたちを手なずけてレイチェルたちに対抗し、魔導師ラープスケンジャを誘い出そうと画策する。その先頭に立つのはドラグウェナの母親ヒーブラ。次第に明らかになる魔法の特性。前巻をはるかに上回るスケールと迫力で新たな戦いが繰り広げられ、前巻では余裕たっぷりに登場したラープスケンジャも苦戦を強いられる。 第一巻の「ジェットコースターのようなスピード感、二転三転、四転する物語のおもしろさ」をそのまま倍にしたようなファンタジーにしあがっている。そのうえレイチェルの側に立つモルペスとエリック、レイチェルに敵対するハイキやポールといった登場人物までが個性的に、魅力的に描かれている。しかし今回なんといってもすばらしいのは、イェミという不思議な力を持つ赤ん坊を登場させたことだろう。そのおかげで、この物語は二重三重にもつれていよいよおもしろくなり、そして最後、思いもよらない結末へ……。 この本の結末と同じように、マクニッシュの魔法はさらに世界を大きく包んで、さらに多くの子どもや大人を夢中にさせてしまいそうだ。 さて、完結編の第三巻はどのような展開になるのか……残念ながらまったくわかっていない。期待と不安の入りまじった気持ちで、その情報を待っているところである。 第二巻について少しだけ説明を。赤ん坊の頭とカラスの体を持つ変な鳥、プラプシーは前巻の終わりで、普通のカラスにもどったことになっているが、作者はプラプシーがとても気に入ったようで、今回ふたたびもとの姿で登場している。 それから、十六章に出てくる「首つり台(ハングマン)」だが、これは英米の子どもたちの遊びの名前でもある。言葉遊びの一種で、まちがえるたびに、首つり台の縄の先に人の頭、胴体、腕、脚をひとつずつ描きたしていき、絵ができあがると負けになる。 最後になりましたが、翻訳協力者の松山美保さん、原文とのつきあわせをしてくださった小林綾子さんに、心からの感謝を。 二00一年十一月五日 金原瑞人 五 「マインド・スパイラル」のあとがき(抜けてる巻はほかの人が担当) 訳者あとがき おいおい、この設定はないだろう。 読みはじめたとき、思わずそう口走ってしまった。 ヒロインのレノーラ姫は、なんと、想像したことをすべて現実のものにしてしまう能力を持っている! こんな話はふつうだれも書かない。なんでも思い通りにしてしまえるなら、困ることもなーんにもないわけで、話にならない。そのうえ、レノーラの住む国の人々はみんなこの能力がある……けども、だれもが好き勝手に想像を現実にしてしまうと大変だから、その能力を使わないようにしている。しかしレノーラは、なんで使っちゃだめなのよとばかりに、使いまくっては両親にしかられている。むちゃくちゃな設定だ。 さらに、レノーラの婚約者(にかってに決められてしまう)コリン王子は、ほかのもの(人でも動物でも植物でも)の心が読めるうえに、想像のなかにひたりきることができるという能力を持っている。つまり、雪のなかでこごえていても、頭のなかで暖炉のそばにいる想像をしていれば、それですべてOKなのだ。また、コリンの国の人々はみんな同じ能力を持っていて、こちらはだれもが好きにその能力を使っている。しかしコリンはそれに反対で、もっとまともでふつうの生活がしたくて、その能力を使おうとしない。むちゃくちゃなう設定だ。 ファンタジーというのは、豊かな想像で作ったでたらめな世界だと思っている人は多いと思うけど、じつはまったく逆で、これほどきっちり約束事でかためれれた世界はないのだ。たとえば、『ゲド戦記』。やがては大魔法使いになるゲドでさえ、魔法を使えるようになるために命をかけて修業していくし、なにより、魔法を使うためには相手の名前を知らなくてはならない、という大きな約束がある。たとえば『指輪物語』。偉大な魔法使いガンダルフでさえ、使える魔法には限りがあるし、モルドーの魔王を倒すためには、多くの英雄や妖精、そしてドワーフの力を借りなくてはならない。じつは、ファンタジーの世界にはきっちりした約束があるのだ。それは将棋やチェスにルールがあるのとまったく同じ。 それなのにヒロインとヒーローが(ほかの人々もふくめ)、思ったことがすべて現実になってしまう能力を持っていたり、想像のなかですべてが片づいてしまう能力を持っていたりすると、これって、なんでもありの話になってしまう。 こういうのをむつかしい言葉で、「掟破り」という。将棋やチェスで、駒の動きを勝手に変えていいなんてことになったら、そもそも勝負にならない。それと同じ。 ところが、ところがなんと、作者(たち)は、それをやってしまった。それも、びっくりするほどスマートに、おしゃれに、おもしろく。そして十分に納得がいくように。 そのうえ、ヒロインのレノーラがとてもとても魅力的だ。たくましくて美男子の騎士に求愛されるなんてまっぴら、そんなの相手のいうがままになってるようなものだもの、という負けん気の強いお姫様で、頑固でわがままで自分勝手……だけど、やさしくてかわいい。相手のコリンはそばかすだらけで、どちらかというとひかえめな性格で、レノーラにふりまわされてばかり……だけど、しんは強くて沈着冷静なところもある。 訳していてこれほど楽しかった作品もめずらしい。 さて、このふたりが、はちゃめちゃな世界でくりひろげる掟破りの大冒険物語、どうぞごゆっくりお楽しみください。 続編? もちろんあります。 二00一年 五月二十三日 金原瑞人 訳者あとがき ヒロインのレノーラ姫は、なんと、想像したことをすべて現実のものにしてしまう能力を持っている! そのうえ、レノーラの住む国の人々はみんなこの能力がある……けれど、だれもが好き勝手に想像を現実にしてしまうと大変だから、その能力を使わないようにしている。しかしレノーラは、それを使いまくっては両親にしかられている。 一方、レノーラの婚約者(にかってに決められてしまう)コリン王子は、ほかのもの(人でも動物でも植物でも)の心が読めるうえに、想像のなかにひたりきることができるという能力を持っている。つまり、雪のなかでこごえていても、頭のなかで暖炉のそばにいる想像をしていれば、それですべてOK。また、コリンの国の人々はみんな同じ能力を持っていて、こちらはだれもが好きにその能力を使っている。しかしコリンはそれに反対で、もっとまともでふつうの生活がしたくて、その能力を使おうとしない。 ファンタジーというのは、豊かな想像で作ったでたらめな世界だと思っている人は多いが、じつはまったく逆で、これほどきっちり約束事でかためれれた世界はない。たとえば、『ゲド戦記』。やがては大魔法使いになるゲドでさえ、魔法を使えるようになるために命がけで修業していくし、なにより、魔法を使うためには相手の名前を知らなくてはならない、という大きな約束がある。たとえば『指輪物語』。偉大な魔法使いガンダルフでさえ、使える魔法には限りがあるし、モルドーの魔王を倒すためには、多くの英雄や妖精、そしてドワーフの力を借りなくてはならない。じつは、ファンタジーの世界にはきっちりした約束があるのだ。それは将棋やチェスにルールがあるのとまったく同じ。 じつはこの作品、いっけんでらためにみえるが、そのルールをきっちりまもっている。レノーラもコリンも、無制限にそれぞれの能力を使えるわけではなく、必ずどこかで壁にぶつかってしまう。それは力が強いか弱いか、あるいは状況をしっかり把握しているかどうかにかかわってくるのだ。そのうえ、世界のバランスがこれにからんでくる。 そういう決まりのなかで、思い切り想像力をはばたかせてできた作品がこれ。ふつうなら、こういうなんでもありのファンタジーは途中でどうしようもなくなるのだが、なんとキャロル・マタスとペリー・ノーデルマンは、それをみごとにやってのけた。それも、びっくりするほどスマートに、おしゃれに、おもしろく。そして十分に納得がいくように。 テーマは、いうまでもなく「心、心、心」、つまり人間の想像力と創造力そのもの。 そのうえ、ヒロインのレノーラがとてもとても魅力的。たくましくて美男子の騎士に求愛されるなんてまっぴら、そんなの相手のいうがままになってるようなものだもの、という負けん気の強いお姫様で、頑固でわがままで自分勝手……だけど、やさしくてかわいい。相手のコリンはそばかすだらけで、どちらかというとひかえめな性格で、レノーラにふりまわされてばかり……だけど、しんは強くて沈着冷静なところもある。じみだけど、じつに味のあるいいキャラクター。まさに名コンビ。 訳していてこれほど楽しかった作品もめずらしい。 このふたりが、はちゃめちゃな世界でくりひろげる大冒険物語、むこうで大評判です。どうぞごゆっくりお楽しみください。 続編? もちろんあります。それも今のところ四巻まで。 (トロル、フェアリー、エルフといったファンタジーやゲームでおなじみの連中について紹介は不要でしょう。この作品でも、ずいぶん楽しい役回りになってます) 二00一年 五月二十三日 金原瑞人 大好評のうちに、この「マインド・スパイラル」のシリーズも、いよいよ第四巻! 『スクランブル・マインド』『ミッシング・マインド』『マーヴェラス・マインド』、そしてこの『エンドレス・マインド』。 さあ、いかがでした? そもそも、このファンタジー、第一巻目のあとがきでも書いたように、設定がはちゃめちゃ、というか、むちゃくちゃ。 レノーラ姫は思ったことをすべて現実に変える力を持っているし、相手のコリン王子は、人間の心も動物の心も読めてしまううえに、想像のなかにひたってしまって、想像のなかだけで生きていくことができる。そしてレノーラは思い切り自分の力を使いたくてたまらないけど、コリンはなるべくそんな力は使いたくない。そのうえ、レノーラは冒険大好きの行動派、それに対してコリンは勇気はあるけど、どちらかというと慎重派。 さらにさらに、このふたりの分身(のくせに、なぜか性格はまったくちがう)レニーとコリーまで登場して、話はどんどんややこしくなっていく。 こういう設定で、ふたりは次々に起こる不思議な事件に巻きこまれ(あるいは、自分たちでそういう事件を巻き起こして、ほかの人と巻きこみ)ながら、いろんなことを学んでいく。が、やっぱり同じようなまちがいをおかしてしまう。 そのうえ、レノーラが想像のなかで作り出してしまった独裁者ヘヴァークなどという変なやつまで出てくる。 もう訳していて、どうしていいかわからないほどの混乱ぶりで、毎回毎回、驚いたり感心したりの連続。とはいえ、こういう作品こそ、訳していて楽しい。わくわく、はらはら、どきどきしながらの翻訳は、何にもかえがたい魅力があるのです。 ところがところが、この第四巻では、さらにそれが加速! まあ、次のところを読んでみてほしい。 さんざん待たされてようやく列の前のほうにくると、なにをやっているのかわかってきた。つかれた顔をした中年の男と女が、つくり笑いをうかべ、ペンを手に、テーブルの前にすわっている。ふたりとも背が低くて黒い髪をしている。ただし女性のほうはかなり長くて、男性のほうはめちゃくちゃ短い、というか、少ない。 じつは、このふたり、作者のキャロル・マタスとペリー・ノーデルマンなのだ。なんと、今回はふたりまで登場してくる! というより、レノーラとコリンがカナダのウィニペグにやってくる(正確にいうと、ほんとうはそうではないのだが、それは読んでのお楽しみ) レノーラ、コリン、レニー、コニー、キャロル、ノーデルマン、さらにおなじみヘヴァークまで登場しての、この第四巻、作者も読者も登場人物も、まったく先の読めない、はちゃめちゃのアメージング・ファンタジー(驚きがいっぱいのファンタジー)。 しかしそれでいて、ちゃんと最後までしっかり読者をひきつけて、しっかり決着をつけるのが、このシリーズの魅力。 それともうひとつ気になるのは、ウェディングベル! 第一巻からずっと気にはなっているんだけど。 レノーラとコリンはめでたく結婚できるのか。そして、レニーとコリーは? そのへんも、ちゃんと納得いくように描かれているのが、また、このファンタジーのいいところ。 作者のキャロル・マタスも、ペリー・ノーデルマンも、そのへんはさすがによく心得ている。ふたりの作り出す物語は、穴だらけの船のようにみえて、じつは絶対に沈まないようにしっかり作られている。 ふたりにまかせて、四回目の航海に出てみましょうか。 さて、最後になりましたが、このシリーズを通してお世話になった編集の重政ゆかりさんと挿絵の横田美晴さんに心からの感謝を! あ、それから、もうひとり、このシリーズをずっと紹介してくださって、ついでにスタジオにまで招待してくださったFM入間の美人キャスター、安田佳代さんにも心からの感謝を! そして最後の最後に、このとても楽しいファンタジーを書いてくださって、ついでに山ほどの質問にも(たぶん)嫌な顔をしないで答えてくださった、キャロルとノーデルマンにも山ほどの感謝を! 二00二年八月十二日 金原瑞人 六 ほるぷから出た(出る)ローズマリー・サトクリフの本『ヴァイキングの誓い』と『金色の騎士フィン・マックール』(仮題)のあとがき 訳者あとがき ローズマリー・サトクリフというと、歴史児童文学作家というレッテルをはられることが多いが、そのほとんどが冒険小説だと思う。もちろん、歴史的なことはよく調べてあって、かなり正確に書かれている。しかしサトクリフの作品の魅力は、なんといっても、その力強くうねるような物語、生と死を賭けた迫真のドラマ、胸おどる冒険ロマンにあるような気がする。 おそらくサトクリフは、歴史の本をたんねんに読みながら、そこを舞台に思い切り想像の翼を羽ばたかせ、思う存分、主人公を動かして、壮大なロマンを作り上げていったのだろう。いや、もしかしたら想像から生まれた主人公や登場人物が勝手放題に動きまくり、サトクリフはそれを驚きながら、わくわくしながら書きとめていったのかもしれない。とにかくサトクリフが、人並みはずれたの想像力を持っていたのはたしかだろう。 それからもうひとつの魅力は、登場人物のひとりひとりがていねいに、そして生き生きと描かれていることだと思う。まるでその人の語りかけてくる声がきこえてくるかのようだ。 サトクリフの作品が読者をいっきにその世界に引きずりこんでしまうのは、そういった理由があるからなのだろう。 この『ヴァイキングの誓い』も、まさにそういうサトクリフらしい作品のひとつといっていい。舞台は十世紀末から十一世紀初めにかけてのヨーロッパ。主人公の少年はいきなりヴァイキングにさらわれ、奴隷としてアイルランドに連れていかれて売られるが、ある事件をきっかけに、自分の主人と兄弟の誓いをすることになり、ヴァイキング同士のすさまじい復讐の戦いに巻きこまれる。そして主人公を待っていたのは、スカンジナビア半島から黒海までの、思いもよらない冒険の旅だった。 さて、この作品で繰り返し出てくる「ヴァイキング」というのは、北欧、つまりスカンジナビア半島に住んでいた人々で、船を巧みにあやつってヨーロッパ各地にいっては商売をしたり、海賊・略奪行為をしたりしたので有名。またその船は両端が反った独得の細長い形をしていて、帆とオールの両方で進むように作られていた。大型のものなら漕ぎ手が四十人、その他の乗組員が四十人くらい。もちろん全員が戦士でもあった。 また「ビザンティン帝国」というのは、三九五年にローマ帝国が東西に分裂したときの東側のほう。「東ローマ帝国」と呼ばれることもある。首都はコンスタンティノープルだが、ここは昔ビザンチウムと呼ばれていて、これが帝国の名前になった。一四五三年に滅亡。 最後になりましたが、編集の松井英夫さんと、原文とのつきあわせをしてくださった桑原洋子さんに、心からの感謝を! 二00二年八月八日 金原瑞人 訳者あとがき アイルランドというのは不思議な島だと思う。イギリスの西に位置し、その面積およそ8万平方km。北海道よりも小さい。そのうえ寒く、土地はやせていて、たいした産業もない。それなのに、オスカー・ワイルドやジェイムズ・ジョイスなど世界的に有名な文学者をずいぶんたくさん産み出してきたし、いまでも続々とアイルランド出身の作家が出てきている。また民話や伝説がとても豊富で、クーフリンの英雄物語やデアドラの悲恋物語のような長いものも多くあれば、妖精の登場する昔話も数えきれないくらいある。 さて、そんなアイルランドの英雄のひとりにフィン・マックールがいる。当時、アイルランドは「エリン」と呼ばれ、五つの王国にわかれていた。そして各国に騎士団があり、フィンはそれを統括する騎士団長だった。未来や、遠くの出来事を知ることができたうえに、両手に水をすくって飲ませれば、瀕死の病人やけが人も元気になるという力を持っていたという。このフィンの冒険物語は、はるか昔から様々な人々によって語りつがれてきた。 そしてそれを今度はサトクリフが新たに語ってみせた。 人間と妖精がいりまじってつむぎあげる、愛と死、知恵と力、戦いと策略、忠誠と裏切り、栄光と滅亡、夢と不思議の物語が、おどろくほどあざやかに、力強く迫力たっぷりに、そしてときどきユーモラスに描かれていく。 とにかくおもしろくて、読み出すと最後まで本を置くことができない。 とくにサトクリフのすばらしいのは、すさまじい戦いの場面さえ詩のように美しく語ってみせるところだろう。とくに第十四章の最後の戦いは、心が痛くなるほど美しい。血で血を洗う凄絶な戦いが、これほど美しく語られたことがあっただろうか。この章は全体がまぶしいほどに輝いている。が、それは朝日のまぶしさではなく、沈みゆく夕日のまぶしさだ。切なく、思わずなみだがにじんでくる。 フィン・マックールの伝説は『アーサー王物語』によく似ている。この伝説が、サトクリフの手によって、新しい命を吹きこまれ、堂々とよみがえった。みがきぬかれ、選び抜かれた言葉に耳をすませると、サトクリフの声や息づかいまでが伝わってくるような気がする。 思い切り読みごたえのある、とびきりおもしろい冒険物語を、心ゆくまで味わってほしい。 (ゲール語の綴りと発音は英語とかなりちがう。この作品でも、作者が英語読者に読みやすいよう人名や地名を一部つづり変えているらしく、一般的に知られた名前と多少異なっているものもある。ゲール語綴りのままの名前の読み方はアイルランド大使館でご教示を受けたが、英語綴りに変えてあるものは、サトクリフに従った) 最後になりましたが、編集の松井英夫さん、原文とのつきあわせをしてくださった桑原洋子さん、相談にのってくださったアイルランド大使館に心からの感謝を! 二00二年十二月七日 金原瑞人 七 今年の翻訳書のなかで異色の『物語に閉じこもる少年たち』のあとがき 訳者あとがき 一九九八年に『時の迷い子たち』(早川書房)という訳書を出版した。これは老人専門の精神医パトリック・マティアセンのエッセイ集で、アルツハイマー病に焦点をあてたものだった。このなかで、マティアセンは、「人を生ける屍にする病気であり、わたしたちを人間たらしめているものをすべて、奪い去る病気」であるアルツハイマー病に新しい光をあててくれた。それは、絶望を希望へと変える新たなベクトルの提示だった。これを読んだとき何より痛切に感じたのは「医学というのは、底知れない死という恐怖の闇を照らす一本の?燭だ」ということだった。さらに、この本を訳すにあたり、当時京都大学医学部精神科の高木俊介さんにお会いする機会があり、ますますその感を強くした。 ちょうどその頃、そういった興味にかられて読み出したのが、シオドア・アイザック・ルービンのこの本だった。ルービンは、マティアセンとは違って、自分の経験をそのままエッセイという形にはしないで、小説の形にまとめた。つまり多くの臨床例をふまえたうえで、医学的、客観的な立場を捨て、生身の人間を内側から描こうとした。これもひとつの方法だろう。その結果は信じられないほどあざやかな、人間の心の戦いの記録になった。 リザとミュリエルというふたりに引き裂かれている十三歳の少女と、「無意識的に自己を守ろうとして、神経症から精神病へ、その境界線を踏みこえようとしている」十五歳の少年の出会いと触れあいを扱った「デイヴィッドとリザ」。 「心にかなりの憎しみや不安が隠されている」自閉症気味の十二歳の少年が、主治医サリーの心に触れることによって、次第に自分の心を開いていく「ジョーディ」。 すべてを失ってしまうような悲惨な事故に遭遇して、自己と肉体を切り離し、外界との接触をまったく断ってしまったラルフィが主治医イザベラによって、あらためて現実と向かい合い、やがてアイデンティティを再構築していく「リトル・ラルフと〈人形〉」。 こんなふうにまとめてしまうと、まるで臨床記録のように思えるかもしれないが、作者はこれを、経験に裏付けられたイメージと、作家としての斬新なイメージの両方で、あざやかに描き出している。ここに描かれた世界は、あくまでも作者ルービンの想像にちがいないのだが、それが驚くほどのリアリティをもって迫ってくる。 たとえば、 「まるで大海がホースの噴きだし口から海水を放出しようとしているかのようだ。爆発はすぐさま体全身に影響し、手におえない発作をひきおこし、荒々しく凶暴な行動に駆り立てた。このときのラルフィの破壊的な力は驚異的だった。何週間もたまりにたまった感情は、絶え間ない金切り声と凶暴な行動となって発散された」 といった描写。 あるいは、 「きれいな塔だよね、サリー」 「どうしてそう思うの、ジョーディ?」 「高くて静かでひとりぼっちだから」 といった部分。 作者はそのまま精神を病む登場人物その人といっていい。結局、自分が対する患者の立場に身を置かなければ、精神医は精神医としての義務を果たすことができないのだろう。医師はぎりぎりのところまで患者に接近していく。ここに、爆発にも似たショート(短絡)現象が起こる。その火花の恐ろしく、すさまじく、また美しいこと。生と死、存在と無の狭間に浮かびあがる、この情景は過去から現在にいたるまで人々をおびやかし、魅了したものだろう。それはやがて、「自分とは何か」という命題に衝突する。 おそらく精神医というのは、常にこの疑問と対峙しているのだろうと思う。それも患者自身のすさまじい想像力を越える想像力を持って。 この作品の翻訳において、ぜひ断っておかなくてはならないのは「分裂症(病)」という名称についてである。この原語であるラテン語の「スキゾフレニア」は、「人格の分裂」ではなく「連想の分裂」を表しており、長らく改称を求められていた(前述の高木さんはずいぶん前からその運動にかかわっておられた)。ここでは、「デイヴィッドとリザ」が六0年代のものということもあり、人口に膾炙している「分裂症」という名称を用いたが、現在では「スキゾフレニア」「クレペリン・ブロイラー症候群」「統合失調症」といった言葉が使われるようになってきている。十分に注意を喚起しておきたい。 また、最後になりましたが、編集の中西文紀子さんと、つきあわせをしてくださった石田文子さんに心からの感謝を! 二00二年 金原瑞人 八 来年一月に出る予定のマイヤーズの短編集のあとがき 訳者あとがき アメリカの本といえば、白人の主人公、白人の友だち、白人のガールフレンドといった小説を思い浮かべる人が多いと思う。しかしアメリカには、黒人もいれば、メキシコ系の人もいれば、カリブ系の人もいれば、アラブ系の人もいれば、アジア系の人もいる。もちろん、白人がやってくるまえから住んでいたネイティヴ・アメリカン(アメリカ・インディアン)もいる。 この本は、ニューヨーク州マンハッタンの一四五番通りが舞台だ。マンハッタンといえば、とてもはなやかで、にぎやかで、おしゃれな街と思っている人も多いかもしれない。しかしこれはマンハッタンもかなり北のほうで、おそらく普通の「ニューヨーク観光案内」の本には載っていない。観光客には用のない、貧しい街、スラム街だ。住んでいる人々はほとんどがみんな黒人やヒスパニック(中南米やカリブ諸島からの移民やその子孫)。この本にも「ここ住む人の半分は仕事を持っていない。だからみんないつも玄関ポーチにすわるか、なにもしないでただそのへんにつっ立ってる」と書かれている。 たしかに物騒で、いろんな事件が起こる。警官が数人でやってきて、アパートの一室を銃撃したり、不良のグループが気に入らない相手にいやがらせをしたり、麻薬の売人がうろついたり……。 しかし人間の感情、つまり喜び、悲しみ、苦しみといったものはどこでも共通で、この一四五番通りでも、ちっとも変わらない。 生きているときに自分の葬式をやってみるおじさんの話。不運の連続に見舞われているうちに、それが逆転して幸運が続き、好きな女の子をパーティに誘おうとする男の子の話。ほんとうに好きでしょうがない相手がひどいけがを負ってしまう話。不良ににらまれた女の子を助けた男の子が、今度は自分がねらわれるはめになってしまう話。警官が、身寄りのないおばあさんにクリスマスに招待される話。 どこにでもありそうな事件だし、もちろん、日本だって似たような事件や似たようなことが毎日起こっている。それは世界中、どこでも同じなのだろう。 ただ、この一四五番通りでは、それがほかの場所よりも、ちょっと「濃い」。いや、かなり「濃い」。言いかえれば、「熱い」。 その、黒人の住む濃い町を舞台にした、まさに濃くて熱い作品を集めたものがこの本だ。濃くて、熱くて、危険で、クールで、魅力的な町の物語は、安全であまり緊張感のない生活を送っている人々には、まるで映画のように思えるかもしれない。 しかしよく考えてみれば、色の濃い薄いはあっても、やはり同じ人間の生活だ、根本的にはちっとも違うところはない。というか逆に、自分たちの思っていることや感じていることが、ストレートに表現されているようにも感じられたりする。 作者のウォルター・ディーン・マイヤーズは、そのへんを描くのがとてもうまい。マンハッタンの一四五番通りでの事件をリアルに、あざやかに、強烈に描く一方で、世界中すべての人々に同じ感動を伝えてしまうのだから。 マイヤーズの傑作短編集。どうぞ楽しんでください。 最後になりましたが、編集の小島範子さんと、細かい質問にていねいに答えて下さったマイヤーズさんに心からの感謝を! 二00二年十一月十八日 金原瑞人 九 今年のヒット『青空のむこう』 訳者あとがき 死者の世界は日が傾いたまま、ずっと黄と赤と金の混じりあった美しい夕焼けのままで、影も長くのびたまま。夏と秋がいっぺんにきた感じで、ちょっぴり春も混じってるけど、冬の気配はまったくない。 ここにいる人々はだいたいが手続きを終えると、「彼方の青い世界」へいってしまう。ところがトラックにはねられてこの国にきてしまった小学生のハリーは、「彼方の青い世界」にいくことができない。死ぬ少し前、腹立ちまぎれに姉のエギーにぶつけたひどい言葉が心に突き刺さったままなのだ。 そこでハリーは、もとの世界にもどってみることにした。エギーに、なんとかして自分の今の気持ちを伝えて、あやまりたかったのだ。 案内役は、百年以上も前から死者の国にいて、ボタンひとつを手がかりに、顔も知らないお母さんをさがし続けているアーサー。 もう死んでいる人間は、生者の国にもどっても姿はみえないし、声もきこえない。ハリーはエギーに気持ちを伝えることができるのだろうか。アーサーはお母さんに会えるのだろうか。そして、死んだ人々が向かう「彼方の青い世界」とはどんなところなのか。 じつは、この本、まだ草稿の段階で百人ほどのモニターの方々に読んでいただいた。そのアンケートの感想をいくつか紹介してみよう。 ・なんて優しい本なんだろう、そう思いました。人間生きている時は本当に見えない事、ものが多いと思う。せわしなく、殺伐とした現実をまのあたりにする今では特に。そんなとき、ふと、そんな忘れがちになっていたことを思い出させてくれる物語だと思いました(二八歳・女性) ・とてもおもしろかったです……ハリーとアーサーが、生きている世界に幽霊として来たとき、ハリーが学校や自分の家で味わう孤独感や、死者としての実感を感じるところは、とても切なかったです(二二歳・女性) ・「失ってみて初めて気づいた大切なもの」を教えてくれた本です。「自分がいるべき場所はどこなのだろう?」と考えさせてくれる本です。ハリーの心がいきいきとした言葉で(幽霊に「いきいき」とは妙なたとえかもしれませんが……)描かれた、少しせつない、でも心が暖まる物語でした(三九歳・女性) ・……それらすべてが切なくも、心暖まる、今まで読んだ本ので最高のものでしょう。この本を何十人という人に薦めてあげたい。たくさんの人に読んでほしい。死は新たな出発点であると改めて思いました(一六歳・男性) ・最初に表紙とタイトルを見たとき、また今流行のいやし系の本かと思い、ずっと読むのをサボっていた。感動の押しつけのような本はニガテなのだ。しかし読み始めたら面白い……明るく楽しい気持ちにさせながら、じわりじわりと何かを心に残してくれる、そんな本だった(三九歳・女性) ・いいストーリーでした。ハリーに会えて良かったです。ありがとう!(三七歳・男性) ・とてもとても感動し、いっぱいいっぱい泣きました。生きていることのすばらしさを改めて考えさせられた作品でした(一六歳・女性) モニターの方々、とてもよく読んでくださっていて、訳者が偉そうなことを書くまでもなく、この本の大きな魅力はほぼこれらの感想で言い尽くされていると思う。 しかしこのままでは訳者としてちょっとしゃくなので、この作品の魅力について、少しだけ付け足しておきたい。 まず、全編に流れるユーモアが快い。ある意味、悲しく切ない物語なのだが、ハリーはいつもユーモラスにまわりをながめている。その雰囲気がとてもいい。 それからもうひとつ、いいなと思うのは、ユニークな人物が脇を固めていることだ。たとえば、なにをいわれても「うぐっ」としか返事をしない謎の原始人「ウグ」。街灯の上から愛犬をさがしているおじさん。そしてなにより、ハリーの最悪の敵、ジェリー。ハリーがジェリーの作文を読む場面のすばらしいこと。 最後にもうひとつ。これは冒険小説だと思う。そうそう、モニターの方でひとり、そんなふうな感想を書いてくださった方があった。ハリーは死んでから、また新しい冒険を始める。それは「取り返しのつかないもの」を取り返すための冒険であり、自分を確認するための冒険でもある。普通は生きている者が死をかけて自分を試すのが冒険なのだが、この作品では、死んだ少年が希望を求めて自分を試す。そうしてハリーが得たものはなんだったのか。それが、最後に明かされる。 ・行くときがきた、もう二度ともどることはない。こう思った時のハリーの気持ちを考えると、とてもとても悲しく、胸がこおりつきました(三一歳・女性) このラストシーンは、ある意味悲しく、ある意味希望に満ちている。いや、希望に満ちているからこそ悲しくなってくるのかもしれない。 作者のアレックス・シアラーは三十以上もの職業を転々とした作家で、一般向け、子ども向け合わせて十冊以上の本を書いているが、まだまだこれからが期待できそうだ。 なお、最後になりましたが、モニターの方々、編集の深谷路子さん、翻訳協力者の小林綾子さん、原文とのつきあわせをしてくださった松山美保さんと宮坂宏美さんに心からの感謝を。 二00二年四月十日 金原瑞人 十 クリスマスにちなんで『クリスマスの天使』のあとがきを 訳者あとがき メリー・クリスマス! 日本でもクリスマスが近くなると、街や家のなかがクリスマスっぽくなって、なんとなく気持ちがうきうきしてきます。アメリカではクリスマスの数日前から学校が休みになり。子どもたちはいろんなことをして遊びながら、クリスマスがくるのを楽しみにまつのです。一年のうちで最高の休みです。 ところがエリックにとって、その年のクリスマス休みは最低でした。友だちが旅行にいってしまったり、かぜで寝こんでいたりで、遊び相手がひとりもいないうえに、お父さんもお母さんも仕事ででかけしまうし。それにむちゃくちゃに寒くて、とても外では遊べない。いつもならテレビをみたり、ゲームをしていれば楽しいけれど、毎日毎日、朝から晩までそればかりやっていると、さすがにいやになってきます。 十一時になるころには、たいくつでたいくつで頭がおかしくなりそうだった。こんなのクリスマスじゃない! 窓から顔を出して「助けて! もう、おしまいだ!」と叫びかけたとき、玄関でドアをノックする音がした。 そう、このノックの音から、まるで悪夢のようなエリックのクリスマス物語がはじまるのです。 最初はただ、害虫や害獣を駆除しにやってきた男の人とネズミをやっつけるという、おもしろそうな暇つぶしですむはずでした。ところが、寒さのせいで外からマンションのなかにやってきた一匹のネズミをめぐって、エリックはしだいにその男と対立するようになり、ついに……。 クリスマスらしくない物語ですって? いえいえ、不気味でこわい話なのですが、またとてもクリスマスらしい、すてきな物語でもあります。それは読んでのお楽しみ! 少しだけ説明をしておきましょう。害虫などの駆除をしにやってきた男の名前は、英語ではゲイブリエルと発音するのですが、ここではガブリエルと訳しておきました。なぜかって? これも読んでのお楽しみです。それから、この男の電話番号、ちょっとしたパズルになっていると作者が書いていますが、これをとくのは日本人にはちょっとむりかもしれません。携帯電話のプッシュボタンをみればわかるように、それぞれの番号にアルファベットが三つずつ、ついています。2には「ABC」、3には「DEF」というふうに。そしてこれを適当にあてはめて考えると、「CALL GOD」(神様に電話)となります。 さて、最後になりましたが、編集の長岡香織さん、翻訳協力者の天川佳代子さん、原文とつきあわせをしてくださった谷垣暁美さんに、心からの感謝を! 二00二年十月十五日 金原瑞人 |
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