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一 料理について 前回、『檀流クッキング』や『食は広州にあり』の話を書いたら、何人かから、「え、料理できるんですか?」というメールがきた。ここではっきりさせておくが、料理は、かなり謙遜して、まずまずの腕である。新巻の鮭はいうにおよばず、一メートルほどの鰤も自在にさばける。もちろん、鰤の頭を半分に割るのはできないし、骨にはもったいないほどの肉がついてしまう。 これは父親の影響らしい。うちの父親は一時、釣りに凝ったことがあって、土曜日、仕事がはねるとすぐにスクーターや、のちに自家用車で、瀬戸内海までいき、夜釣りを楽しんでいた。そしてたまに息子を連れて行った。息子というのは、いうまでもなく、これを書いている本人。海釣りの好きな人は知っていると思うが、大物を釣るなら、船頭に連れていってもらって舟で釣るのが一番。しかしそれでは、まるで船頭に釣らせてもらっているようなものだという場合には、海岸や防波堤や島の岸から夜釣りをするに限る。昼よりは夜のほうが、ずっと大きい魚がかかる。三十五年以上まえ、まだ電気浮きも普及していない頃、父親は「さぐり」という方法で夜釣りをしていた。これは最も簡単な仕掛けで、釣り糸の先に錘と針しかついていない。そして針に餌をかけて、それこそ海の底をさぐるように針を動かしていく。浮きもなにもついていないから、糸(てぐす)から竿を伝ってくる魚の反応だけが頼りだ。これも慣れてくると、最初の当たりで、魚の種類がわかるようになる。一発、カツンとくるのはチヌ(黒鯛)、そのあと、少しして、またカツンとくる、そして三度目に当たりがきたときに軽く合わせるといい……とか。 やがて魚が少なくなり、さぐりで釣れる岸辺の魚は少なくなり、釣り人たちは電気浮きを使って、沖のほうに仕掛けを流したり、リールを使った投げ込みをするようになるが、父親はさぐりが好きだった。暗い中で、魚のいそうなところをねらって、ヒュン、ヒュンと竿を振る父親の姿は、いまでもよく覚えている。たまに錘が水面を割るときに、夜光虫が青白く散ることがある。それもよく覚えている。 父親は釣りが大好きだったが、釣って帰った魚はよく自分でさばいていた。そしてそのうち、息子にさばかせるようになった。というわけで、フナ、ハヤといった川魚から、チヌ、メバル、ベラ、鰤といった海の魚まで、息子はしっかりさばけるようになっていった。もちろん、タコ、イカもさばけるし、鰈の五枚おろしもOK。ついでに包丁も研げる。 父親はすき焼き、ちり鍋といった鍋物だけでなく、いくつか得意料理を持っていた。たとえば、ハヤの南蛮漬け、牛肉の醤油煮込み、ウズラの串焼き、味噌うどん炒め、タラの真子の煮付け、きんぴら、祭寿司、などなど、あの頃の男性のなかでは、かなりレパートリーは広かったと思う。もちろん失敗も多く、白菜の漬け物を、ポリバケツに三杯ほど作って、すべて腐らせてこともある。また料理道具を買うのが大好きで、料理屋で使うようなおでんの四角い鍋(なかが八つくらいに仕切ってある)、ミンチを作る器具(当時はまだフードプロセッサーがなかった)、中華で使うでっかくて火力の強いガスレンジ、三十人分のカレーが作れる寸胴、電気餅つき器、精米器などなど。ほとんどが一度か二度使ったきり倉庫に眠っていた。 とにかくうちの父親は、客を呼ぶのが好きだった。次々に客を呼び、料理を出し、酒を勧めるのが大好きだった。そして「うまかった」とか「ありがとう」といわれるのがなによりうれしかったらしい。 そんなわけで、息子もその血をついで、客を呼ぶのが好きで、料理をするのが好きになってしまった。浪人の頃、受験勉強で忙しいはずなのに、鶏を一羽ゆでては友達を呼んで食べていたし、大学院の頃もよく仲間を呼んではパーティを開いた。たとえば、そのメニューは次のような感じ。 ・イカの塩焼き、クラゲの酢の物、ブタのレバーの煮付け。 ・挽肉に香料などをまぜて練り、薄焼き卵で巻いて、蒸し上げたもの。 ・スープ(コーンポタージュ、あるいはコンソメ) ・鶏を一羽そのまま蒸したもの。 ・ブタの角煮。 ・チャーハン。 ・胡麻餡を長芋をすり下ろした衣で包んであげた、饅頭。 なぜか中華が多かったが、そのほかにも色々試したことがある。 ともあれ、こういった料理好きはある種のサービス精神からくるものだと思う。その意味では、父親も息子も、客を歓待するのが好きだった。 そしてもうひとつ考えるのだが、息子の翻訳好きは、やはり喜んでもらいたいというところからきているらしい。自分が読んで面白かったものを、他人に勧めて、読んでもらって、「よかった!」といってもらう……それがうれしい。自分の大好きなものを提示して(ときには押しつけて)、人にほめられたり、喜ばれるのが好きらしい。まあ、考えようによっては、はた迷惑な存在かもしれない。 そういうふうに見ていくと、コックも作家も翻訳家もみんな同じに見えてくる。「どうだ、これは!」といって客に自分の作品をつきつける……この快感ったらない。万が一、相手が「とても感動しました」とでもいってくれたら、それこそ最高である。なかには魯山人のように偏屈な連中もいるが、それはそれでまた無邪気で面白い。自己主張とサービス精神(他人に評価されたい意識)、これこそあらゆる創造力の源のような気がするのだが。 二 'I'について(続き) 前回、'I'について書いたところ、ちょっと反応があって、そのなかから面白いものをいくつか選んで紹介しておきたい。 まずは、ひこさんから。 「I」というか人称に関してはむずかしいね。日本の場合だと、「私」「ワタシ」「わたし」「俺」「オレ」「おれ」「僕」「ボク」「ぼく」みんな違うし、日常ではもう使わない「拙者」や「わし」なども決して死語ではないし。そして、一人の人がそれを使い分ける。私が思うにたぶんそれは、「I」の場合、「個」が別の「個」と接したり距離を取ったりすることで初めて「個」は存在すると考えているから、「I」だけでもコミュニケーション出来る。一方この国の場合は、コミュニケーション以前に相手に対して、己の位置づけをする必要があるから、「ぼく」だけを使う人は、「オレ」や「私」を使わないのが「ぼく」というやつですと表明している。また使い分ける時は、「あんたとの距離はこれくらいだよ」と先に表明する。物語作るときも、これにまず悩むしね。そいつのキャラ立てるのはどれかと。使い分けるやつなら、どの時どう使い分けるかと。つまり、そこでも、相手の存在以前に人称の段階で「個」をある程度決定してしまう。 ひこ・田中 それから数日して、またひこさんからメールがきた。 そうそう、この前の、日本語の人称の話。 今日たまたま宇多田の新曲聴いて思い出したこと。 二人称で。 彼女はデビュー曲で、彼のことを「君」て唄ったのね。「あなた」ではなく。これはどの女の歌手も意識していないかもしれないけど、それ以降、彼氏を「あなた」ではなく「君」と呼ぶ歌詞が増えたのよ。倉木も、アユもその他たくさん。彼氏を「あなた」ではなく「君」と表現するのは、日本語では全然違うやない。彼との距離や関係性への意識が違う。もちろん、「君」のほうが、能動的。 たぶん宇多田自身はその違いを意識してなかったと思う。バイリンガルがユーを日本語にするとき「あなた」でも「君」でもいいわけで、彼女は無意識に彼との関係や距離から「君」を採用した。そして、日本の女の歌手も、リスナーも無意識にその「君」の心地よさを受け入れたんだと思う。 「あなたに あげる わたしを あげる」なんて、げ〜。です。 ひこさんらしい切り口だと思う。 そして次は、元大学院生の段木さんからのメールを。 昨年一次選考通過者の原稿を読んでいたときに、「俺とおれとオレ」と、いろいろだなあ、と思ったんですよね。英語のIは文法屋さんのおもちゃにはならない。一人称単数主格を表すもの、で終わっちゃうから。じゃあ意味論ではどうかというと、これも大して問題にならない。文字になると、特に文脈から切り離されるとIは一人称単数主格としてしか存在しないような気がする。社会言語学、あるいは談話分析なんかでは気にする人もいるだろうけど、それはあくまでも他の人称との比較だろうなあ。 まるで無色透明のような人称代名詞だけど、話し言葉ではいろんな色を帯びると思う。その辺のニュアンスが日本語では私やぼくやオレになるのかなあ?なんて思いました。文字になると制限があるからどうしても伝わりにくいけど、たとえばBBだって(『ゼブラ』というハイム・ポトクの短編集のなかの一編)、朗読だったら性別は間違わない。もちろん文字を使うからIでだますことができるわけだけど。 「俺、おれ、オレ」通訳の人はこういうことで悩んでる暇はなさそう。 視覚に訴える文字を扱う人の悩みだ。話すのを聞いていて、あ、この「おれ」はカタカナだな、と思うことはあるけれど。これも文字の影響だなあ。 一年くらい前に人称の語順で悩んでましたよね?今日辞書を見ていたら、I and Thouという哲学書の題名が飛び込んできました。中身は知らないけど、この題名を見るとIがものすごく強調されているように思えます。とすると、話し手が何が何でも自分を先に出したいという気持ちであればI and she went to schoolなんて言うこともありそうです。もっともふつうは強調構文を使うんだろうけど。 英語のネイティヴ・スピーカーの感覚のない私にはあくまでも推し量ることしかできない。だから私は英語の研究なんてやらない、と思ったんですよね、修論のテーマを決めるとき。悩むなら日本語でやるに限る。長くなってしまいました。この辺でやめます。 段木さんはとても優秀な学生で、修士論文は社会言語学だったような気がする。たまに面白い切り口をみせてくれる。「英語のIは文法屋さんのおもちゃにはならない。一人称単数主格を表すもの、で終わっちゃうから」という指摘は、ごくごく当たり前のことなんだけど、へえ、と感心してしまう。とくに「文法屋さんのおもちゃにはならない」という表現がいい。 ともあれ、'I'の問題は面白いと思う。ぼくが中学生の頃はまだ 'I am a boy.' なんていう英語の例文があって、その下に「私は少年です」という妙な訳文が載っていた。そして、それをなに疑うことなく、そのまま試験問題の答えに書いていた。小学生の男の子が「私は少年です」といってたら、やっぱり、おかしいかな。あと、鉛筆を手に持って「これは、鉛筆です」というのも変かな。 ともあれ、この'I'の問題、まだまだ自分なりに考えていこうと思っているので、よろしく! 三 あかね書房の時代 もうずいぶん前の話になるが、いまはもうなくなってしまった佑学社という出版社から訳書を出したことがある。『キング牧師』と『十二月の静けさ』の二冊。そのころ佑学社の編集者は三人。千葉さん(いまは北海道在住の翻訳家)、奥田さん(去年、リテラルリンクという編集工房を立ち上げたところ)、小島さん(現在、小峰書店の編集者)。たしか朝日新聞で「ヤングアダルト招待席」を担当していた頃だと思う。当時、なぜか神保町の佑学社にふらっと寄って、三人とあれこれだべっていたのをよく覚えている。不思議と居心地の良いところだった。やがて編集長だった千葉さんがやめて、それから奥田さんがやめて、小島さんがひとり残ったところで会社が倒産して……小島さんは大変だったと思う。 ちょうど佑学社で『キング牧師』を出した頃だっただろうか、あかね書房の金原さんという女性の編集者から、翻訳書の企画があるのですが、よかったら訳してみませんかという話があった(このへんの話はまえに一度書いてますね)。ぼくは、よろしくお願いしますと、喜んで返事をしたのだが、残念ながらこの話は実現しなかった。それから数年して、ふたたびあかね書房の編集者から連絡があった。今度は三浦さん(その頃の編集長は広松さんで、広松さんはいま偕成社に)。ベッツィー・バイアーズの『18番目の大ピンチ』を訳さないかという話。この本がまた痛快で楽しい。というわけで、あかね書房での最初の仕事がこれになった。そしてその後、『ゆうかんなハリネズミ、マックス』『マクブルームさんのすてきな畑』『マクブルームさんのへんてこ動物園』『トラねこマーチンねずみをかう』『ポピー:ミミズクの森をぬけて』と続く。 三浦さんと仕事をして驚いたのは、ぼく以上に英語が読めることだった。今までにいろんな編集者と仕事をしてきて、いろんな編集者に会ってきた。どの編集者もそれぞれに持ち味があって、一緒に仕事をするのが楽しかったし、いまでも楽しく仕事をしているのだが、英語がいちばん読めるのは三浦さんだと思う。じつは今年、あすなろ書房からマーク・トウェインの『トム・ソーヤ』がぼくの訳で出ることになっていて、その編集者が三浦さん。あちこちの誤訳にビシーッと赤が入っていて、こちらはひたすら恐縮。おかげでこの『トム・ソーヤ』は画期的な翻訳になると思う。というのも、いままでの翻訳がすべて誤訳してきた箇所がいくつか訂正されて出版されるのだから。これもすべて三浦さんのおかげである。 さて、その三浦さんがやがてあかね書房をやめ(現在、フリーの編集者)、そのあとを重政さんが受け継ぐことになる。というわけで、『ポピー』は三浦さんの編集で、その次の『ポピーとライ』は重政さんの編集ということになる。 今回のあとがきは動物ものを四つ。アヴィの『ポピー』『ポピーとライ』、ジャネット・テイラー・ライルの『リスの王国』、それからディック・キング=スミスの『ゴッドハンガーの森』と『おふろのなかからモンスター』。「ポピー」シリーズ以外の三つは講談社から。講談社からは『MIKO 北の狩人』から始まって、去年の『難民少年』まで数冊訳書が出ていて、今年も三冊ほど出る予定。講談社からの本についてはそのうちゆっくりまとめるつもり。 ともあれ、五冊のあとがきを! 四 動物もののあとがきを五つ 訳者あとがき 作者のアヴィは、この本を書くことになったきっかけについて、こんなことをいっています。 「ぼくの本は、それぞれに書くことになったきっかけ、ってのがあってね。この『ポピー』にも、そのきっかけがあるんだ。ある本屋の安売りのコーナー(アメリカでは、ふつうの本屋でも安売りの本を売っているところがあります)をあさってたら、ちょっとおもしろそうな本があった。アメリカワシミミズクの本でね、森のなかで地面に落ちていたところを動物学者がみつけて育てる、そんな話だった。おそらく巣から落っこちたんだろう。その学者さんはミミズクを育てて、そのうち、森のなかで自由に暮らしていくことを教えてやるんだ。 この本がとてもおもしろかったもんだから、ぼくもミミズクの話を書くことにした。ところがストーリーを考えてると、ほかの登場人物(登場動物?)のほうが前に出てきてしまうってことがよくある。『ポピー』はまさにそれで、ミミズクの話のはずだったのが、シロアシネズミのポピーが主人公になっちまったんだ」 こうしてできあがった『ポピー〜ミミズクの森をぬけて』は、かわいらしいシロアシネズミのポピーが、みんなからおそれられているでっかいミミズク(アメリカワシミミズク)のオカックスを相手に大活躍する、冒険小説です。そう、読みだすとやめられない、はらはら、どきどきの物語。 恋人といっしょにいるところを、オカックスにおそわれ、あやうく殺されかけるところからオカックスの正体をつきとめようと、ひとりで森のなかにふみこんでいくことにしたものの、次々に……と、まさに最初から最後まで一気に読ませてくれます。息もつかせぬ冒険小説というのは、こういう本のことなのでしよう。 この迫力、このおもしろさ、このうまさ。そして、かわいいけれど勇気いっぱいのポピーの魅力。アヴィって、ほんとにいい作家だなあと思います。 それから、オカックスに殺されてしまった恋入から教わった「自分の目でみて、自分の頭で考える」という態度で、ひとつひとつ問題を解決していくポピーの成長ぶりもしっかり描かれています。 アヴィ自身、こんなことをいっています。 「耳をすませて、まわりの世界をようくみることが大切だね。なぜそうなるのかと理解しようと努力すること。他人のくれた答えで満足しちゃだめなんだ。みんなが正しいとか正しくないとかいってるからといって、それを信じちゃいけない。自分で考え、自分で答えをみつける、それがだいじなんだ」 これは、小説を書きたい人へのアドバイスとしていっているのですが、そのまま、この『ポピー』という物語のテーマでもあります。そんなことも考えてみてください。さらに、この本が楽しくなるでしょう。 ついでですが、「アヴィ(AVI)」って名前、ちよっとへんですよね。もちろん本名ではありません。なんでこんなペンネームにしたのかというと、「ふたごの姉(妹?)が一歳くらいのとき、ぼくを『アヴィ、アヴィ』って呼んでてね、これがそのまま……」ということだそうです。 一九三七年、ニューヨーク生まれの作家アヴィ、ポピー同様、これからもますます活躍してくれそうです。おおいに期待しましょう。 また、最後になりましたが、いつもながら、ていねいなチエックをいれてくださった編集の三浦さんに(ヤマアラシのじいさんのへんてこりんな言葉の数々については、とくにたくさんいいアイデアをいただきました)心からの感謝を! 一九九八年 四月十二日 金原瑞人 訳者あとがき 『ポピー――ミミズクの森をぬけて』で、命がけの戦いのすえ、ミミズクのオカックスをたおしたポビー。今回は、オカックスに殺されてしまつた恋人ラグウィードのことを知らせようと、ラグウィードの両親に会いにいきます。ところが、ラグウィード一家の巣は、ビーバーたちのために水の底にしずもうとしていました。さて、ポビーは……? アヴィという作家はほんとうに冒険物を書くのがうまい。これでもかこれでもかといわんばかりに、次々にたいへんな事件を起こして、最後の最後まで読者を引きずっていく、そのうまさ……そしてそれを、最後の最後にきちんと解決してしまううまさ……それだけでなく、登場する人物、いや動物のユニークで生き生きして魅力的なこと……それはポピーの敵になるビーバーたちにもいえます。 ときどきアヴィの冒険物語って、すっごくおもしろいけど、そのおもしろさの秘密って、どこにあるんでしょうね、とたずねられることがあります。ぼくはそうきかれるたびに、首をかしげて、なんなんだろうなと考えてしまうのです。それはいまこうやって「訳者あとがき」を書いているときも、そうなのです。だって、おもしろいんだもん……そんな答えしか思いつかないのですから。そりゃ、ストーリー展開のうまさとか、登場動物の魅力的なこととか、いろいろあることはあるんだけど、「ほんとうのおもしろさ」というのは、そういったものを超えたところにあるような気がするのです。 『ロビンソン・クルーソー』を書いたデフォー、『宝島』を書いたスティーヴンソン、『ジャングル・ブック』を書いたキプリング、みんなそういう「なにか超えたもの」を持っていたように思います。 アヴィのおもしろさの秘密……それはアヴィ自身にもわかってないのかもしれません。アヴィの作品を読むたびに、そんな気がします。 最後になりましたが、翻訳協力者の天川佳代子さんとお世話になったすべてのみなさんに心からの感謝を! 二〇〇〇年 四月一日 金原瑞人 訳者あとがき 金原瑞人 ジャネット=テイラー=ライルの『リスの王国』、いかがだったでしょうか。 平和を愛する知性あるリスたちが、ささいな事件をきっかけに思わぬ方向へ走りだし、ついに人間をおそいはじめる。そしてまた平和な町で、ささいな事件をきっかけに人間たちがリスを殺そうとラィフルを持って森にでかけていく。この森の上の動きと森の下の動きを、交互に追いながら物語は進んでいきます。 そして戦いへの道をまっしぐらに進んでいく仲間たちをなんとか止めようと手をつくすリスのウッドバイン、リスたちを撃ち殺すために作られた捜索せん減隊を必死に止めようと知恵をめぐらす少女アンバー。はたしてウッドバインとアンバーは戦いをくい止めることができるか……物語はいよいよ、クライマックスへ。 ライルはこの物語のなかで、リスの世界と人間の世界の衝突というおもしろい設定を使って、戦いのおろかさとおそろしさ、そして戦いにむかってつき進む力をおしとどめることのむつかしさを、みごとに描いています。 といっても、説教くさくて暗くてこわい話ではありません。いつもぼんやり夢をみているリスのウッドバイン、その姉でしっかり屋のブラウンナット、また、冒険心のかたまりで行動派の女の子アンバー、その弟でどこかすっとぼけたところのあるウェンデルなど、それぞれの登場人物が生き生きと、ときにユーモラスに描かれているのです。(とくにアンバーの弟のウェンデルは、かわいくて、おかしくて、ぼくの大のお気に入りです!) ジャネット=テイラー=ライルは、才能にめぐまれた、ほんとうにうまい作家だと思います。まだそうたくさん書いているわけではないのですが、これまでの作品はどれも驚くほどよくできています。『エルフたちの午後』で、みすぼらしい家の裏庭にある妖精たちが住むという小さな村をきっかけに、貧しく大きな問題をかかえた少女ともうひとりの少女の触れ合いをあざやかに描いたかと思うと、次の『トウィルのランプ魚』では、赤く光る魚の泳ぎ回る不思議でちょっとさびしい海での出来事をファンタスティックに描いています。(ランプ魚というのは、古代魚の一種で、水車みたいに大きくて丸く、淡い緑色の目とピンクの鱗、ふわふわのひげの生えた魚で、月がなく晴れて風もない夜に岩間に姿を現し、晴い海のなかで赤いランプのように輝く……。) こんなにもタイプの異なったユニークな作品をふたつ書いたあとで、今度は『リスの王国』。この作家の想像力には舌をまいてしまいます。いまアメリカで目のはなせない作家のひとりであることはまちがいありません。 さて、ロードアイランドに住んでいるライルさん、次はどんな作品を書いてくれるのでしょうか。 最後になりましたが、あれこれおせわになった編集の藤村さんと千葉さんに心からの感謝を! 訳者あとがき 『べイブ』という映画の原作、『子ブタ シープピッグ』で一躍有名になった、ディック・キング=スミスの新作だというので、じゃ、寝ころんでのんびり楽しもうか、と思って読みはじめたのが夜の十時くらい。そして、三十分ほどしてふと気がつくと、布団の上にいたはずが、机に向かって読んでいた。それから数時間、読みおえて、思わずため息をついた。 かわいい子ネコだと思って注文したら、凶暴なヤマネコが届いた。そんな感じだった。最初から最後まで、すさまじい迫力に圧倒されてしまったというのが正直なところだ。 もし、今までキング=スミスが書いてきたような、愉快で、ユーモラスで、楽しい物語を期待しているのなら、この本は読まないほうがいいかもしれない。 しかし、そういった作品を次々に書きながら、キング=スミスが書きたくてたまらなかったものがなんだったのか、それを知りたい人には、ぜひ読んでもらいたいと思う。 ここには、彼のまったく知られなかった一面がある。そして彼の、心の叫びがきこえてくるような気がする。ぼくはキング=スミスが大好きで、これまで何冊か彼の作品を訳してきたが、『ゴッドハンガーの森』を読んだとき初めて、この人に会ってみたいと思った。 簡単にいってしまえぱ、これはゴッドハンガーの森に住む動物たちの物語である。 まず印象的なのは、その動物たちの生態が、たんねんに細かく描かれていることだろう。オオガラスのロフタス、ハシボソガラスのダーシー、コキンメフクロウのユーステス、ケナガイタチのリッピン。……登場するすべての鳥や獣が、まるで記録映画を観るかのように、あざやかに、生き生きと、そしてリアルに描かれている。キング=スミスの、動物たちを描く正確さと迫力には、ただただ驚くほかない。この本を訳すにあたって、かなりの数の参考書にあたったが、そのたびに、作家というものは、ここまで調べて、ここまで観察して書くものなのかと、感心したものだ。 また、その中心にある「食物連鎖」がきっちりと書きこまれている。強い動物(賢い動物)が弱い動物(愚かな動物)を食べ、そのうちその強い動物も死んで、虫たちに食べられ、その虫も小さな動物に食べられ、小さな弱い動物は……という世界が、みごとに描かれていて、これがこの本のひとつのテーマになっているのだ。 ここには、「死」と背中あわせの「生」、「生」と背中あわせの「死」が、くり返し出てきて、容赦のない厳しい自然の世界をまざまざとみせてくれる。 たしかに残酷な世界かもしれないが、それは文明というものに慣れすぎた人間の見方にすぎないのかもしれない。この本を読んでいると、そんな気がしてくる。動物たちは、そういった人間たちのおせっかいな思いとはまったく相容れない、別の世界に住んでいるのだから。 そして、ひたすら本能にしたがって必死に生きている動物たちを、勝手気ままに殺していく人間がいる。 キング=スミスの心のなかには、そういう人間に対する強い怒りがわだかまっていたのだろう。この本のなかでは、生きるために、殺し、殺されていく動物たちが描かれるいっぼう、なにかに憑かれたかのように、次々に森の命を奪っていく、狂ったような人間が描かれていく。 そのぶつかりあいも、この本のテーマのひとつといっていい。 ここには、キング=スミスの、残酷な入間への激しい怒りと、与えられた生をひたすら生きている動物たちへの共感があふれている。 また、この物語の背景には、キリストを思わせる「救い」のテーマも流れているが、これはキング=スミスの痛々しいまでの「祈り」の現れなのかもしれない。 それはタイトルにも表れている。この作品の原題は『ゴッドハンガー』。「ゴッド」はいうまでもなく「神」、「ハンガー」は「山や丘の斜面に広がった森」。つまり、日本語のタイトルは『ゴッドハンガーの森』としておいたが、『ゴッドハンガー』だけで「神の森」ということになる。作者がどんな気持ちでこのタイトルをつけたのかは、読者の想像にまかせたい。 『ゴッドハンガーの森』は一九九六年にイギリスで出版されて、「新しい方向を追求したキング=スミスの意欲的な作品」という高い評価をあちこちで受けてきた。七十歳を越えて、さらに新しい作品を作りだそうとする彼の姿勢に、心からの拍手を送りたい。 (作品中、「スカイマスター」の正体だけが最後まで明かされないが、おそらく“golden eagle”と思われる。イギリス最大級の猛禽類で、後頭部および後頸部に金色の羽が生えている。日本ではイヌワシといい、天然記念物になっている) 最後になりましたが、文体をはじめ翻訳で協力してくださった久慈美貴さん、原文とのつき合わせをしてくださった中力千詠子さんに、心からの感謝を。 一九九ハ年三月九日 金原瑞人 あとがき 大嵐のとき海辺に打ちあげられた、ふしぎな卵。 カースティとアンガスの姉弟が持って帰って、湯ぶねに浮かべておいたら、恐竜が生まれた。ふたりは大喜び。 「大きさはね、生まれたての子ネコくらいだけど、すがたは大ちがい。すぐ目についたのは、頭ね。水からちょこんとつきだしてて、その下にながぁい首がつづいてて、その頭の形がまた、馬そっくりなの……」 こんな恐竜が湯ぶねで、すいすい泳いでいる。 ふたりはうれしくて楽しくてしょうがない……けど、次つぎにこまったことが! えさはどうする。 名前はどうする。そもそも男なのか女なのか、それもわからない。 このまま湯ぶねで飼うわけにもいかないし。海ににがしてやるのもいやだ。 そこに登場したのが、おじいさんのガミー。ガミーというのは本名じゃない。いつもガミガミうるさいから、そんなあだ名がついたのだ。ところがガミーおじいさん、その恐竜をみて目を輝かせた。 「この目で本物をみようとは、思いもせんかったわい」 というわけで、カースティとアンガスとガミーの三人は、その恐竜を育てることにした! ところが、またまた次つぎにこまったことが……さてさて、この三人の恐竜育て、どうなることやら……。 いまのイギリスで動物ものを書かせたら、おそらく最高にうまいディック・キング=スミス。『子ブタシープピッグ』『ゆうかんなハリネズミ、マックス』『ゴッドハンガーの森』と、いろんな動物をとりあげて、いろんな物語を作ってきました。どれもこれもとにかくおもしろくて、キング=スミスは、「一九九一年のイギリス最高の児童文学作家」に選ばれています。 そのキング=スミスが今回取りあげた動物は、なんと「恐竜」! 今までにも、ヒツジの番犬の役をするブタ、ネズミを飼いたくなったネコといった、変な動物をえがいてきたキング=スミスが恐竜をえがくとどうなるか。どうぞ、ゆっくり楽しんでください。 好奇心おうせいなカースティ。いつもおなかをすかせていて、恐竜のえさまで、うらやましそうにみつめるアンガス。子どもにかえったみたいに胸をおどらせて、大活躍するおじいさん。そんな三人に家のなかを引っかきまわされて、やれやれと肩をすくめるおかあさん。 台風が持ってきた卵は、カースティの家に大きな台風をまきおこします。 最後になりましたが、この本の翻訳のお手伝いをしてくださった久慈美貴さんに心からの感謝を! 二000年八月一五日 金原瑞人 |
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