あとがき大全(22) 

【児童文学評論】 No.63    2003.03.25日号

           
         
         
         
         
         
         
    

1.映画関係の本
 メタローグという出版社から出ている書評雑誌「レコレコ」で『イラン映画をみに行こう』とか『ムービー・ラビリンス』とかという映画関係の本を紹介する枕に、あれこれ昔のことを書いていたら、ついつい長くなってしまって、結局は四分の一以下に削ってしまったのだが、ちょっともったいないような気もするので、ノーカット版でここに載せてみようと思う。
 ちょうど中学生の頃、オリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングの『ロミオとジュリエット』を見に行った。当時、岡山の中学校では保護者の同伴なしに映画を見に行く場合は、担任の許可が必要だった……ような気がするが、なにしろ天下の名作である、禁止令の出るはずがない。中学生にとってはかなり刺激的な場面があることを担任が知っていたのか、知らなかったのか(学生はみんな知っていた)、難なく許可は出た。そういえば、ジェーン・フォンダの『バーバレラ』を見に行くと堂々と書いても許可が下りていたところをみると、先生方はあまりそのへんのことに詳しくなかったのかもしれない。
 ともあれ、『ロミオとジュリエット』を見に映画館に出かけた学生は、ほぼ全員腰を抜かしてしまった。『ロミオとジュリエット』ではなく、もう一本の映画を見て。地方は東京とちがってロードショー館というのが少なく、ほとんどの映画館が二本立てだった(このせいで、併映、つまり抱き合わせ専用の映画として配給会社が買ったものもあり、そういう作品は地方でしか見られなかった)。このときの抱き合わせの映画が『あの胸にもう一度』だったのだ。アラン・ドロンとマリアンヌ・フェイスフルのぞくぞくするほどエロティックな場面が次々に出てきて、田舎の中学生の頭はくらくらしてしまったのだった。
 同じような体験をした人はかなりいるらしく、1998年に出た『史上最強のシネマバイブル』(主婦と生活社)にも似た証言がのっている。たとえば
・『ロミオとジュリエット』 中一の時、彼女と一緒に見に行くつもりだったが、同時上映の『あの胸にもう一度』がいやらしいと彼女の母親に反対され、ひとりで見に行った。感動しました(♂・33・会社員)
・『あの胸にもう一度』 もうすご〜い強烈なベッドシーンがあって、アラン・ドロンがあんな格好するなんて恥ずかしくて……。でもちょっとあこがれて……。『ロミオとジュリエット』の併映だったけど、『ロミオ〜』もオリビアの胸の大きさばかり感心していて、中3だったし、目覚め始めていたのかなあ(♀・33・OL)
 この『史上最強のシネマバイブル』は昔、朝日新聞の「ヤングアダルト招待席」でも紹介したのだが、映画関係の本としては群を抜いておもしろい。批評家や評論家の映画評ではなく、素人ばかりが、邦画・洋画2000本にいろんな感想を寄せているのがいい。とにかく読んでいてあきない。
 ちなみに『バーバレラ』には次のような感想が寄せられている。
・こういうエロチックなSFが、このごろ少なすぎる。愛と勇気と感動のスピルバーグ調には、もうあきたんだい(♂・25・会社員)
・デュラン・デュランって、これに出てくる悪い博士から名前を取ったんだよね(♂・20・美容師)
・ベトナム反戦コンサートで来日したジェーン・フォンダをみながら、「フーン、3年前は彼女がバーバレラをやっていたんだなー」とつくづく感無量の境地だったのでした(♂・36・公務員)
 さてさて、やがて、高校に入り、しばらくしてのめりこんだのが、ピエール・ド・マンディアルグというフランスの幻想文学作家(『エマニエル夫人』が匿名で出版されたとき、作者はこの人ではないかと噂されたこともあった)。このエロティックで残酷で不気味な物語の名手には、かなり長いことお世話になった。それからさらにしばらくして、『あの胸にもう一度』の原作が、マンディアルグの『オートバイ』だということを知った。あのときのショックと喜びは今でもよく覚えている。はいはい、白水社から出てます。先日、川上弘美、佐藤多佳子、東直子という豪華メンバーで飲みにいって、その手のいやらしい話になったとき、さりげなく『あの胸のもう一度』のストーリーを紹介したら、川上さんが、「あら、『オートバイ』と同じじゃない」と指摘。おお、ここにもマンディアルグを読んだ人がいたかと、ちょっとうれしくなってしまった。川上さんは昔のSFにも妙に詳しく、きいてみたら、高校の頃、SF研究会みたいなところに所属していたらしい。ちなみに『オートバイ』は白水社の「uブックス」から出ている。
 高校から大学、大学院にかけて、幻想小説はかなり読んだ。SFもかなりあさったものの、やはりハインラインやアシモフよりはブラッドベリやJ・G・バラード、ミステリもかなりあさったものの、やはり松本清張や水上勉よりは中井英夫や夢野久作が好きだった。そしてマンディアルグによって目覚めた嗜好はそのうち、丸木・度・佐渡(なんか、すごい変換だったのでそのままにしてしまったけど、マルキ・ド・サド)、ザッヘル・マゾッホへと進んでいき、ジョルジュ・バタイユという、たまらなく魅力的な作家にぶち当たる。バタイユの『眼球譚』は強烈な印象を残してくれた。またのちに、マーヴィン・ピークの『ゴーメンガースト』というユニークなファンタジーに出会い、ひとりでこつこつ訳すことになったのも(あとで東京創元社から翻訳が出たときには、切歯扼腕したもの)、このへんに原因があったと思う。ちなみに、ピークとの出会いはちょっと変わっている。当時、ちょうど大学院の修士課程にいて、修士論文で取り上げるエドガー・アラン・ポーの原書をさがして、ペンギンブックスの棚をながめていたところ、すぐ隣に分厚い本があったので、なんだろうと思って抜いてみたら、表紙がかっこよくて、裏表紙の説明を読んだら、とてもおもしろそうだった。そして買って読み出したら、それこそとまらない。しばらくポーのことは忘れて、ピークに読みふけっていた。
 とまあ、昔のことを思い出してよく考えるのは、中学高校の頃の好奇心と、なんにでも突っこんでいく節操のなさと、つまらないことにも感心したり感動したりする単純さと、柔らかい(ショックを受けやすい)感性である。この頃に心に刻みつけられた印象は死ぬまで鮮やかに残っている(まだ死んでないので断言できないが)
 中高大でどんな本を読むか、どんな映画を見るか、どんな芝居を見るか、どんな音楽を聴くか、どんなゲームをするか、どんな食べ物を食べるか……そういったことによって、その人の未来はずいぶん変わってくるだろうと思う。そういう年代の人たちに、さりげなく、しかし的確にいい情報を投げていければいいなと考えている。
 ともあれ、今回は映画関係の本の紹介を……というわけで、「レコレコ」では最初にあげた映画関係の本を二冊『イラン映画をみに行こう』と『現代・日本・映画』、それからもうひとつ『世界のCMフェスティバル』を紹介した。どれも、それぞれに驚きに満ちた刺激的な本だと思う。
 ちなみに、マジッド・マジディ監督の『運動靴と赤い金魚』の好きな方には朗報。新作『少女の髪どめ』(ヘラルド配給)がGWに公開の予定。

2.白水社
 白水社で最初に出してもらった本がロバート・ニュートン・ペックの『豚の死なない日』だった。これを訳すに関しては、ちょっと妙ないきさつがある。というのも、はじめて白水社にいったのは、ネイティヴ・アメリカン(アメリカ・インディアン)の作家による短編集を編みたいと思ってるのだが、相談にのってもらえないだろうかという相談で顔を出したのだった。白水社を紹介してくれたのは、フランス語の翻訳をやっている平岡君。
 白水社にいって、短編集の話をあれこれ語って、「じゃ、企画がきっちりできたら、またどうぞ」と編集の人にいわれて、家に帰るとすぐに白水社の別の編集者から電話がきた。『豚の死なない日』という本を知っているかとたずねられ、「とてもいい本で、数年前に読んだけど、お父さんが畜殺を職業にしている部分で、下手をすると差別問題につながりかねないらしく、児童書では出版はむつかしいみたいですよ」と答えたところ、とりあえず要約をまとめてくれないかとのこと。そこで内容をまとめて送ったら、版権を取ったので訳す気はないかといわれ、二つ返事で承知した。そのときの編集者が平田さん。白水社の名物編集者だ。気骨もあり、作品をみる目もある人で、編集のほうもとてもきっちりしていた。訳者にまかせるところはまかせ、ここはまずいというところにはきっちり赤が入っていた。そして出版の運びになり、自分としては初のベスト・セラーになった。この『豚の死なない日』が出たのが1996年。翻訳を始めて、ちょうど11年目のことである。じつはこの本、タイトルをめぐっておもしろいいきさつがあった。
 タイトルと装丁に関してはまったく自信がなく、すべて編集者にまかせることにしてあるので、訳し終えたらとりあえず原題をそのまま訳して添えておくことにしている。そして編集者が気に入らなければ、好きにつけてもらう。装丁もタイトルも帯も、訳者よりは編集者のほうがずっとよく知っている。というわけで、このときも原題をそのまま訳しておいた。平田さんが適当なタイトルをつけてくれると思っていたのだ。ところが本の見本が届いて驚いた。そのまま、『豚の死なない日』となっていたのだ。すぐに平田さんに電話をしたら、「あ、あれで、いいんじゃないの?」との返事。なんか拍子抜けしてしまったのだが、あとあと考えてみれば、あれで大正解だったらしい。
 そして続刊が刊行になるとき、またタイトルが問題になってきた。そのまま訳すと『この空のどこかに』という感じなのだが、これには待ったがかかった。センチメンタルだし、なにより『豚の死なない日』の続きだということがわからない。ちょうどその頃、ある本がベストセラーになってその続刊が出たのに、続刊だということが読者にはわからないために、ほとんど売れないという事件があった。そんなわけで、この続刊はひたすらストレートに『続・豚の死なない日』になった。
 そしてそのあともう一冊、カレン・ヘスの『イルカの歌』が出ることになる。
 というわけで、今月はまず白水社の本三冊のあとがきを。

3.『豚の死なない日』『続・豚の死なない日』『イルカの歌』
訳者あとがき
六〇年代後半、とくに七〇年代に入ってから、アメリカの出版業界ではヤングアダルトという分野が急成長をとげ、またたくまに大きなマーケットになっていく。そしてそのなかからスーザン・ヒントンの『アウトサイダー』や『非行少年』、あるいはロバート・コーミアの『チョコレート・ウォー』や『フェイド』といった傑作が生まれてくるのだが、ロバート・ニュートン・ペックの『豚の死なない日』もその代表的な一冊といっていい。
七二年に発表されると同時にこの作品はアメリカ中で話題になり、その後、ヤングアダルト向けの優れた作品はほとんどがそうなのだが、広く一般の読者まで魅了してきた。また作者ぺックはこの処女作『豚の死なない目』で一躍有名になり、実力派の作家として認められた。テレビシリーズにもなった「スープ」の連作をはじめ、これまでに多くの作品を発表している。
ぼくがこの作品を読んだのは十年ほど前だが、そのときの衝撃は今でもよく覚えている。読みだしたとたんに強烈に引きずりこまれ、最後まで一気に読まされてしまったという感じだった。落ち着いた、いかにもアメリカ的なユーモアのなかにつづられていく、この父親と息子の物語は、にもかかわらず圧倒的な迫力でせまってくる。有無をいわさぬ豪速球といったところだろうか。なんのてらいもなくストレートに語られた成長の物語は「心温まる」といってしまえばそれまでなのだが、「薪のはぜるダルマストーブの前で、熱いリンゴ酒をすすっているような気分にさせられる」という『ニューズウィーク』誌の書評の言葉どおり、アメリカの最も素晴らしい部分が見事に結実した作品といっていいだろう。
 出版部数は百五十万部を越え、今もさらに読まれ続けているこの作品、「モダン・クラシック」という呼び方も決して誇張ではなく、おそらくこれからも読みつがれていくにちがいない。
シェーカー教について簡単に触れておこう。創始者はマザー・アン・リーというイギリス入の女性で、彼女はクエーカー教徒であったが、安息日を破って投獄された際、シェーカー教を開く啓示を受け、一七七四年アメリカに渡って布教活動を始めた。そしてニューヨークを皮切りに「ヴィレッジ」と呼ばれる共同体を作り、アメリカ全土に活動範囲を広げていき、十九世紀中頃の最盛期には共同体は十八個所、信者は六千人にまで増え、当時最大の教団といわれた。シェーカー教徒たちは「手は仕事に、心は神に」という言葉に象徴されるように、労働でもって神に仕えることを最高の喜びとした。また非常に禁欲的なところが多く、フリルはよくないという父へイヴンの言葉にも表われているように、生活はとても質素であった。しかし一方で新しい技術を取り入れるなど、合理精神にも富み、すぐれた農産物や工芸品を生産、販売し、教団を支えていった。十九世紀後半以降、シェーカー教は衰退していき、現在、教団は消減して、一九九二年の記録では、メイン州とニューハンプシャー州に十人足らずの信者を残すのみとなっている。
最後になりましたが、この作品を訳す機会を下さった白水社編集部の平田紀之さん、翻訳協力者の市川由季子さん、原文について相談にのって下さったキム・コーノさんに、心からの感謝を。
(本文中のシェーカー教に関する用語の訳語、および「あとがき」の解説については、ジューン・スプリッグ『SHAKER』(藤門弘訳 平凡社〉、藤門弘『シェーカーへの旅』(住まいの図書館出版局)、セゾン美術館カタログ『シェーカーデザイン』を参考にさせていただきました) 一九九六年一月
         金原瑞人


訳者あとがき
本書は、アメリカで一五〇万部以上を売る大ロングセラーになり、この春刊行された日本語版も幸い多くの読者の共感を得た『豚の死なない日』の続編である。原題は“A Part of the Sky ”(空のどこかに)、作品中のお祈りの一節である。
前作で主人公のロバート少年が、かわいがって育てた豚のピンキーを殺さなくてはならなくなったのが十二月、そして父親が死んだのが次の年の五月。この作品はそれから数週間のちの、ある事件から始まる。
 前作で父親から「おまえしかいないんだ。ロバート。母さんやキャリー伯母さんだけじゃやっていけない……一人前の男になるんだ。十三歳の大人だ」といわれて、ピンキーの死と父親の死を乗り越えたロバートは、本編では一家の中心となって家族を支えていくことになる。しかし牡牛のソロモンが死に、干ばつが続いて作物はろくに育たず、そのうえ大不況がアメリカを襲う。あと五年、銀行に支払いをすれば自分たちのものになる農場の土地代金の払いも滞りがちになる。
こんなふうに紹介すると、ずいぶん暗い作品のようにきこえるが、実際には、前作同様、切なくはあるが、とてもユーモラスで、じんわりとあたたかさの伝わってくる味わい深い青春小説にしあがっている。
前作ではふたつの死に翻弄されながら無我夢中で成長せざるえなかったロバートは、本編では次々に降りかかってくる厳しい現実と向かい合って、大人になることの意味をかみしめながら一歩一歩あゆんでいくことになる。ドラマティックな展開で一気に読ませる前作から一転して、じっくり読ませる作品になっているといえよう。続編として申し分のない、読みごたえのある内容で、正編に感動した読者の期待を裏切ることはないだろう。
事実、訳者のアメリカの友入たちのなかには、正編よりこちらのほうを高く評価している人も多い。
ロバート・ニュートン・ペックが『豚の死なない日』を発表したのが一九七二年、『続・豚の死なない日』を発表したのが九四年。おそらく、続編を書かなくてはならないという気持ちはずっと心にあったのだろうが、納得できる作品を書きあげるまでに二十年以上たっている。ペックにとっては、続編を書くほうがずっとたいへんだったのだろう。
『豚の死なない日』を訳したときには、この物語はこれでしっかり完結していると思ったのだが、続編を訳し終えて、そうか、これでほんとうに終わったんだなという感が強い。映画でも小説でも、とってつけたような続編に出会うことが多いなか、これほど納得させられ、満足させられる続編にはなかなかお目にかかれないのではないだろうか。これもひとえに、この二作が作者の自伝に近いものだからだろう。
最後になりましたが、前作同様、見事なチェックを入れてくださった白水社編集部の平田紀之さん、翻訳協力者の市川由季子さん、原文についての相談にのってくださったキム・コーノさんに、心からの感謝を。

Uブックス版へのあとがき

ロバート。ニュートン・ペックの作品のなかには、気の利いた言葉も卓抜な比喩も美しい情景描写もない。しかし彼の作品はユーモラスで力強く、読者を一気に物語のなかに引きずりこむ迫力を持っている。たとえば、「好きだよ」というごくありふれた言葉で読者を感動させる物語を作ることのできる作家とでもいったらいいのだろうか。たとえば、「あの金も銀もみんなぼくたちの宝物なんだ」という、普通にきくと恥ずかしくなるくらい飾り気のない言葉で小説をしめくくって、有無をいわせず感動させてしまう作家といってもいい。おそらく力のある作家の力のある作品というのは、こういうものなのだろうと思う。そして真似することが最も難しいのもこういった作品なのだろう。
『豚の死なない日』の正・続両編を読み直して、そんなことを感じている。

一九九九年七月
            金原瑞入


訳者あとがき
アメリカで活躍している若手のヤングアダルト作家のなかで、ひときわ目を引くのがカレン・へスだろう。彼女の『Out of the Dust』を読んだときのことは忘れられない。母親が死んだのは自分のせいだと思いこんでいる少女のつぶやきが詩の形でつづられていくこの物語は、力強く、厳しく、切ない。そしてその終わりかたもけっして甘くなく、感傷的でなく、説得力があり、強く心に響いてくる。
もしこの作品を先に読んでいなかったら、『イルカの歌』は読まなかったかもしれない。なにしろ物語の設定があまりにファンタスティックでセンチメンタルな色が濃すぎるように思われたからだ。なにしろ……海で遭難した幼い女の子がイルカに育てられ、十年ほどたって沿岸警備隊の手によって人問の世界に連れ戻されることになる……という話なのだ。
しかし『イルカの歌』は『Out of the Dust』にもまして魅力的な作品だった。すべてが主人公の女の子ミラの語りからなっているのだが、ミラが人間の世界をみつめる視点のおもしろさ、少しずつおぼえていく限られたことばで語られる内容の豊かさ、イメージのあざやかさ……とにかく、最初から、ことばが光り輝いている。ミラがことばをおぼえはじめて、「べックせんせいがいう。よくできたわね、いいわよ、ミラ。あたしは、よくできたわねがすき。」と語りだすあたりから、もう一気に作品にのまれてしまった。そしてミラのことばはこんなふうに続いていく。
「あたしは音楽が大好き。
いっぱい、いっぱいきく。足も、手も、音楽をきいて泳いでいる。
あたしのイルカの長靴は、音楽をきいて、きゅっきゅっと鳴る。」

「風が吹くと、木が歌う。風が吹くと、川が歌う。
あたしも歌う。あたしは、灰色の歌を歌う。小さい、小さい、ミラの歌。大きくないし、たくさんの声もはいっていない。声はひとつだけ。ひとりぼっちの歌。」

「あたしは、昼も夜もリコーダーを吹きたい。リコーダーを吹いていないと、あたしのなかが、きゅうくつな感じになる。足が海草にからまって、うごけなくなったときみたい。あたしのまわりでは、大きな音楽が泳いでいるのに、あたしはあたしの小さな音の海草につかまえられて、泳げない。」

「ときどき、ことばがわからなくなる。つかまえようとしても、さかながあみをすりぬけていくみたいに、するっとにげちゃう。」

 人間を知り人間の世界を知っていくミラの驚きとよろこび、さびしさととまどい、ふと訪れる孤独感、そういった気持ちが、まばゆいことばの網にとらえられていく。またミラと同じような状況にありながらミラのように状況に適応できないシェイ、ミラを担当する大学の女性研究者べック、そしてべックの息子で母親に心を閉ざしたままのジャステインなど、まわりに配置された登場人物も驚くほどたくみに描かれている。
物語は後半から一気に暗い雲のなかにつっこんでいくが、そこから最後までゆるぎなく疾走する筆の確かさ、これも作者の得意とするところだ。
これほど少ないことばで、これほど豊かな世界を作り上げた作家に心からの拍手を送りたい。

また最後になりましたが、いつもながら適切な指示をくださる編集の平田紀之さんと、翻訳協力者の代田亜香子さんと、ていねいに質問に答えてくださった作者カレン・へスに心からの感謝を。 二〇〇〇年十月十日
         金原瑞人

4.『ティモレオン:センチメンタル・ジャーニー』
 理論社は読者から送られてきた葉書の感想をすべてファックスで送ってきてくれる。とてもうれしいし、参考になる。ところで理論社から出た「レイチェル」のシリーズは評判がよくて、次々に読者葉書のファックスが送られてくる。中心は十歳から十五歳までで、ほとんどが「おもしろかった!」「わたしも魔法が使ってみたい」「魔女がこわい!」といった内容のもので、たまに絵のついたものもあり、読んでいて楽しいし、訳してよかったなと思う。しかしごたまに、否定的な感想もくる。ちょうど昨日きたファックスのなかにもひとつあった。横浜市の方で、「金原さんの訳したものならおもしろいと思って買ったのですが、このシリーズ3冊、つまらなかったです……『エルフ・ギフト』のほうがずっと……」という内容。おお、『エルフ・ギフト』のほうがずっとおもしろいと思ってくれる人もいたんだと、思わず快哉を叫んでしまった。
 「レイチェル」のシリーズも「マインド・スパイラル」のシリーズも大好きで、それぞれに愛着のあるファンタジーだが、『エルフ・ギフト』は別格である。これほどユニークで魅力的なファンタジーにはなかなかお目にかかれない。最初のところであげた『ゴーメンガースト』に負けない力がある。「幻想文学」という雑誌の書評でも石堂さんが思い切りほめてくださっていたが、とにかく、「すごい!」というしかない。しかしそういう作品は、はっきりいって玄人向けであって、玄人受けはするけど、一般の人々には評価されないことが多い。ぼくが訳したなかでも「入魂の一冊」といっていい作品は、おしなべて売れない。「これ、いいよ!」という本はすんなり受け入れられるのだが、「とにかく、すごい! 金原印のおすすめ本」という作品はなかなか読まれない。ベン・オクリの『満たされぬ道』なんかは、その最たるものだろう。
 そして今月、またその手の本が一冊出ることになった。イギリスの新人作家ダン・ローズの『ティモレオン:センチメンタル・ジャーニー』だ。出版社はアンドリュース・クリエイティヴ。すばらしい現代小説だと思う。思い切り読者に投げつけたい一冊といってもいい……けど、熱い感動やさわやかな読後感は期待できない。ここに描かれているのは「だれもが知っている最悪の夢」であり、「美しいほどの不条理」なのだから。とくに読後感は、砂をかむような不快感があると思う。それじゃ、なにがいいんだといわれるかもしれないが、まあ、それはあとがきを読んでもらうとしよう。
 金原的にいって、去年の一押しは『エルフ・ギフト』、次点は『神の創り忘れたビースト』。どちらもあまり売れていない。
 今年の一押しは何冊かあるが、その最初のひとつがこの『ティモレオン:センチメンタル・ジャーニー』である!

5.あとがき
   訳者あとがき

 いままでに一般書もずいぶん訳してきて、それぞれに思い入れはあるが、なかでも強烈に印象に残っている作品がいくつかある。ベン・オクリの『満たされぬ道』、ルドルフォ・アナヤの『ウルティマ、ぼくに大地の教えを』、シャーマン・アレクシーの『リザベーション・ブルース』などなど。今年はそのリストにこの本、ダン・ローズ(Dan Rhodes)の『ティモレオン:センチメンタル・ジャーニー』をつけ加えることになった。
 グロテスクでコミカルで、残酷で切なく、不快感と美の入り混じったこの小説には最初から翻弄されっぱなしだった。物語はあちこちにぶつかり跳ね返りながら、激しい勢いで道なき道を暴走していき、読者の思いや期待にはこれっぽっちの配慮もなく、最後は崖から飛び出してしまう。まさにグロテスクで残酷で不快な作品なのだが、同時にコミカルで切なく美しい作品なのだ。
 ティモレオンというのは美しい目をした雑種犬で、コウクロフトという老人に飼われていた。コウクロフトはイギリスでそこそこ名の売れた作曲家だがある事件を機に、イタリアの郊外に移ってきて愛犬との暮らしを楽しんでいるところだ。そこへボスニア人の青年が転がりこみ、奇妙な三角関係が生まれる。そのぎくしゃくした関係が第一部で描かれる。
 第二部はいくつものストーリーが交錯する。ひとつは、主人に捨てられたティモレオンが家に帰る旅の物語なのだが、そこに、ティモレオンが道行く先々で出会う人々のエピソードがちりばめられている。そしてティモレオンが家路を急ぐ一方、コウクロフトと謎のボスニア人の過去が明らかになっていく。
 第二部に登場するエピソードは、どれもが磨き抜かれた短編のように輝いている。なかでも聾唖の娘と不良少年の出会いを扱った「ジュゼッペまたはレオナルド・ダ・ヴィンチ」という挿話は、これひとつで一冊の本にしたいくらい強烈な印象を残す魅力的な作品だ。ただしこれらのエピソードはひとひねりもふたひねりもしてあって、読者の期待を、ときに残酷に、ときにやさしく、ときに冷淡に裏切ってくれる。
 ティモレオンとコウクロフトとボスニア人が織りなすストーリーに、奇妙な味わいのエピソードがからみあうこの作品は、ストーリーテラー、ダン・ローズの力を見事に証明している。飼い馴らされた猫のような、センチメンタルな癒し系の作品を読みたい人には、まず用のない作品だが、野性の虎のような、力にあふれた激しい作品を読みたい人には格好の一冊だろう。

 ダン・ローズは一九七二年生まれのイギリス作家で、これまで二冊の短編集を出している。一冊目は Anthropology という百一の掌編を集めたもので、掌編すべてが百一の単語でできている。二冊目は Don't Tell Me the Truth about Love で、七つの短編がおさめられている。そして三冊目が最初の長編小説、『ティモレオン』。噂によると、彼はこれを書き終えたあと、「もう書かない」といったらしい。イギリスのある編集者によれば、「『ティモレオン』を書くので、とことん消耗してしまったのだろう。しかしそのうち復帰するんじゃないかと期待している」とのことだった。
 ともあれ、イギリスの文芸雑誌「グランタ」でも昨年大きく取り上げられたダン・ローズを日本に紹介できるのは、訳者としてなによりの喜びである。

 なお最後になりましたが、要約を読んで即座に出版を引き受けてくださった小川孝男さん、編集の津田留美子さん、そして細かい質問に丁寧に答えて下さった作者のダン・ローズさんに、心からの感謝を!二00三年三月三日
              金原瑞人