あとがき大全(23)

2004.04.25日号

           
         
         
         
         
         
         
    
1.『三つのお願い』
 三月末、『三つのお願い』という絵本がでた。これは去年から新しくなった光村図書出版の国語の教科書(4年生用)の最初に出てくる短編。ぼくの訳で載っている。作者のルシール・クリフトンは日本ではあまり知られていないが、アメリカ児童文学界の中堅……より、ちょっと年が上かな。とてもいい作品を書いている。
 じつはこの作品、テキストを注意深く読むとわかるのだが、登場人物が黒人だとはどこにも書かれていない。しかし黒人なのだ。どこでそれがわかるかというと、まず原文が黒人英語。白人のスタンダードな(スタンダードって、どこの州の英語だ、などときかれると困るが、とりあえず、まあ一般的な)英語とちょっとちがう。それからもうひとつ、原書の挿絵が黒人。最後に、作者が黒人(とはいえ、これには例外もあって、たとえばイギリスの黒人作家ベンジャミン・ゼファニアの『フェイス』の主人公は白人の少年)。
 というわけで、ここにもまたひとつ、誤訳の問題がからんでくる。英語を読めば、ほぼ黒人の物語だろうとわかるのだが、日本語に訳してしまうと、それがわからない。たまたまこれが絵本だったからよかったようなものの、そうでなかったら、どうすればいいんだろう……いかにも、黒人言葉みたいな日本語なんてない。昔は、東北弁によく似た無国籍方言が使われていたが、今時、そんなことをする訳者はいないし。まあ、あとがきで、「じつは、この作品、ニューヨークの黒人の物語なのです」と一言ことわるとか、帯に書いておくとか、ほかに方法はないと思う。
 ほかにもこれによく似た経験がある。じつはずいぶん昔に訳して、そのまま出版の運びにならず(作者とエイジェントとのあいだで誤解があったらしい)、お蔵入りになってしまった作品があって、舞台は現代のロンドンなのだが、これがまた主人公もまわりの連中もほとんどが黒人というミステリ。下訳を野沢さんにお願いして、こちらが手を入れて、なかなかいい感じに仕上がったのだが、土壇場になって、妙なことから出版中止。まあ、こういうこともあるのが出版であり、翻訳なんだろう。出版社も良心的で、原稿料としていくらか振り込んでくれたのだが、それはそのまま下訳料に消えてしまった。というわけで、この原稿、まだハードディスクに放り込んだままで、たまにちらっと目にしたりすることもある。いやあ、懐かしいな……という感じだ。ところで、この作品、ゲームソフトと殺人のからんだ、いかにも黒人っぽいノリのクールな作品なのだが(「アメリカ人って、ほんと服のセンス、ゼロ。ジャケットとパンツ、いろんなのがたくさんあるとどうしていいかわかんなくなる。だからアメリカ人はスーツとスポーツウェアしか着ないんだ」)、この本日本語だけ読んでいると、頭のなかではいつのまにか登場人物が白人になってしまう。不思議だなあと思う……けど、こういうものなのかもしれない。英語の世界では、テキストはしっかり黒人であると主張しているにもかかわらず、日本語に移すと、それは消えてしまうから、英語=白人という構図ができてしまうのだろう。
 しかし考えれてみれば、こういう傾向が出てきたのは、ある意味、黒人が黒人としてではなく、普通の登場人物として作品に出るようになってきたということでもあると思う。そしてまた、最近では、登場人物の人種があまり表に出てこなくなった。たとえば、いままでに訳した本でいえば『ルーム・ルーム』。主人公の友だちの女の子が黒人だ、というのに気がつかず、金の星社の編集者、東沢さんにいわれて、はっとした覚えがある。よく読めば、なるほど髪がちりちりとか、言葉がちょっとそれっぽいとか、黒人らしい特徴はあるのだが、ついつい読み飛ばしてしまっていた。そこで作者に問い合わせたら、「あら、黒人よ。でもね、シカゴのあのあたりの小学校は黒人と白人が半々くらいで、いちいち、どちらなんていわないから」という返事だった。
 さて話はもどるが、教科書用に訳した『三つのお願い』、とてもいいお話なので、あかね書房の加藤さんに話したら、ぜひ絵本にしましょうということになった。絵は、はた・こうしろうさん。光村の教科書の挿絵も、はたさん。しかし教科書と絵本と、まったく絵がちがっていて、びっくりしてしまった。どちらも、とてもかわいくて、子どもの表情もすごくいい! 絵が違うだけでなく、日本語もちょっと違う。教科書版のほうは、長さの制限もあり、またほかの理由もあって、作品の最初と最後が削ってある。絵本のほうは、そのまま訳してあるので、興味のある人はくらべてみてほしい。物語の中身だけと、物語に額縁がついたものとの違い……とでもいえばいいかな。
 あとがきがないから、ここにあとがきを載せられないけど、いい作品です。

2.『盗神伝』『ヴァイオレット&クレア』『テリーの恋』
 三月末から四月にかけて、この三冊がでた。じつは、前回のあとがき大全であとがきを紹介した『ティモレオン:センチメンタル・ジャーニー』もでたから、ずいぶんな速さである。『ティモレオン』については前回語ったので、ほかの三冊について。
 『盗神伝』はギリシアらしき国々を舞台にしたファンタジー。国運をかけて盗人の少年が活躍するという発想がおもしろい。とにかく、盗めないものを盗む……というネタはいろんな作家が使ってきたが、これもなかなかよくできている。最後のどんでん返しは、「一本!」でしょう。第二巻も7月くらいには刊行の予定。
 『V&C』は、ご存じ、フランチェスカ・リア・ブロック(『少女神第9号』「ウィーツィー・バット・ブックス」)の新しい作品。普通なら通俗的でありきたりでセンチメンタルに流れてしまうベタな題材を、エキセントリックでポエティックな文体と独特の雰囲気で、驚くほどユニークな作品にまとめあげた作品。ぎゅっと詰まった感じのする小説で、ブロックの好きな人にはとてもお勧め。これは主婦の友社の編集者、浜本さんがお気に入りの一冊でもある。今年はブロックの当たり年でもあるらしく、このあとも『薔薇と野獣』(東京創元社)、『エコー』(主婦の友社)と二冊でることになっている。こういう形でブロックの作品が次々に紹介されていくのは、うれしい。「ウィーツィー・バット・ブックス」をアメリカから持ち帰って、あちこちに売り込んで断られ続けたときのことが夢みたいで、これもまたうれしい。
 さて次は『テリーの恋』。銀座、教文館という書店の菅原さんからメールがきて、「『プリンセス・ダイアリー』に似てる」とのこと。その通りで、主人公は男の子(サッカー少年)だけど、ノリとしてはまさに『プリンセス・ダイアリー』……というか、そんなふうに訳してみたかった一冊。『プリンセス』のほうは、共訳者の代田さんがいい味を出してくれたのだが、今回は田中さんががんばってくれた。田中さんは『テリーと海賊』の共訳者でもあって……あれ、両方とも、「テリー」じゃん……いま気がついた。だけど、『恋』のほうのテリーは男の子、『海賊』のほうのテリーは女の子。
 というわけで、今回はこの三つのお願い……じゃなくて、三つの作品のあとがきを並べてみました。

3.あとがき三つ
「おれに盗めないものはない」
 主人公の少年ジェンは、そんな口癖があだになって、ついに牢獄に放りこまれてしまった。しかしその腕を見こまれて、スーニス国王の秘密の使命を受け、隣の国に旅立つことになる。同行するのは、スーニス国の四人。王につかえる賢者、メイガス。メイガスのふたりの弟子、アンビアデスとソフォス。そしてたくましく有能な兵士ポル。これらまっとうな四人にとって、ジェンはうさんくさい泥棒にすぎない。ただ盗みの腕がいいから特別な任務をまかされた泥棒だ。しかし、今回の使命ではいちばん重要な役割をになっている。
 ジェンにとっては逆に、ほかの四人がうざったくてしょうがない。そもそも負けず嫌いで、命令されるのも指図されるのも大嫌いときている。ことあるごとに、ほかの連中とぶつかっては、痛い目をみるが、それでもこりずに、憎まれ口をたたき、またつっかかっていく。そもそもジェンは、自分の使命さえはっきりしらされていない。この旅の目的地はどこなのか、何を盗めばいいのか、なんのために盗むのか……
 そのうえ旅が続くにつれて、メイガスの弟子のアンビアデスとソフォスが仲たがいを始め、それにジェンまで巻きこまれてしまう。
 このまとまりのない五人組ははたして、目的を達することができるのだろうか。
 『盗神伝』の舞台になっているのは三つの国だ。ジェンに使命をあたえる王が支配するスーニス国。その敵国アストリア。そしてそのあいだに位置する中立国エディス。これら中世のギリシアを思わせる国々の事情が、ジェンたちの旅の目的に大きくかかわっているらしいのだが、それは最後の最後までわからない。
 さて、『盗神伝』はニューベリー・オナー賞をはじめ、全米図書館協会優秀図書賞、全米図書館協会ヤングアダルト部門最優秀賞などを受賞し、アメリカで大きな反響を呼んだ。
 この作品が大ヒットした理由はまず、主人公を盗人にしたことだろう。『怪盗ルパン』や『怪人二十面相』などをはじめ、泥棒や盗人が主人公の作品は少なくない。そもそもギリシア神話でも有名なオリンポス十二神のひとりヘルメスは、生まれ落ちたその日にアポロンの牛を五十頭盗んで、それ以来、泥棒の神様としてあがめられている。昔から、とほうもないものを盗む、盗めそうもないものを盗むというのは、人々の夢であり、そういう物語はくり返し作られてきた。そしてこの作品の後半、ジェンが目的のものを盗もうと命がけで滝の中の神殿に忍びこむあたりは、まさにこの本のクライマックス。おそらく、最後まで読み切るまで、本を置くことはできないと思う。
 それに主人公のジェンがおもしろい。自分勝手で、わがままで、態度は大きく、生意気で、口だけは達者。それでいて憎めない。そして盗みの腕と度胸は第一級。こんな主人公にはなかなか出会えるものではない。その意味で、この本の読者は幸せだと思う。
 しかし最後にひとつ、いっておきたいのは、物語そのもののおもしろさだろう。このファンタジーは、驚くほどよくできている。ジェンが牢獄から出されて、よくわからない盗みの旅にかり出され、ほかの四人とやりあいながら、目的地に着いて……という物語が、一気に語られてしまう。その気持ちよさ、快さ……おもしろい物語というのは、こういう作品のことなんだと、思わず納得してしまう。そして、最後のどんでん返し……そしてさらに、意外な結末! もう、あとは作者に拍手するしかないと思う。
 ユニークで魅力的な登場人物、ハイテンポのストーリー、意外な結末、ファンタジーの楽しさ……それらすべてを一冊で味わいたい人は、どうぞ『盗神伝』を!
 最後になりましたが、原文とのつきあわせをしてくださった池上小湖さんと、細かい質問にていねいに答えてくださった作者のターナーさんに心からの感謝を!二00三年二月十六日
金原瑞人


   訳者あとがき

 テリーはリバプールに住む高校生。転校生のジュリーが青いレオタードに身を包み、体操をする姿を見て、これまでにない得体の知れない気分に陥る。それはまさに「腹にチョウの大群がいる」感じ。サッカー少年が初めて恋をしたのだ。
 ところが次の瞬間、恐ろしい事実を知ってしまう――ジュリーが地元のプロサッカーチーム、リバプールFCのサポーターだったなんて……! リバプールFCといえば、テリーがこよなく愛するサッカーチーム、マンチェスター・ユナイテッド(略してマンU)の宿敵だ。それだけでもこの恋は前途多難なのに、さらに強力なライバルがふたり出現する。
 ひとりは、ジュリーが大ファンのリバプールFCのスター選手、マイケル・オーウェン。そしてもうひとりは同級生のフィッツ。フィッツはテリーの在籍するサッカーチームのキャプテンで、タンクトップが似合う肩広・ウエスト細の中胚葉型の体型で(ちなみに、テリーはガリガリの「外胚葉型」)、頭が良くて、ハンサムで、よりによってオーウェンそっくり。おまけに、ジュリーと同じくリバプールFCのサポーターときてる。
 この恋の四角関係で、超奥手のテリーは圧倒的に不利だ。そのうえ、家庭のことでも悩みを抱えてしまう。父さんがとつぜん、母さんに対して「チョウがいなくなった」と言い出し、息子としては納得しかねる理由から、家を出てしまった。まさか、このまま離婚……? 悩めるテリーの恋は、家庭の問題は、マンUの優勝は……?
 というわけで、サッカー少年テリーは自分の人生がうまくいくかどうかを、いつのまにか、ひいきチームのマンUの勝敗と重ねて見るようになる。おかげで、いつにも増して応援に力が入る。何度も出てくるサッカーの実況中継は、なぜか、テリーの必死の思いを裏切ることが多く、このあたり、読んでいて思わずこちらまで力が入ってしまう。
 もうひとつ注目したいのが、音楽。たとえば、何度か出てくるトラヴィスの「どうしてぼくはいつも雨に降られるんだろう(ルビ ホワイ・ダズ・イット・レイン・オン・ミー)?」。この曲はシングルとしても売れたが、収録アルバム「ザ・マン・フー」が一九九九年にイギリス国内で最も売れたアルバムとして、二〇〇〇年ブリット・アワードのベスト・ブリティッシュ・アルバムの栄冠に輝いた。ほかにも、「超古い」とけなされる父さんお気に入りのロックの数々や、ボビーが大好きなモッズのラインナップは、どれもなかなかの名曲。タイトルやグループ名に注目して読むと、その場の雰囲気がわかってさらに楽しめる。興味のある方はぜひ、実際に聴いてみてほしい。
 また、この本には続編があって、テリーや彼を取り巻く人々の恋や人生に、新たな局面が訪れるようなので、楽しみにしている。最後にサッカー関連事項でご助言くださった和中健至さん、原文とつきあわせをしてくださった中村浩美さん、編集の平林留美さんに心から感謝を。

二〇〇〇年三月十二日                 金原瑞人・田中亜希子

   訳者あとがき

 いま西海岸で最もホットで最もクールな作家、フランチェスカ・リア・ブロックは、十代、二十代の女性のあいだでカルト的な人気を呼んでいる。日本でも熱烈なファンが多く、「ウィーツィバット・ブックス」(『ウィーツィバット』『ウィッチ・ベイビ』『チェロキー・バット』『エンジェル・フアン』『ベイビー・ビバップ』)『少女神第9号』に続き、本書『ヴァイオレットとクレア』(Violet & Claire)が出ることになった。さらに Echo と The Rose and the Beast も今年中に刊行の予定。
 ブロックの書くヤングアダルトむけの本がなぜこれほど魅力的なのだろう。
 まずなにより文体がユニークなことではないだろうか。これほどリアルで、これほど詩的な文体で物語の書ける作家はまずいない。彼女の作品にはセックス、ドラッグ、ゲイ、エイズ、自殺といった危ない題材があふれているが、どの物語も決して汚くなることがない。いや、それどころか作品のひとつひとつが様々の色合いに美しく輝いている。明るい物語もあれば、暗い物語もあり、甘い物語もあり、また切ない物語もあるが、すべてがそれぞれの色に輝いている。
 それからもうひとつ、登場人物と物語の設定がユニークなこと。ブロックの作品では、エッジの立った登場人物が、ぞくぞくするような物語をつむぎあげていく。ホワイトブロンドのクルーカット、ピンクのハーレクインのサングラス、ストロベリー色のリップ、飾りの下がったピアス、ラメ入りの白いアイシャドーの女の子ウィーツィが、髪を黒く染めてモヒカンにしたダークを好きになる物語(『ウィーツィバット』)。紫の瞳、ぐちゃぐちゃにもつれた髪の女の子が自分を捨てた魔女と自分の居場所をさがしにいく物語(『ウィッチ・ベイビ)。ふたりの母親に育てられている少女が「本当の父親」をさがしにいく物語(『少女神第9号』に収録されている「マンハッタンのドラゴン」)。ブロックは、こういった一見エキセントリックにも思える登場人物と設定を、独得の文体と、詩的なイメージと、豊かな物語で、読者にいやおうなく納得させてしまう。
 そしてこの『ヴァイオレットとクレア』では、タイトルのふたりが主人公なのだが、このふたりがまたユニークで、いかにもブロックらしさがよく表れている。まずヴァイオレットは生まれついての映画マニアの天才少女。生まれて初めて口にした言葉が、オーソン・ウェルズの有名な科白「バラのつぼみ」。ケリー・グラントやハンフリー・ボガートと名画館でデートして、ジム・ジャームッシュと実験映画専門の映画館に入りびたって、夜はビデオをみながら、グレタ・ガルボやヴェロニカ・レイクと過ごす。そして将来の夢は監督になることで、いつもノートパソコンにアイデアを打ちこんでいる。かなり自意識過剰で勝ち気で、通っている高校でもひとり浮いていて友達はなし。一方、クレアは思い切り内向的な女の子で、背中に羽のついたティンカーベルのTシャツを着ている。そして自分は、中世に虐殺された妖精たちの子孫ではないかと思ったりする。クレアもひとり浮いていて、いつもいじめられている。もちろん友達はなし。
 ヴァイオレットがクレアをみて、自分の映画に出ないかと誘うところから物語が始まる。写真のネガとポジのような、陰と陽のような、火と水のようなふたりは、生き別れになった自分の半身にめぐりあったかのように相手を受け入れ、新しい冒険に出る。映画館にいき、街を歩き、服装倒錯者のバーにいき、ロックコンサートにいき、未来の映画について、自分たちの夢と野望について熱く語る……が、ふたりのレールは次第にずれていき、ついに……
 これは半身を失ったフリーク(freak)ふたりが、自分の半身をみつけだし、傷つき悩みながら成長していく物語といっていいかもしれない。
 最近、ブロックの作品には頻繁にフリークが登場する。『ヴァイオレットとクレア』のなかでもエズメラルダを中心とする服装倒錯者たちが非常に魅力的なフリークとして登場するし、The Rose and the Beast でも「フリーク」は重要なモチーフになっている。
 さて、ふたりの夢と冒険と挫折の物語が展開するのは「天使たちの街」、ロサンゼルス。ブロックの作品はそのほとんどがロサンゼルスを舞台に描かれているが、この「危険な」街は彼女の作品に登場するたびに新しい顔をみせてくれる。この物語ではどんな顔をみせてくれるのか、どうか楽しみに読んでみてほしい。

 なお最後になりましたが、ブロックのよき理解者でありこの本の編集者でもある浜本律子さん、翻訳協力者の圷香織さん、原文とのつきあわせをしてくださった谷垣暁美さんに心からの感謝を! 二00三年二月五日
金原瑞人