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1 あとがきとはあまり関係のない絵本の話 このごろ絵本がおもしろいので、ちょっと紹介してみたい。といっても、子供向きのものではなく、大人向けのもの。 一九九0年、西村書店から「ワンス・アポンナ・タイム」というシリーズが出た。これは当時、第一線で活躍していたイラストレーターや写真家が思いきり自由に作り上げた大人のための絵本のシリーズだった。きわめつけはサラ・ムーンの『赤ずきん』。すべてモノクロの写真構成で、森の小道はパリの石畳、オオカミは車という、なんともモダンな赤ずきんである。このシリーズ、ほかにも『美女と野獣』『モミの木』『フィッチャーさんちの鳥』(拙訳)など、斬新でユニークな、そしてときにぞくっとするほど怖い作品がたくさん入っている。 このシリーズがまだ日本で出版されるまえのこと、英語版をみて一目で気に入ってしまい、架空社の社長、前野さんところに持ち込んだ。ところがさすがに前野さんもよく知っていた。「いやあ、このなかの何冊か、版権を取ろうとしたんだけど、もう西村書店が全巻まとめて取ってたよ」とのこと。西村書店は、どこかのブックフェアですでに版権交渉を始めていたらしい。そしてしばらくして、翻訳がでることになった。 じつはそのころ、また英語でほかのおもしろいシリーズがでていた。これは短編をそのまま一冊の本にしてしまうという企画だった。つまりそれまでなら到底一冊にならなかった短い物語や小説をおしゃれな感じの一冊本にするというもの。装丁、表紙、挿絵など、なかなか凝っていたし、あまりお目にかかることのないパール・バックの短編とかもシリーズに入っていた。それをみながら、偕成社の別府さんと、似たようなものが出せるといいねと話したのをよく覚えている。が、これも話だけで、結局形にならなかった。 これと前後して、角川書店からギフトブックが出始めた。吉本バナナなどの短い作品を小さな版型の本で出すという企画で、書店の棚をにぎわしていた。 どれも、もう十年くらい前の話だ。 そしてまた今、おもしろいシリーズが出始めた。 ひとつは理論社の「梨木香歩の絵本」シリーズ。いまのところ『ペンキや』(絵・出久根育)『蟹塚縁起』(絵・木内達郎)『マジョモリ』(絵・早川司寿乃)』の三冊が出ている。それぞれの物語もそれぞれにいいし、それぞれの絵がまたいい。編集・企画の勝利だろう。 もうひとつは角川書店の「ちょっと大人な絵本」シリーズ。いまのところ『河童』(文・原田宗典:絵・荒井良二)『ボヴァリー夫人』(文・姫野カオルコ:絵・木村タカヒロ)『はつ恋』(文・小川洋子:絵・中村幸子)の三冊が出ている。いうまでもなく、原作は芥川龍之介、フローベール、ツルゲーネフのお三方。これを絵本にするというのだから、すごい。思い切り大胆に翻案してしまおうという、まことに大胆な企画である。これもまた編集・企画の勝利。 このなかでは、原田+荒井の『河童』がずば抜けておもしろい。『ボヴァリー夫人』も『はつ恋』も、作家の目を通した「ボヴァリー観」「はつ恋観」が表に出ていて、それなりに楽しいのだが、『河童』のほうは、原田流の勝手気ままな書き直しの部分が突出していて、それがむちゃくちゃ楽しいのだ。 まず語り手は「厄年の訪れとともに、憂鬱の病に冒されてしまった」わたし。「わたし」は、近所のS精神病院に通ううち、S博士から、「会ってもらいたい患者がいる」と告げられる。その相手というのは、昭和二年に病院に入院した患者で、実年齢は百歳を超えているにもかかわらず、三十代にしか見えない男で、その男が河童の国で見聞きしたことを語るという形になっている。 いうまでもなく、原田宗典が病院にいって、芥川龍之介の話をきく……という仕立て。芝居好きの作者ならではのメタフィクション、といういうといいすぎだろうか。それにしてもうまい。 男の語りの内容は、原作から持ってきたものもあるが、まったく逸脱したものもある。とくに後半はハイテンポになっていく。ゲエル・コオポレイションによる水中情報網(ここから得られる膨大な量の情報を河童たちは臍端末から摂取する)、河童・川獺戦争、詩人トックの死、葬儀、河童社会の食物循環、人間社会への帰還までが、叩きつけるようなリズムで語られていく。 このあたりも、やはり演劇的な手法が見事。 この見事な原田版『河童』をさらに盛り上げているのが荒川良二の絵だ。この迫力と、この微妙な力の抜け具合、まさに絶妙というしかない。暴力的で前衛的なボサノバといったところだろうか。 そういえば、原田宗典は数年前、鬱病がかなり重かったが、芝居をやったら回復したと、エッセイに書いていた。六月、久々に彼の主宰する劇団、壱組の公演がある……というふうに「エスクァイア」の書評には書いてしまったが、チケットがきて確認したら、ちょっと違っていた。今回、新宿シアター・トップスで上演されるのは、『小林秀雄先生来る』(原田宗典作・大谷亮介演出・壱組印プリゼンツ)だった。もう校正は終わってしまった。直せない。「エスクァイア」の読者のみなさん、ごめん! なんか、このごろ、間違いが多い。つい先日も、文学の授業で都々逸を説明し、その例として「三千世界の烏を殺してぬしと朝寝がしてみたい」という都々逸を「坂本竜馬作」と板書してしまった。家でふと気づいたのだが、これは高杉晋作だった。来週、訂正せねば。 そういえば、デイヴィッド・アーモンドの『ヘヴンアイズ』という最高に素敵な作品を訳し終えて、あとがきをまとめて送ったところ、編集の津田さんから連絡があった。あとがきで触れられているガルシア・マルケスの「美しい水死人」が入っている福武文庫の短編集は絶版なので、「世界でいちばん美しい水死人」(ちくま文庫の『エレンディラ』に所収)にしました、とのこと。なんとよく気のつく人だろう。金原にはとても真似の出来ない芸当である。ちなみに、このマルケスの短編、うちの妹が絶賛してやまない作品。たしかに素晴らしい出来で、マルケスの魅力を凝縮したような感がある。 余談になるが(いや、すでに余談になっているが)、「世界でいちばん美しい水死人」というのは、ある村に、大きな水死人が流れ着いて、村人たちがそれをきれいにしていくうちに、それぞれの物語を編んでいく……という、不思議な雰囲気の漂う逸品。死ぬまでのうちに、この短編に触れた人と触れなかった人は、どことなく違ってくるのではないか、そんな予感をはらむ作品である。 花びら一枚ぶん、心が豊かになる、そんな作品て、あるでしょう。 たしかに『百年の孤独』は傑作だし、何度も読み返しているが、「世界でいちばん美しい水死人」は、それとまた違った意味で、傑作だと思う。村人たちが、水死人をきれいにしてやりながら、この男の名前は「……」だったんだねえ、などといい合っているところは、なぜかじんと胸に響いてくる。 そういえば、マルケスは黒澤明の大ファンであった。手元に、「新ラテン・アメリカ映画祭'90」のために、彼が日本にきたときの記事があるので少しだけ紹介しておこう(朝日新聞の夕刊から)。 「クロサワは『歴史的現実』と呼ぶべきコンセプトを持っている。それは私自身の考えと似ている。さらに、川端康成、三島由紀夫、安部公房、大江健三郎、遠藤周作といった日本の作家たち、そして日本人全体にもあるものだと思う」 そしてマルケスは、『族長の秋』をぜひ日本で製作してほしいと語り、「私の作品の中では、一番日本的な小説ですから」と言い添えている。なんで、だれも映画にしないんだろう。寺山修司は『百年の孤独』を映画にしようとしたのに(しかしこれは向こうの了解を取り付けてなくて、クレームがつき、『さらば箱船』のタイトルで上映された) 数年前、「Spur」という雑誌で、20 世紀を代表する作品はというアンケートで、「西なら『百年の孤独』、東なら『豊饒の海』」と答えた覚えがある。ほとんど毎年読み直している作品といえば、この二冊のほかに、谷崎の『細雪』くらいだと思う。あと、『オイディプス王』とか「世界でいちばん美しい水死人」も、毎年、文学の講義でそのくだりにさしかかると、必ず読み返すことにしている。講義で使う作品は必ず読み返すかというと、そうでもない。『ロビンソン・クルーソー』『トリストラム・シャンディ』『居酒屋』『ボヴァリー夫人』『ユリシーズ』『失われた時を求めて』あたりは軽くパス。 このままだと、どこまでも話がそれていってしまいそうだから、もとにもどそう。 というわけで、原田宗典の翻案による『河童』は名作なのであった。 というわけで、「ワンス・アポンナ・タイム・シリーズ」、「梨木香歩の絵本シリーズ」、「ちょっと大人な絵本シリーズ」と、話は進んできたのだが、この手の本、つまり、絵本感覚の文学作品がこのところ、ずいぶん増えてきた。そしてどれもが、ほとんどヤングアダルト向けといっていいと思う。出版社がターゲットとして考えているのは、十代、二十代の女性かな。 そしてもう一冊。『踊りたいけど踊れない』(寺山修司+宇野亜喜良・(株)アートン)が出た。宇野亜喜良は寺山修司とほぼ同い年で、60年代からいっしょに様々な仕事をしてきた。本だけでなく、芝居もそうだった。70年代初め、東京にやってきた金原少年は、おのぼりさんよろしく、新劇、新派、宝塚、歌舞伎、文楽、そしてアングラ芝居など、まるで、はとバスにでも乗ったかのように、次々に見て回った。とにかく地方出身の少年は、そういうものに飢えていたのだ。 高校の頃、岡山は表町の書店で、唐十郎の『錬夢術』という本を手に取り、「え、東京じゃ、こんな芝居をやってるの!」と腰を抜かした。なにしろ、芝居は好きだったものの、岡山で見られる芝居といったら、それこそ労演が呼んでくる新劇くらいしかなかったのだから。劇団といえば俳優座、文学座、劇団民芸、前進座など。知っている俳優といえば、杉村春子、長岡輝子、大地喜和子、奈良岡朋子、河原崎長十郎、宇野重吉、滝沢修、江守徹といった面々。そこに唐十郎の戯曲が飛び込んできたのだから、はっきりいって、「これ、まじかよ?」というのが正直な感想だった。当時の金原は、東京にいったら、絶対みなくちゃねと心に決めたのであった。 あれは、浪人二年目だっただろうか。唐十郎主宰の赤テントが上演していた『風の又三郎』で、唐のふんどしがはずれた、あれは演出か、それともハプニングか、確かめてきてくれ……という友人の電話に、次の日は大学の(予備校の?)授業をさぼって並んだのもそのころであった。 考えてみれば、当時、唐十郎も佐藤信も寺山修司も蜷川幸雄も、みんな、社会転覆をもくろんで芝居をやっているようなところがあった。そういった世代の当時の活動をどう評価するかは人によってそれぞれだろう。しかし、やはり彼らの活動には、ずいぶんきわどくて、きなくさいものがつきまとっていた。 そして寺山+宇野のコンビも、まさにそういう、きわどさ、いかがわしさ、いやらしさを漂わせていた。宇野亜喜良の絵って、ほんとうに、いやらしいと思う。表面的には佐伯俊男のほうがいやらしく見えるかもしれないが、宇野亜喜良のほうがずっといやらしい。それに宇野の絵は、どんなにかわいい感じのものをみても、冷たい。あの感触が寺山の作品と並ぶと、異様な空間が表出する。しかし今回、『踊りたいけど』をながめていたら、ある種ノスタルジックな雰囲気が面ににじみ出ていて、そうか、寺山没後二十年、アングラも昔の話になってしまったんだなと、あたりまえのことを改めて感じてしまった。 ともあれ、この絵本、当時のきりっとした輪郭を保っている。とくに中高大学生に勧めたい。 大人向けの絵本という体裁のおすすめ本、まだまだあるのだ。 去年出た本だが、穂村弘の歌に井筒啓之が絵をつけた『ブルーシンジケート』(沖積舎)。傑作である。 ・「前世は鹿です」なんて嘘をためらわぬおまえと踊ってみたい ・「猫投げるくらいなによ本気だして怒りゃハミガキしぼりきるわよ」 ・サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい といった歌に、「どうだこれは!」といわんばかりの絵が! ここに絵をのせられないのがとても残念。 そしてもう一冊、『車掌』(ヒヨコ舎)。これは穂村弘がショートショートを書いて、それにコミック界の奇才(鬼才?)、寺田克也が絵を描いた。むちゃくちゃすごい! わが敬愛する歌人、穂村弘と、我が敬愛するコミック作家寺田克也のコラボレーションなのだ。そういえば、寺田克也の『西遊奇伝・大猿王1』(集英社)が出たとき、金原は欣喜雀躍して「流行通信」に書評を書いた……が、編集者から、「あの、うちの雑誌、とりあえず女性向けなので……」といわれて却下されてしまった。 お、そうだ、そのとき没になった原稿をここに載せよう! 『西遊記』、そしてこれをめぐる膨大なパロディ……この世界はあまりに深く広く、ひとつの宇宙を作り上げているといってもいいすぎではない。素朴な語りの凝縮した物語、フォークロアの呼び起こす鮮やかなイメージ、どんないいかげんで勝手な解釈も許容するゆるやかな設定。まるでパフェルベルの「カノン・ニ長調」のコード進行の文学ヴァージョンといってもいい(ちなみにこれは黄金のコード進行ともいわれていて、多くのヒット曲の原型ともなっている。たとえば「大阪で生まれた女」) 小学校のとき『西遊記』の抄訳に夢中になったぼくは、中学で全訳を読み、高校で邸永漢の見事な翻案に感動してしまった。そして吉川英治がこれにチャレンジしなかったのがなんと惜しまれたことか。しかしなんといっても特筆すべきは、日本のマンガ家のパロディだと思う。古くは手塚治虫の『悟空の大冒険』から、小島剛夕、寺沢武一、鳥山明、藤原カムイ……そして諸星大二郎の『西遊妖猿伝』! 今回手塚治虫マンガ大賞をもらったが、いわせてもらうと、十年遅いって! しかしもうすでに、それに勝るとも劣らない作品が飛びだしている。いや、『最遊記』ではない。寺田克也の『西遊奇伝・大猿王』がそれだ。C・Gを縦横に駆使した絵もすさまじく……SMプレイの箝口具を口にかまされ半裸の女性姿の三蔵法師を引き連れていく悟空の悪猿ぶりも感動的だが……釈迦をぶっ殺すために天竺に行くという設定が身震いするほどに、切ない。これらマンガの世界のユニークな作品とくらべると、グリムの童話のいやらしい部分や残酷な部分をことさら誇張したパロディがベストセラーになる活字の世界は、はっきりいって悲しいとしかいいようがない。 『西遊妖猿伝』と『大猿王』は、「夜更かし」の本ではない。「夜明かし」の本だと思う。もっとも『大猿王』は一冊、十分ほどで読めるんだけど。 以上。没になった原稿も日の目をみられて、ほんとによかった。 しかしそれにつけても、寺田克也の筆の遅さよ。『大猿王』の二巻はいったい、いつ出るんだ! 2 『ヘヴンアイズ』 このごろ、会う人ごとに「村上春樹訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の翻訳、どうでしたか」ときかれるので、それについて簡単に書こうかなと思っていたのだが、一週間風邪に悩まされ、仕事が遅れ、ここにきてへばってしまった。コメントは次回に。 というわけで、「あとがき」です。 もう六月。初夏である。六月は、とても気に入っている本が何冊か出る。まず、さっきあげたデイヴィッド・アーモンドの『ヘヴンアイズ』。アーモンドがカーネギー賞とウィットブレッド賞をダブル受賞した『肩胛骨は翼のなごり』を読んだときには、思わずうなってしまった。それくらいこの作品のインパクトは強かった。ガルシア・マルケスを読んだときに受けたインパクトと同じくらい、すごかった(とはいえ、アーモンドの作品は、マジック・リアリズムとは根本的に違うと思う。まあ、このへんは、そのうちまたゆっくり) そのアーモンドの作品『ヘヴンアイズ』が転がり込んできた。この作品はよく知っていたが、まさか自分のところに翻訳が回ってくるとは考えてもいなかった。というのも、『肩胛骨』『闇の底のシルキー』を出している東京創元社が山田順子訳ででるだろうと思っていたのだ。ところが、創元社がおりてしまい、版権を扱っているタトル・エージェンシーから連絡が入った。そして要約を作って、河出書房新社の編集者、田中優子さんに送ったら、ふたつ返事で「出しましょう!」とのこと。こんな作品を、なぜ創元社が見送ったのかはわからない。 それから次はスーザン・プライスの『五00年のトンネル』。じつはアーモンドが『肩胛骨』を発表し、ローリングが『ハリー・ポッターと秘密の部屋』を発表した年に、この作品が出ている。『五00年のトンネル』はカーネギー賞とガーディアン賞の両賞にノミネートされ、カーネギー賞は『肩胛骨』に持って行かれたが、ガーディアン賞を受賞した。 近未来の人々がタイムトンネルを発明し、十六世紀イギリスの辺境に住むスターカーム一族を丸めこんで搾取しようとたくらむが、まったく価値観の異なるスターカームたちと小競り合いが続き、ついに大衝突が起こりる……というふうな物語。ふたつの相異なる文化の衝突をダイナミックに描いたという意味では、ファンタジー『エルフ・ギフト』のSF版といってもいいだろう。 それからもう一冊は、『青空の向こう』の作者、アレックス・シアラーの新作『13ヵ月と13週と13日と満月の夜』。なんとなく癒し系だった前作といささか趣が異なっていて、今回はかなりストーリー中心のエンタテイメント。年老いた魔女に体をのっとられた女の子が主人公。 じつはこれを訳し終えたとき、『青空』ほど評判にはならないような気がした。とてもよく書けてはいるが、癒しというか、あまり泣ける部分は多くないし、児童書ではそう珍しくないエンタテイメントだったからだ。ところが二百人の人たちに読んでもらった結果、「おもしろい」という回答が九四%、前回よりさらに十%アップしていた。 もしこの結果がそのまま、この本の売れ行きに反映されれば、ある意味すごいことになるかもしれない。というのは、児童書に新たな市場が開けたということになるからだ。いままで児童書専門の出版社が出してきた子供向けのエンタテイメントが、一般の読者にも大きく受け入れられるということになる。 ともあれ、ちょうどふたが開いたところだ。どうなるかじっくりみていよう。 というわけで、今回は『ヘブンアイズ』『五00年のトンネル』(この作品は三村美衣さんがとてもいい解説を書いてくださったので、金原は、そのあとをうけてという感じで短いものを書いている。また、引用に「エルフ」という言葉が出てくるが、これはスターカームたちが未来人のことを「エルフ」と考えているから)『13ヵ月と13週と13日と満月』のあとがきを。 訳者あとがき(『ヘヴンアイズ』) 一九九八年、デイヴィッド・アーモンドが『肩胛骨は翼のなごり』をひっさげてイギリス出版界に登場したときの衝撃はいまでも語りぐさになっている。処女作でカーネギー賞、ウィットブレッド賞、両賞受賞という快挙もさることながら、批評家、評論家、作家からの絶賛の声が飛び交ったし、なによりこの一作で大きな読者層を獲得してしまった。そして『闇の底のシルキー』や二冊の短編集(未訳)など、作品を発表するたびに、その評価は高まり、ファンも増えていった。 それも当然だろう。独特の雰囲気、特異な設定、ストーリー運びのうまさ、全編を貫くやさしさ……今までのどんな作品ともちがう作品でありながら、今までのどんな作品よりも感動的で切ない。まさにアーモンドは、ほかのだれにも書けない世界を創造してきた。 とにかく新鮮で、驚きに満ちている。不思議な世界や不思議な事件を、作品のなかにたくみにもっていくるところは、たしかにガルシア・マルケスの「世界で最も美しい水死人」に似ているが、印象はまったくちがう。もっとクールに、もっとホットに迫ってくる。冷たさとも熱さともつかない、それこそ得体の知れないものが作品のなかにうごめいていて、それがそっと読者の心に忍び寄ったかと思うと、次の瞬間、心臓をわしづかみにしてしまう……なんともいいようのない、恐ろしいほどの魅力がひそんでいる。 そしてそれがさらに強烈な形で結晶したのがこの『ヘヴンアイズ』だろう。 孤児院を脱走した三人の子どもたちが筏で川を下るうちに、泥で動きがとれなくなり、ヘヴンアイズという女の子に出会う。そこは崩れかけた倉庫や工場の建ち並ぶ無人の一画で、ヘヴンアイズは奇妙な老人とふたりで暮らしていた。子どもたちはしばらくそこで過ごし、信じられないような体験を重ねるうちに、自分をみつめ、ヘヴンアイズと老人をみつめるようになる。 ページが真っ黒にみえるほど細かい字で日誌をつけ、泥の中から色んなものを掘り出してくる、少し頭のおかしい老人、手と足に水かきのある、少し言葉のおかしい少女。このふたりに、親のいない三人の子どもがからんでいくうちに、物語は思いもよらない方向へずれていき、信じられないほど切なく美しいエンディングを迎える。 岩井俊二の『Picnic』を、キアロスタミが脚色して、ジャン=ピエール・ジュネが『ロスト・チルドレン』風に撮ったら、こんな感じのものができるのかもしれない。 さて、スーザン・ハリスンの言葉を引用しておこう。 "Be Prepared to cry...!" 訳すとすると、安っぽくなってしまうが、「ハンカチの用意を」。 なお最後になりましたが、翻訳協力者の西田佳子さん、原文とのつきあわせをしてくださった久慈美貴さん、編集の津田留美子さん、総監督・総指揮の田中優子さんに心からの感謝を! 二00三年五月五日 金原瑞人 訳者あとがき(『五00年のトンネル』) 三村さんが見事な解説を書いてくださったので、訳者としてはもういうことはない。ただひとつだけ付け加えるとすれば、ここでは「異文化の衝突」というテーマが驚くほどリアルに展開されているということだろう。ここで起こった事件は、まさにアメリカ大陸で白人とインディアンのあいだに生じたことでもある。 「ここはわれわれの土地だ!」トーキルドは椅子を後ろに押しやって立ち上がり、テーブルを回ってまわってやってきた。すさまじい怒りに、アンドリアはあとずさった。「ここはわれわれの土地だ。われわれが戦って守ってきた土地だ!」 テーブルの端に座っていたゴビーは、立って身を乗り出している。「スコットランドの襲撃者や軍隊が南下してきたら、イングランドの王がわれわれのために戦ってくれるのか?」…… 「否!」の大合唱が壁にこだました。 「ここはスターカームの土地だ!」トーキルドがいう。「われわれの土地だ! この土地を守るために戦っているのはほかのだれでもない、われわれなのだ!」…… 「怒らないで」アンドリアはいった。「怒らずにきいて。大切な話があるの。あなたたちは戦えば、エルフに勝てると思ってる。これだけはいわせて。あなたたちはこの戦いにすでに負けているのよ。もう勝負はついてるの。もう終わってるのよ。あなたたちは負けたの。あなたたちにできるのは、自分の命を守ることだけよ」…… トーキルドはいった。「だから戦うなというのか?」…… 「でも戦う気なら──きいて! このことをじっくり考えてみたの──アメリカのインディアン戦争みたいなことに──」わたしったら、なにを口走っているの? この人たちは、アメリカのことなんてきいたこともないのに。まだ起こってもいないインディアン戦争のことをいっても、わかるはずがないじゃないの。 スターカームがなにか──なんでもいいから──スー族か、ネズパース族か、シャイアン族の滅亡について知っていてくれたら、どんなに絶望的な状況に置かれているのかはっきりわからせることができるのに。優れた武器を持った人々の止めようのない侵略。必ず破られる幾多の取り決めや条約や約束。抵抗運動@レジスタンス@の鎮圧を口実にした総力戦や集団殺戮。そんなことが歴史のなかで何度繰り返されてきたことか。 「みんな殺されてしまうわ」アンドリアはいった。 しかしこの戦い、白人対インディアンのときのような一方的なものには終わらない。『エルフギフト』でキリスト教対異教の凄絶なせめぎ合いを描いたスーザン・プライスは、ここでも見事に、その戦いを描き出してくれた。 なお最後になりましたが、いつもながらわがままをよくきいてくださる編集の山村朋子さん、原文とのつきあわせをしてくださった野沢佳織さん、細々した質問にていねいに答えてくださった作者に心からの感謝を! そして、最後の最後に、いまはなきネイティヴ・アメリカン作家ジュマーク・ハイウォーターに、この日本語訳を捧げたいと思う。 二00三年五月十五日 金原瑞人 訳者あとがき 『青空のむこう』に続く、アレックス・シアラーの第二弾、いかがでしたか? じつはこの作品、『青空』とはちょっと雰囲気がちがっているので、読者の反応はどうなんだろうと、ずっと気になっていたのだが、二百人のモニターのみなさんのアンケートをみてほっとすると同時に、驚いてしまった。『青空』のときには、「おもしろかったですか?」という質問に対して、「はい」と答えた方が八十四%。ところが今回、なんと九十四%の方が「おもしろい!」との回答。ちなみに「いいえ」と答えた方はわずか五%だった。そして寄せられた感想を読んで感動してしまった。読んだ方々の熱い思いがひしひしと伝わってくる。それを並べるだけで、素晴らしいあとがきができてしまいそうだ。というわけで、今回は、そういった感想を中心に、この本の魅力を紹介してみたい。 この作品を簡単にまとめてると、年老いた魔女にだまされて体を奪い取られた少女が自分の体を取りもどそうと必死になる物語ということになるだろう。『青空』と同様ファンタスティックな話だが、『十三ヵ月』のほうはストーリーそのものがずっとスリリングで、楽しくしあがっている。たとえば…… ・テスト勉強を放り投げ、代わりにこの本を読む、私にはそういう魔法がかかったんでしょうか?(笑)(十四歳・女性) ・こんなにワクワクしながら読んだ本は初めてで、何度も何度も驚いた……あんなに「続きが知りたい!!」「早くあの本を読みたい!!」と思うことは、きっともうないだろう(十六歳・女性) しかしそれだけではなく、やはり『青空』と同じように、いや、それ以上にさわやかな感動を与えてくれる。それまで考えもしなかった世界に放りこまれたカーリーは、まったく新しい目でいろんなものを見るようになる。友情、家族への愛……そしてなにより、自分を見つめる新しい目。 ・この本は忘れていた何か大切なモノを思いさせてくれました。それに、自信を持たせてくれました。この本は、元気がない時や、何か心に穴が開いてしまった、そんな人々に読んでもらいたい、そんな本です(十四歳・女性) ・私はよく本を読むと泣いてしまう。しかし、この本は本当に自分がカーリーのように声を上げて泣いてしまった(十七歳・女性) ・変な言い方かもしれませんが、私はこの本を読んで、私の周りにいてくれるたくさんのメレディスたちの存在でとても安心でき、私も誰かのメレディスになりたいと思ったのです(十六歳・女性) ・ストーリーのどこを取っても楽しく素敵でしたが、最後に印象に残った文章を書きたいと思います。「家というのは、いたいと思う場所、心のすみかだ」毎日、何ともなしに過ごしていますが、家・家族のあたたかさを改めて感じることができた(二十五歳・女性) それからもうひとつの大きなテーマを忘れてはいけない。それは作者もあとがきで書いているように、「老い」である。この作品は、多くの大人からほとんど耳を貸してもらえない「子ども」と「老人」をたくみに入れ替えることによって、「老い」について「若さ」について様々な問いを投げかけてくる。 ・入院してる私の祖母が「お医者さんが自分につらくあたる」と家族に訴えたとき、みんなで「また、そんなこと言って」とまともに取り合わなかった、つい最近の自分の出来事とオーバーラップして、深く考えさせられてしまいました(三十歳・女性) ・カーリーは言う。「母さん、心配しなくていいよ。母さんが年をとったら、あたしが面倒をみてあげるから」まだ若い母親に、年老いたグレースを重ねて、思わず発した言葉。私は、この母親と一緒に目頭が熱くなった(二十八歳・女性) ・どれだけ顔がしわくちゃになっても、おおらかな気持ちを持ち続け、子供の笑い声や小鳥のさえずり、暖かな日の光に、まっすぐ笑顔をむけられるおばあさんでいたいと思いました(女性) ・子供だからって何もわからないと思ってほしくない。感じる心は大人も子供も一緒なんだから。それに自分達だって子供の頃があったわけだし、その頃の純粋で好奇心たっぷりだった気持ちを心の貯金箱から引き出してほしいな。そうすれば、みんなやさしくて幸せな世の中になるんじゃないかな。自分達が思っている以上に、人ってつながっているんだよね。カーリー、メレディス、ありがとう(三十六歳・女性) そしてとくに強調しておきたいのは、やはり主人公の魅力だ。魔法使いでもなければ、英雄でもない、ごく平凡な女の子が、自分と友だちだけをたよりに大きな敵に立ち向かっていく後半は、とても感動的だ。 ・今ではハリー・ポッターやロード・オブ・ザ・リングなど有名なファンタジー作品が沢山あるけど、何の力も持たない女の子が一生懸命に魔女と戦う描写は、読んでてのめりこむことができた(十八歳・女性) ・最初から最後まで主人公が全力でのりきっていく所に、私自身もパワーが伝わってくるような気がしました(女性) ・読み終わって、「ああ、やっぱりね」って感じにはならなかった。それよりも、「よかったね〜ホント、ほ〜んとよかった」って思った(三十歳・女性) 最後に、『青空』とこの本の両方に共通して流れている、作者のメッセージを本文中から抜き出しておこう。ここの部分がとても印象的だと書いてくださったモニターの方も何人かいらっしゃった。 「メレディス、今あるものをすべて当然だと思ってはいけない。すべてが永久にこのままだなどと考えてはいけない。決して変わらないものなどないんだから……われわれにできるのは、最善を祈ること、そしていま目の前にあるものを楽しむことだけだ。今のためにではなく、今を生きるんだよ。確実なのは今だけなのだから」 そして、最後の最後に、もうひとつ。 ・この一冊で私の日々の生活までが変わりそうな……本当にありがとうございました(十四歳・女性) なお、読者モニターの方々、編集の深谷路子さん、翻訳協力者の菊池由美さん、原文とのつきあわせをしてくださった桑原洋子さんに心からの感謝を。 二00三年三月二十五日 金原瑞人 |
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