あとがき大全28

金原瑞人

           
         
         
         
         
         
         
    
1.『ティモレオン:センチメンタル・ジャーニー』(ダン・ローズ作 金原瑞人・石田文子訳 アンドリュース・クリエイティヴ)

 おい、またそのネタかといわれそうだけど、そうそう、またこのネタなので、興味のないかたは先へどうぞ。
 9月7日、BSの週間ブックレビューで、歌人の東直子さんが荻野アンナ、長嶋有を相手にこの本の紹介をしてくださった……らしい。らしい……というのは、当日、金原はロンドンの本屋で本を探していて、そのときの鼎談がすごくよかったといっていたアンドリュース・クリエイティヴという出版社の人にビデオを見せてほしいといっているにもかかわらず、まだみていないからである。
 前回紹介した、豊崎由美さん、江國香織さん、東直子さんと、なぜか女性がずらっと並んでしまうのだが、『ティモレオン』、今年の四月に出版されてから、ときどき痙攣的に取り上げられるのがうれしい。そしてそれ以上にうれしいのは、いろんな人から、いろんな感想が寄せられること。
 つい昨日、法政の社会学部の同僚でベルギーに留学中の鈴木智之さんから、メールが届いた。

(東京とリエージュのどちらにいても、仮住まいのようで、なんだか落ち着きません)
 それから、『ティモレオン』。さっそく、飛行機の中で読ませていただきました。とても面白かった。一匹の犬(捨て犬)の旅とクロスする形で、色々な人間のストーリーが語られるという構成が、確かに『犬の日』とよく似ていることもそうですが、ざくざくと身もふたもない現実を語り飛ばしていく、その残酷さとスピード感は、僕にとっては岡崎京子に通じる感触を残すものでした。

 これを読んで思い出したのが、義太夫の太棹を弾いている鶴沢寛也さん。じつは桂文我さんが国立劇場の演芸場で、落語・新内・女性義太夫という三ジャンルのセッションを企画して、その舞台稽古をのぞかせていただいたときに知り合った方。寛也さんとお話をしているうちに、「じゃ、そのうち訳した本を送ります」といって、挨拶代わりに送ったのが『青空のむこう』。どなたにもまずは無難な作品である。すると、寛也さんから「あら、これ二冊買って、ほかの人にもプレゼントした本」との返事。この例からもよくわかるように、訳者というのはほとんどの読者の記憶には残らないものなのである。それはともかく、そんなこんなで翻訳のことを話題にしているうちに、「いやあ、最近、いろんなところで、いろんな評判の、後味のあまりよくない本があるんですが」という話になり、「あら、どんな本かしら?」「送ってみましょうか」「ええ」というわけで、『ティモレオン』を送ったところ、その感想のメールがすごかった。
 「読み始めから気分が悪く、何度も挫折しかかりながらも我慢に我慢を重ねて読み進め、ついに最後、吐いちゃった」という内容。義太夫だって、けっこうえぐい話あるのになあと不思議に思ったものの、たしかに、『ティモレオン』のえぐさは一種独特で、まあ、こういう種類の作品が嫌いな人は早々に読むのをやめるものだが、訳者から送ってもらった寛也さんとしては、それもできず、ついに……ということになってしまったらしい。悪いことをしてしまったが、本を読んで吐くというのは、なかなかのことではない。一生、忘れられない本として頭の中に存在し続けると思う。
 それから数日して、寛也さんからこんなメールがきた。「それまでだめだった岡崎京子が読めるようになった。『ティモレオン』効果らしい」。
 というわけで、なぜか鈴木さんも寛也さんも『ティモレオン』と岡崎京子が微妙なところでつながっている。おもしろい。
 さて、この章、つい今夜届いた寛也さんのメールでしめるとしよう。(文中、〈 〉の部分は金原の注)

『不思議を売る男』読了!
 この題は、先生がつけたの? 実にぴったりのいい題名ですね!〈編集がつけました〉 うそのハコ・じゃ、感じでないもんね〈A Pack of Lies、訳すと「嘘ばっかり」って感じかな〉。
 最後のどんでん返しには驚きました。やっぱり通読しても、「鉛の兵隊」一番好き。やせ我慢の美学、悲壮感と無常観、まさに時代物じゃ、三代記だ! 熊谷陣屋だ! 他に印象的だったのは、うそつきの女の子が、蛇にかまれて死んじゃうお話。この中では好きなほうではないのです。でも癇の強い少女が、インドの気候風土の中で、どんどんエスカレートして行く様子に、大阪の耐えられない夏と、夏祭浪花鑑の殺しとの関係を、思い起こさせられました。あの蒸し暑さを経験して、ああこれじゃ、殺したくもなるだろうな……と妙に納得したので。
 でもこれ児童書だよね。わたし正直にいうと、Y・A系より、ずっと肌になじみます(ジャンル分ける必要ないといわれりゃ、それまでだけど)。考えてみれば、読書歴は『うさこちゃん』『こどものとも』から児童書、中学で芥川、とかでしたから、当時はヤングアダルトって分野なかったし、自分の中にないものは難しいのかなぁ。
 で、あとがき大全で『不思議』捜したらなくって、なんとなく「HP開設」ってのをあけたら、大爆笑!やっぱり先生A型よね。私も、ここはアラブかいっ!ていうようなB型ばかりの女義でのなかで、奮闘してるAです〈へえ、女性義太夫の世界って、そんなにB型が多いんですか? 知らなかった。まるでSF作家の世界みたい〉……

(そういえば、偕成社から出ている『幽霊の恋人たち』『不思議を売る男』『アンブラと4人の王子』の三冊にはあとがきがない。そのうち、ここで書かなくちゃ)


2.9月14日両国にて
 「ブレヒト的ブレヒト演劇祭参加・桂文我のちょっと変わった落語会」が催された。ブレヒトをネタに新作落語をふたつ上演して、その途中に対談をふたつはさみ、最後に古典落語をふたつ……という内容。文我さんは最初から最後まで出ずっぱり。この対談での文我さんのお相手が金原だった。文我さんとの会はこれで二度目。第一回目は、文我さんが落語の歴史を40分で語り、金原が「野菜とアメリカ」を40分で語り、そのあいだにふたりの対談をはさむという形の催し。
 金原も二年ぶりの舞台という(ほどのものでもないのだが)ので、しっかり身内や親戚や知り合いや仕事仲間などにチラシを配って宣伝したおかげもあって、かなり暇を持てあました知り合いと、ちょっと断れない知り合いがたくさんきてくださった。とてもありがたい。まるで、落語でいえば「寝床」のような感じである。ところがそのなかに、こちらがお世話にばかりなっていて恐縮するような方もかなりいらっしゃっていて、恐縮するあまり、舞台では思い切りあがってしまった。そのうちのひとりが原田保さんご夫婦。蜷川幸雄の芝居の照明を長いこと担当している原田さんには、ずいぶんとご迷惑をおかけしていて、足を向けて寝られないのだが、その話はさておき、今回は、原田さんから渡された三冊の戯曲を紹介してみたい。
 原田さんがロンドンで観てきたという『ユートピアの岸辺』の戯曲三冊を貸していただいた。去年のことである。作者はトム・ストッパード。金原の大好きな『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』の作者だ。この作品については、ドナ・ジョー・ナポリの『逃れの森の魔女』のあとがきで触れたので、その部分を引用しておこう。

 イギリスの劇作家トム・ストッパードの作品のひとつに『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』という芝居がある。日本でもずいぶん人気があって、一、二年に一度くらいはどこかの劇団が上演している。今年も生瀬勝久と古田新太主演で舞台にかかる。これはシェイクスピアの『ハムレット』のパロディで、まったくの端役ふたりを主人公に仕立てた、前半抱腹絶倒、後半ドタバタから悲劇へ、全体として不条理というまさにスリリングな現代劇になっている。それにしてもすごいのは、原作では筋をうまく整理するための機能的な役にすぎないふたりを中心にすえて、現代的な視点から『ハムレット』をひっくり返してしまったところだろう。うわっ、そんなのありかよ、と驚きながら、機関銃のように発射されるギャグに翻弄されているうちに、舞台の奥から不可解な罠が浮かび上がってくる。おかしくて、悲しくて、恐ろしい現実が浮かび上がってくるのだ。
 パロディというのは、こうあってほしいと思う。

 ストッパードという劇作家、まことにおもしろい。第一次世界大戦中のある時期、イギリスの作家ジェイムズ・ジョイスと、ダダイズムの第一人者トリスタン・ツァラと、ロシア革命の立役者レーニンがチューリッヒ(だったと思う)にいたという事実に注目して、それを軸に舞台に仕立て上げてしまう。この『トラベスティーズ』という作品、劇中でオスカー・ワイルドの『まじめが大切』という喜劇を上演することになるのだが、言葉遊びとナンセンスが奔放に混じり合っていて、翻訳はすこぶる難しい。できれば柳瀬尚紀あたりを抜擢したいところ。金原には絶対に無理。ただここで一言いっておくと、翻訳の不可能な作品はないと思う。なにしろ、ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』という絶対に翻訳不可といわれていた作品の日本語訳が出ているくらいなのだ。
 ともあれ、このナンセンスとパロディと不条理で有名なストッパードがリアリズム劇を書いた(もちろん、それまでにも『裏切り』とかその手のものを書いていないことはない)、そのうえ歴史劇である。タイトルは先にも書いたが、『ユートピアの岸辺』。時代は、革命前夜……というより、かなり前のロシア。中心となるのはバクーニン、それにツルゲーネフやらマルクスやらといった歴史上の人物がからんでくる。
 最初に読んだときは、ううん……ほんとにリアリズムだなあ、ちょっと今の日本では上演は難しいかもと思ったのだが、ついこないだロンドンにいったとき、ふと気になって読み直してみると、「おや、おもしろいかも」……どこかの劇団でやってくれないかなと思わないでもない。
 いったいどんな内容なのか……気になる方は、金原のHPをのぞいてみてほしい。来月くらいにはこの要約が載る予定。
 というわけで、金原のHP、まわりの助けを借りながら、というか、まわりの助けに頼りながら、なんとか少しずつさまになりつつある。たまに訪ねてみてほしい。思わぬ発見があるかもしれない。スタッフが充実しているので、かなりまめにリニューアルされている……らしい。


3.フランチェスカ・リア・ブロック
 このあとがき大全のあとがき、そろそろめぼしい作家のものは一通り取り上げたが、大物がひとり残っている。フランチェスカ・リア・ブロックである。いまのところ金原がらみの翻訳では〈ウィーツィ・バット・ブックス〉(『ウィーツィー・バット』『ウィッチ・ベイビ』『チェロキー・バット』『エンジェル・フアン』『ベイビー・ビバップ』)をはじめとして、『少女神第9号』『ヴァイオレット&クレア』と7冊が出ているが、来月あたりに『薔薇と野獣』(東京創元社)と『人魚の涙、天使の翼』(主婦の友社)が出る予定。
 というわけで、来月号では、ブロックの作品のあとがきをまとめて載せることにしようと思っている。それに先だって、今から五年前、まだブロックの作品の翻訳が出ていなかった頃、「翻訳の世界」という雑誌に寄稿した雑文を(多少手直しして)載せておく。いままで、ここで書いたことと重複する部分もあるが、まあ……

   ボーダーレス?(現代アメリカのヤングアダルトの本を中心に)
                                金原瑞人
 アメリカの場合、境界(ボーダー)があるのかないのか、境界を作るほうがいいのかなくすほうがいいのか、どちらも微妙な場合がけっこう多い。たとえば黒人作家のリチャード・ライトが、やはり黒人作家のゾラ・ニール・ハーストンの書いた小説『神を見つめる目』を、白人の期待する黒人像を描いた白人迎合型の小説だとして徹底的に批判したのが一九三七年。ライトのような攻撃的な姿勢は現在でも黒人のあいだに根強く残っており、現在、その最先端がラップの歌詞によく表れている。が、一方で、黒人女優ウーピー・ゴールドバーグは「わたしは『アフリカ系アメリカ人』なんて絶対に呼ばれたくないわ……だってこの国に生まれたんだもの。わたしは、ホットドッグやベースボールと同じくらい『アメリカン』よ」と語る。もちろんライトとゴールドバーグの主張は真っ向から対立しているわけではなく、微妙にかみ合いながら、微妙に対立しているわけで、アメリカにおける少数民族の微妙な立場をうまく反映している。
 さて、アメリカの「児童書」におけるボーダーレスの現象について論ぜよという編集部からの依頼を受けて、こんな一見場違いな(もしかしたら、本当に場違いな)エピソードから始めたのには理由がある。じつをいうと、アメリカにおいては、「児童書」は昔とあまり変わらず、それまでに「児童書」で扱われていないようなシリアスなテーマや現代的なテーマを扱った作品は「ヤングアダルト向け」の本のなかに分類されることが多いからである。つまり、「ヤングアダルト」というジャンルが一種の緩衝剤のような役割を果たしているといっていい。
 というわけで、ここではまず戦後のアメリカの文化をしばらく追っていき、「子供」と「大人」のあいだに「若者」が入ってくるまでの過程を簡単にまとめ、そのあとで「若者」向けの本を中心に最近の動向を紹介していこうと思う。というのも、大人にも子供にも接点を持ちつつ、様々なテーマをどん欲に取り込んでいく若者層は、アメリカでは五0年代後半以降現在にいたるまで、ホットでクールな(熱くてカッコイイ)部分なのだから。もしボーダーレスと呼ぶとしたら、まずこの部分だろう。

一 二層構造から三層構造へ
 一九五0年代の後半、リズム&ブルースにカントリー・ミュージックの要素を加味したロックンロールが生まれ、ビル・ヘイリー&ザ・コメッツ、エルヴィス・プレスリーといったスターを核にアメリカ全土に広がっていく。アメリカの音楽史において、この現象は音楽ファンを真っ二つに分けることになった。つまり「大人」と「若者」である。それまでのアメリカにおける大衆音楽は、いってみれば、家族がいっしょにテレビの前で楽しめるようなもので、たとえばフランク・シナトラ、トニー・ベネット、ドリス・デイ、パティ・ペイジといったシンガーによる「おとなしくて、お行儀のいい音楽」だった。そこにエレキギターをかき鳴らし、絶叫し、腰をくねらせるロックンロールが、ある意味で、暴力的に登場してきた(当時、アメリカ各地でロックンロール排斥運動が起こったことはいまさらいうまでもない) このロックンロールを支持したのが当時の若者だった。
 ここで注意しておきたいのは、アメリカの当時の若者がそういった文化を支えるだけの経済的な力を持っていたということである。五九年のティーンエイジャーのマーケットは約一00億ドルと算定されており、雑誌「セヴンティーン」の編集者シガナ・アールによれば、二十歳以下の女性が自分で使える金額は四五億ドルであったという(Rock of Ages: The Rolling Stone History of Rock & Roll, by Ward, Stokes and Tucker)。つまりこの時代のアメリカにおいて、世界で初めて「若者」が社会的経済的に認知されたのである。
 もちろんこういった現象は音楽だけにとどまらない。たとえば映画もそうで、『理由なき反抗』『暴力教室』(この作品の主題歌にビル・ヘイリー&ザ・コメッツの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が使われ、全米ヒットとなる)という青春映画が封切られたのが五六年である。また衣類もそうで、戦前の若者は「不格好な世代」と呼ばれていた。というのは、社会に「大人服」と「子供服」しかなく、ぶかぶかの服を着ているか、きゅうくつな服をきているかのどちらかだったからである。数十年後、丸井のヤング・ナントカができるなどと予想した人間はひとりもいなかっただろう。それが五0年後半から六0年代にかけて、若者がひとつのファッションの流れを作っていくようになる(日本は、十年以上遅れてアメリカを追いかける格好になる)
 つまり五0年代後半の「若者」の登場によって、それまで「大人と子供」という二層構造であったものが、境界線が一本増えて、三層構造になっていくわけである。
 ところが音楽業界とくらべて、出版業界の反応は鈍かった。ここで詳しく述べる余裕はないが、おそらく、本というメディアの持つ独特の鈍感さがそこには存在する。アメリカの出版界が「若者」という層を意識するようになるきっかけになったのは、まず六四年にアメリカでペーパーバックで出版された『指輪物語』の大ブームだろう。このブームを引き起こしたのが若者たちであり、アメリカではこれ以降、若者向けのファンタジーが量産されるようになる。それともうひとつは若者のあいだに蔓延するようになったドラッグ、アルコール依存症、非行、十代の妊娠といった社会問題に触発される形で六0年代後半から七0年代にかけて出てきた、非常にリアルで現代的なヤングアダルト向けの本が注目を集めるようになったことだろう(ちなみに、「ヤングアダルト」という言葉はこの頃出版界で使われるようになったもので、音楽や映画の世界で使われることはまずない)
 つまり本は音楽から十年ほど遅れて、若者層をひとつのマーケットとして認知することになるのだが、とにかくアメリカでは戦後、年齢的な二層構造が三層構造になることは強調しておいていい。というのも、この三つの層が現代の文化のあり方をある程度規定しているのだから。

二 アメリカのヤングアダルト向けの本
 ここでは便宜的に、小学生以下を対象としたものを「児童書」、中高生を対象にしたものを「ヤングアダルト」、大人向けのものを「一般書」としておこう(これでいくと、大学生の読む本は「ヤングアダルト」と「一般書」の両方にまたがることになる)
 アメリカの場合、いわゆる児童書と呼ばれるジャンルは戦後それほど変化していないように思える。たしかに内容的には豊かになってきた。たとえば、マジョリティ、つまりヨーロッパ系白人の作家によるもののほかにも、黒人、メキシコ系、ネイティヴ・アメリカン(アメリカ・インディアン)、アジア系、カリビアンといったエスニックと呼ばれる人々の作品が増えてきている。絵本においても、絵の多様性はいうまでもなく、南部から北部の都市に移っていった黒人たちの苦難を描いたもの、多民族の歴史としてのアメリカ史といった感じのもの、第二次世界大戦中の日系人の強制収容所を舞台としたもの、ヴェトナムからの移民を主人公にしたものなど、様々である。たしかにこの点においては、アメリカの児童書はボーダーレスになってきたといってもいいかもしれない。といってもそれはアメリカ文学一般についてもいえることだし、見方を変えれば、ボーダーレスどころか、それぞれのエスニック・グループが自分たちの境界を明らかに宣言しつつある現象であるともいえないこともない。
 しかしそれ以外の面では、アメリカの児童書はそれほど変わっていない。なぜ変わっていないのかその理由は、ここでは紙面の都合もあるので、触れないで先を急ごう。
 こういった児童書に対し、ヤングアダルト向けの本と大人向けの本とのあいだの境界はかなりあいまいになりつつある。というよりも、ヤングアダルト向けの本が様々な形で多くの読者に読まれるようになってきているといったほうがいいかもしれない。
 そもそも初めにまとめたように、ヤングアダルト向けの本というのは、新たに登場した若者層を対象に作られたものであり、ファンタジーとリアリズムというふたつの方向性を持っていたのだが、かなりの数の作品が一般読者にまで浸透してきている。
 たとえば、六四年にペーパーバックで出版されたトルキンの『指輪物語』は当時の若者層の圧倒的な支持を受けて大ベストセラーになり、ファンタジー・ブームを産む。現在ではごくあたりまえに使われる「ファンタジー」という言葉が世界で初めて文学的・社会的な市民権を獲得したのはこのときであったことは強調しておく必要があるだろう。このブームがなければ、たとえば佐藤さとるのコロポックルのシリーズを初めとする「日本のファンタジー」も、いまもって「創作民話」と呼ばれていたにちがいない。
 そしてこのブームは、「ナルニア国シリーズ」や「ゴーメンガースト三部作」といった過去のファンタジーの再評価を迫るとともに、国内で「ゲド戦記」「コブナント・シリーズ」『最後のユニコーン』といった傑作を産み、海外でもミヒャエル・エンデをはじめとする優れたファンタジー作家を産むことになる。これらのファンタジーはほとんどが児童書の棚にも、ヤングアダルトの棚にも、一般書の棚にも置かれている。
 またリアリズムの作品でも、スーザン・ヒントンの『アウトサイダー』や『ランブル・フィッシュ』、ロバート・コーミアの『チョコレート・ウォー』といった作品はヤングアダルトという境界を越えて一般にも広く読まれ、また映画にもなっている。

三 現代のヤングアダルト小説の持つ広がり
 英米でもヤングアダルト向けの作品群はかなり幅が広く、集英社のコバルト文庫、講談社のX文庫などのようなエンタテイメントもあれば、SFやミステリもあるが、ここではとりえあえずファンタジーとリアリズム小説にかぎるとして、このふたつのジャンルの最近の収穫を報告しておこう。
 まずファンタジーのほうでは、なんといってもイギリスの作家フィリップ・プルマンのNorthern Lights(アメリカ版のタイトルはThe Golden Compass)だろう。この作品は一九九五年、イギリスでヤングアダルト向けのファンタジーとして出版され、児童書に与えられることになっているカーネギー賞とガーディアン賞の両賞を受賞したが、トルキンやエンデの作品のように大人の読者も魅了している。これは三部作の第一部で、第二部のThe Subtle Knifeも出版され、好評である。どちらもかなり分厚い本で、完成すれば、トルキンの『指輪物語』とほぼ同じ長さになると思われる。どちらかというとオーソドックスなファンタジーだが、着想と構想と構成がすばらしく、物語の楽しさを十分に堪能させてくれることはまちがいない。まさにページ・ターナー(次々にページをめくってしまう)の一冊といっていいだろう。
 またアメリカのヤングアダルト向けの本の新しい流れというと、これまで児童書やヤングアダルトの世界で敬遠されてきた同性愛を扱った作品がやっと出始めたことだろうか。一九九四年に、Am I Bule?: Coming Out from the Silence、Not the Only One:Lesbian& Gay Fiction for Teensという二冊の短編集が出版され、注目された。どちらもゲイ(英語ではホモセクシュアルとレズビアンの両方を指すことが多い)をテーマにしたもので、ヤングアダルトの棚だけでなく一般書の棚、あるいは大学の書店などでも平積みにしてあった(もっとも、この目で確かめたのは西海岸だけで、東海岸でどうだったのかはわからないが)これらの本は、赤裸々な性描写はないが、シリアスに、ときにユーモラスに同性愛の問題を扱っていて、それぞれの短編もよくまとまっている。
 しかしこの流れはもう少しまえからあって、その代表的な作家がフランチェスカ・リア・ブロックである。ここ数年、彼女の作品をたんねんに追っているので、少し詳しく紹介してみよう。
 ブロックは一九八九年に Weetzie Bat という作品で、同性愛の問題をからめながらロサンゼルスに住む若者の姿をあざやかに描いた。主人公のウィーツィーは素敵なボーイフレンドをみつけるが、彼がゲイだということを知り、ふたりしていい男をさがしに街にでるところから物語は始まる。この作品は西海岸の若者のあいだで静かなブームを呼び、続編が四作出ることになる。そして最近、これら五作が合本の形になり、The Dangerous Angels というタイトルで大手から出版されベストセラーになった。けばけばしいロサンゼルスの街とファッション、そのなかで紡がれる様々な形の愛が数人の登場人物の視点から、ときにリアリスティックに、ときにファンタスティックに描かれており、映画化も検討中とのことである。また、ブロックは九六年に Girl Goddess #9 という短編集を発表した。これはゲイを含めて、「少女の愛」をテーマにした九つの物語である。
 ブロックの作品では繰り返し若いゲイのカップルが描かれるが、その特徴は、彼らがなんら特別な存在としてではなく、ごく自然に、ごく普通に、こだわりなく描かれていることだろう。吉田秋生の『ラヴァーズ・キス』をそのまま西海岸に移してキッチュでパンクな装いをさせれば、こんな感じになるのかもしれない。ここにはいわゆる一般書に描かれるゲイとはかなり異質のゲイが描かれている。
 ヤングアダルトというジャンルはどこかで児童書の部分を、どこかで一般書の部分を引きずっているが、反面、若者の感性に非常に敏感な部分をしっかり持っている。そして若者の感性がとらえた時代に敏感に反応しながら、児童書からも一般書からも見落とされている部分をうまく受け止めることがある。
 ファンタジーとリアリズム小説のふたつの部分から、ヤングアダルト向けの作品がたまに、その枠をはみだし、境界を越えて、一般書というジャンルを切り崩していくことがある。快い驚きがそこにある。アメリカでは、おそらく、この傾向はますます強くなっていくのではないだろうか。

(というわけで、次号はフランチェスカ・リア・ブロックの「あとがき集」です)