|
1.フランチェスカ・リア・ブロック 前回の予告通り、今回はブロックの作品のあとがき集成。 ここ十年ほどを振り返って、英語圏のヤングアダルト向けに書いている作家のなかで、最も興味のある作家はだれかときかれたら、さて、どうだろう。ひとりにしぼることはできそうにない。しかしイギリスならデイヴィッド・アーモンド(新作の The Fire-Eaters も好評で、現在、ガーディアン賞とホイットブレッド賞の候補にあがっているらしい)、オーストラリアならソーニャ・ハートネット(ガーディアン賞を受賞した『木曜日の子ども』が来年、河出書房新社から出版の予定)、アメリカならルイス・サッカーとフランチェスカ・リア・ブロックといったところだろう……と偉そうに自分の好きな作家を並べてみると、みんなひと癖もふた癖もある作家ばかりで、いかにも金原好みであると思う。 ちょうど今また、ブロックの新作、Wasteland を訳している(ぴんときた人もいると思うが、このタイトル、T・S・エリオットの代表作『荒地』からとっている)。これは田中亜希子さんとの共訳。しかしまあ、難しい。ブロックの文体はどれも難しくて、もう「ウィーツィ・バット」のシリーズから難しかったのだが、この二年ほど、いよいよ難しくなってきている。 何が難しいかというと、シンボリックな言葉の使い方と、変幻自在なイメージの使い方だろう。ごくごくわかりやすい例を挙げると、次のような場合だ。 おまえが首を曲げてこっちを見た。その目は顔のわりにとても大きくて、とても謎めいて――まるで羽根を広げた形の蝶の仮面みたいに、まばたきをしていた。おまえはこっちを見たとたん、泣きわめくのをやめ、しばらくしゃくりあげていたが、そのうち身体を小さく震わせるだけになった。思わず、柵の間から指を入れてみた。 その指を、おまえは手をのばしてにぎってきた。それも、すごくしっかりと。だれの指かわかったんだ、と思った。生まれて初めて、自分の身体に心臓があることを実感した。 この最後の部分は、'That was the first time I knew I had a heart inside my body.' 。英語の場合、いうまでもなく、'heart' には「心」と「心臓」という両方の意味がある。だから、外科医がメスを入れるのも 'heart' なら、やさしいのも 'heart' なのだ。これは中国語でも同じで、「心」は心臓を指すこともあれば、心を指すこともある。ところが、日本語の場合、このふたつはたいがい分けて使う。小学館の『日本国語大辞典』によれば、「心」のほうは『古事記』の昔から用例はあるが、「心臓」という言葉は一四世紀になって初めて登場する。ただし、「心」を心臓の意味に使っている例は十世紀に登場するらしい。それはともあれ、現代の日本語では、「コンビニに入った強盗はナイフで、真ん前にいた客の心を突き刺した」とはいわないし、「心臓のやさしい人」ともいわない。 ところで、ブロックの原文にもどるが、ここは、赤ん坊(妹)に指をぎゅっと握られて、思わずドキッとしてしまって、心臓がきゅんとした……生まれて初めて、自分の体に心臓があることを実感した……となる(たぶん)。しかしこの 'heart' には、それでも「心」という意味がどこかに響いていることは間違いない。 と、ここまで書いてきて、ふと思ったのだが、これはブロックに限ることではなく、英語全般にあてはまることだった。 しかし、ともかく、ブロックはひとつの単語、ひとつのフレーズに、思い切りたくさんの意味やイメージを詰めこもうとする。これが、はっきりいって、翻訳者にとっては迷惑千万なのである。どうしてくれるんだよ、といいたくなってしまう。とはいえ、作者も海外の翻訳家の事情まで考えて創作をするわけではないし。 そういう言葉の使い方をするせいで、ブロックの文章は非常に訳しづらい。つかまえることができないのだ。まるで箸の先で蓴菜(ジュンサイ)をつまもうとしているような感じ、とでもいえばわかってもらえるだろうか。ひとつの文のなかで、ひとつの単語の訳を決めたとたん、ほかの単語の意味がずれてくる……そこで別の単語の訳を決めると、今度はほかの単語の意味がまたずれてくる……そんな感じ。 というわけで、一冊訳すと、作者への質問がかなりの数になってしまう。そして答えをもらっても、結局、そのまま訳すこともできないまま、「妥協!」ということになってしまいかねない。しかし、だからこそ、おもしろい。 ブロックの文体がこの二年ほど、いよいよ難解になってきたと書いたが、じつは初期の作品 The Hanged Man は様々なイメージが錯綜する非常におもしろく、しかし訳しづらい作品である。まだこの本を出してやろうという出版社は現れていないが、もしかしたらブロックの作品のなかでも最もブロックらしい魅力的な作品ではないかと思う。これまで訳してきたブロックの作品は、どれも共訳だったり、下訳をお願いしたものばかりだが、この The Hanged Man だけは(もし翻訳出版の運びになれば)、金原ひとりで訳したいと思っている。深夜、酒を飲みながら、ゆっくりじっくり、ああでもないこうでもないと独り言をいいながら訳したくなる作品なのだ。そもそも、この本は万華鏡のようで、読む人によってずいぶんそのイメージもテーマも変わってくると思う。 この作品、タトルの翻訳教室で教えているときに、課題として「要約をまとめてくるように」といったことがあるのだが、そのときの生徒さん7人が提出したものは、どれもほかのものと全くといっていいほど違っていた。つまり、7人7様の要約が出てきたのだ。そのなかでも金原の読み方と近かったものをひとつ、HPに載せようと思っているので、もし興味のある方は、のぞいてみてほしい。12月頭にはUPできると思う……といっても、UPするのは宮坂さんなんだけど。 まあ、そんなこんなで、訳者泣かせのブロックの翻訳も11冊になろうとしている。金原訳(共訳もふくむ)で出ているのが『ウィーツィ・バット』『ウィッチ・ベイビ』『チェロキー・バット』『エンジェル・フアン』『ベイビー・ビバップ』(以上五冊、東京創元社)『少女神第9号』(理論社)『薔薇と野獣』(東京創元社)『ヴァイオレット&クレア』(主婦の友社)『人魚の涙・天使の翼』(主婦の友社)。その他、金原の訳ではないが『Nymph 妖精たちの愛とセックス』(アーティストハウス)が出ている。そして来年あたり Wasteland (主婦の友社)が出る。出る本出る本、次々と翻訳されている。スティーヴン・キングやジェフリー・アーチャーといったエンタテイメント界のベストセラー作家でもあるまいに、珍しいことだと思う。 というわけで、金原がブロックの作品に寄せたあとがきを6つ並べてみた。なにしろ同じ作家の作品につけたあとがきである、あちこちで内容が重複しているのはしかたない(ブロックの本を初めて手に取る人に向けて書いているのだから)と思って、適当に読み飛ばしてください。 なお『ウィッチ・ベイビ』『エンジェル・フアン』『ベイビー・ビバップ』のあとがきは別の方が担当しています。 2.金原によるブロックのあとがき6本 訳者あとがき(『少女神第9号』) 一九八九年、『ウィーツィ・バット』(東京創元社刊)という、九0ページにも満たない薄っぺらい本がアメリカのヤングアダルトの間で大流行し、一気にカルト的な作品にまつりあげられてしまった。主人公の高校生ウィーツィはモヒカンの彼氏と意気投合するけど、彼氏はゲイで、ふたりはいっしょにクールな男をさがしに街にでかけ、そのうちランプの精が出てきて……という、ロサンゼルスを舞台にした、まさに、ぶっ飛んでいる……そしてたまらなく切ない、この小説は続編、続々編、続々々編、続々々々編と続き、合計五冊のシリーズ物になり、今年その誕生十周年を祝って五冊を一冊にまとめたものが『危険な天使』というタイトルで出版され、これがまた人気を呼んでいる。 おそらく今のアメリカで最も熱く、最もポップで、最もリアリスティックで、最もファンタスティックな本を書く作家……今までだれも書かなかったスタイルで今の若者を書く作家……といえばフランチェスカ・リア・ブロックだろう。 数年前、『ウィーツィ・バット』の妙に派手な表紙とその薄さが気になって、サンフランシスコの本屋で買って、帰りの電車で読み終えたとき、なんだか四千メートル上空からストーンと落ちたような気がしたことをよく覚えている。そのときの気持ちは、驚きというにはあまりに鮮やかで、感動というにはあまりに切なく、どう受け止めていいのか途方にくれてしまった。 しかし本を読んでこれほどうれしくなったことは珍しい。「こんな作家が現れたんだ!」という喜びが体中を駆け抜けた。まさに現代のヤングアダルトのための本が、やっとアメリカに登場したらしい。 そのブロックの九つの短編を集めたのがこの『少女神9号』。様々な女の子が主人公で、様々な物語が語られていく。 両親と楽しい夏の日を過ごす幼い女の子。お母さんが自殺してしまいお父さんが酒浸りになってしまって、ひとり取り残される女の子。ふたりのお母さんに育てられ、お父さんをさがしに出発する女の子。ロック・スターの追っかけをして、誘われるままにベッドインする女の子。ゲイの男の子を好きになってしまった女の子……。 これはまさにブロックのエッセンスが一冊に凝縮したような本で、現代版『九つの物語』といってもいい。 インターネットでアメリカの読者からの感想をのぞいてみよう。 ・むちゃくちゃ素敵で、本当にこんな本があったなんて信じられないくらい。この九つの物語は、現実を完全に越えちゃってる。 ・この本を読んでっ! わたしが宇宙でいちばん好きな本。自分の中の女神を発見したい人はぜひ。 ・『少女神9号』はとてもシュールだ。この書き方がわたしはとても好き。ファンタジーとも現実ともわからないところに引き込まれてしまう。 ・もう数え切れないくらい読んじゃった。今までで最高の本……(これを読むと)、一日中、思わずにこにこしちゃうし、ほんのささいなことにでも目がうるうるしてくる。 とまあ、こんな感じだ。偉そうな批評家の言葉よりもずっとストレートにこの作品の良さを伝えてくれている。ちなみにアマゾンという本の通信販売の会社にインターネットでアクセスすると、読者の評価がのっているが、ブロックの本はほとんどが平均して、五点満点の四・五から五点だ。 そのうえ、ブロックの本は、モヒカンも茶髪も、ロックシンガーもパンクも、サーフィンもスケボーも、サングラスもリップスティックも、ゲイもレズビアンも、セックスもレイプも出てくるが、なぜか片っ端からアメリカ図書館協議会の「ヤングアダルトのためのベストブック」や、スクール・ライブラリー・ジャーナルの「ベストブック」や、ニューヨークタイムズ・ブックレビューの「注目すべき本」などに選ばれている。これから、アメリカのヤングアダルトの世界はブロックを中心に大きく変わっていくことは間違いない。少なくとも十年後には、それがはっきりした形となって表れてくると思う。 最後になりましたが、この危険な本の魅力を理解し、出版するにあたって力を貸してくださった編集の平井拓さん(日本の児童書の出版社がブロックの本を出すようになるにはあと十年くらいかかると思ってました)、この本を日本に紹介するのに最初から協力してくださったタトル・モリ・エイジェンシーの夏目康子さん(やっと出ました)、翻訳協力者にして調べ物の達人、築地誠子さん(訳注のほとんどは、築地さんが調べてくださったものを元にしてます)に心からの感謝を! 一九九九年八月五日 金原瑞人 訳者あとがき(『ウィーツィー・バット』) こりゃもう、突然変異というしかないと思う。一九世紀のイギリスに『不思議の国のアリス』がいきなり現れたときも、みんなはきっとこんなふうに驚いたんだろう。 五年くらい前、アメリカに住んでいたとき書店で何気なく手に取ったこの薄っぺらな本が、こんなに面白いとは思ってもみなかった。帰りの電車で一気に読み終えたとき、ふと窓の外をみると、一瞬、世界が変わったような気がした。ほんと、魔法にでもかかったような気分だった。 次の日、サンフランシスコはストーンズタウンにある小さな図書館にいって、司書の人にこの本のことをきいてみたら、「あら、アメリカ中でヤングアダルトに大人気の本なのよ」という答えが返ってきた。そこで調べてみると、とくに西海岸の若者を中心に口コミで広がっていき、一種カルト的な人気を呼んでいるとのことだった。 そりゃそうだ。こんな本が、アメリカの若者に読まれないはずがない。 ひとことでいってしまえば、ロサンゼルス(天使の街)を舞台に繰り広げられる現代のフェアリー・テールといったところだろうか。 主人公の高校生ウィーツィは、ホワイト・ブロンドのクルーカット、ピンクのハーレクインのサングラス、ストロベリー色のリップ、飾りの下がったピアス、ラメ入りの白いアイシャドー。このウィーツィの好きになった相手が最高にクールで最高に気の合うダーク(髪を黒く染めてモヒカンにしている)。ところがある日ダークは、「おれ、ゲイなんだ」と告白。ウィーツィは、「そんなことどうだっていいよ」といって、ダークを連れて街にボーイフレンドを探しに出る……けど、なかなかいい相手がみつからない……そんなある日のこと、ウィーツィが古いランプを何気なくこすっていると、ランプの精が出てきて、「願いをかなえてあげましょう」……ウィーツィは目をぱちくりさせながらも、「じゃ、世界平和を」というが、ランプの精は、「それはわたしには無理でして。それにそんな願いはかなったところで、どっかの偉い人が、すぐ台無しにしちゃいます」……そこでウィーツィは、「あたしとダークに素敵な彼氏を。それからみんなが住める家を」とお願いする……ところから、この物語は始まる。 このパンク少女のウィーツィとモヒカン少年ダークが紡ぎあげる物語、テーマは「愛」。それも、さまざまな人々が、白人も黒人もメキシコ系も中国系もカリブ系も、ゲイもレズビアンもストレートも、みんなして紡ぎあげるさまざまな「愛」だ。この薄い薄い本のなかには、そのほかにもドラッグ、エイズ、十代の妊娠、そして「死」までが詰まっている。しかし全体を貫いているのは「愛」だと思う。 さて、インターネットで読者の声をきいてみよう。──はっきりいって、文体もテーマも、いえ、すべてが嫌いです。わたしの子どもには絶対にこんな本を読んでほしくありません。子どもたちが本当に読みたいと思うならべつですが(でも、そんなことがもしあったら、わたしは子どもたちの正気を疑いますね)/この本は最近の「ぜーったいお気に入り」の一冊。ディケンズとかポーとかシェイクスピアとくらべてもいいと思う。おとぎ話の設定を使いながら、登場人物をとてもうまく描いて、現代が抱えている問題と現代に生きる喜びの両方を語っている……それから、(ロサンゼルスの街のことが)とても詳しく書きこまれていて、とってもリアル。続きが読みたくてたまらない!!!/ちょうど読み終えたところ。すっごい。みんなも絶対に読んでみて。ウィーツィは、ほんとにクールな世界のクールな少女。とにかく素敵なの! もっともっといろんなことをいいたいんだけど、胸がどきどきして……/この本はわたしの大好きなシリーズの第一冊目。ブロックのエキセントリックだけど表現力のある文体に、わたしはしっかりはまっちゃいました。ブロックはロサンゼルスの街を舞台におとぎ話を作りあげました。そのなかには、十代のセックスとか妊娠とか、ホモセクシュアルとか、一部の人たちが顔をしかめそうな題材も出てきます。でもブロックは説教くさいことをいったりはしません。主人公ウィーツィの目を通して、幸せなときだけでなく、つらいときにもそこにある、「光と愛」をみつめるのです。この本は、ときとして野蛮で、ときとして危険な「天使の街」に生きている人々の人間らしさを温かく語ってくれています……わたしがこの本を最初に読んだのは十四歳か十五歳のときです。いまはもう二十歳になりましたが、ブロックと彼女の作品のおかげで十代を生き抜いてこられたのだと思っています(以上、インターネット書店アマゾン・コムに寄せられた読者の声より) 『ウィーツィー・バット』が出てから二年後、ウィーツィーの娘ウィッチ・ベイビを主人公にした『ウィッチ・ベイビ』(東京創元社)が出版されて、これも評判となり、このヤングアダルトのシリーズは全五作まで続く。そして昨年、これらを一冊にまとめたものが一般向けに Dangerous Angels (危険な天使たち)というタイトルで出版され、ニューヨーク・タイムズのベストセラーに顔を出した。 いまアメリカで最も熱く、最もポップで、最もリアリスティックで、最もファンタスティックな本といえば、この〈ウィーツィ・バット ブックス〉のほかないだろう。映画化の話が進んでいるというのも十分にうなずける。 またこの続編『ウィッチ・ベイビ』は、主人公ウィッチ・ベイビの自分探しの物語。『ウィーツィー・バット』のテーマがさらに深く、重層的に展開されていく。 ブロックはほかにもたくさんの作品を書いているが、ここでひとつ紹介するとしたら『"少女神"第9号』(理論社)だろう。これは〈ウィーツィ・バット ブックス〉五冊のエッセンスを一冊に凝縮したような短編集で、短編のひとつひとつが斬新で詩的で、切ないほどにまぶしく輝いている。この年齢の異なる九人の少女の物語は、サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』(新潮文庫)の現代版といってもいい。この作品もテレビのシリーズ化の話が進んでいるらしい。 最後になりましたが、この本を翻訳するのに協力してくださった、編集部の山村朋子さん、タトル・モリ・エイジェンシーの夏目康子さん、ハーパー・コリンズ社の編集者ジェシカ・ストロームさん、作者のフランチェスカ・リア・ブロックさんに心からの感謝を! 一九九九年八月二日 金原瑞人 訳者あとがき(『チェロキー・バット』) 「ドラムを前に座っているウィッチ・ベイビは、紫の目をぎらぎらさせ、細い腕で激しいビートを叩き出し、エンジェル・フアンは唇を突き出し、体を揺らしながらベースを弾き、ラファエルはカルーアミルクのような声で歌い、ドレッドを振り乱しながらギターをかき鳴らす。チェロキーはタンバリンを叩きくるくる回りながら想像した。あたしたちの奏でる音楽が花火みたいに見える――あたしたちのまわりで花が閃き、噴水のように光がほとばしっている、と」 『ウィーツィ・バット』『ウィッチ・ベイビ』と続いてきたこのシリーズの第三弾は、タイトル通りチェロキー・バットが主人公。そして今回はおなじみの四人がバンドを組む。第一弾が「春」で第二弾が「夏」だとすれば、この第三弾は「秋」。それもカーッと暑い夏の名残を感じさせる熱っぽい調子で始まって、一気に熟して、いきなり嵐のなかに突入していく。前回に勝るとも劣らない疾走感は、やはりブロックならではだと思う。ちなみに次の第四弾『エンジェル・フアン』、季節は「冬」。 こないだからブロックの作品を訳したり、ゲラの構成をしたりしながら、ううーん、何かに似てるんだけどなあ、なんだろう、この肌触り、この感触、この懐かしさは……とそれが気になってしようがなかった。それがつい最近、あ、あれじゃん、と合点がいった。そうそう、これはぼくの大好きなコミックの感触なんだ。 全体を貫く中性的で両性具有的でちょっと倒錯的なところは、楠本まきの「KISS××××」や「Kの葬列」って感じだし、そういう雰囲気を背景において神話的で幻想的なイメージを差しはさむあざとさは清水玲子の「月の子」って感じだし(とくに第一巻の四七ページ、アメリカの夜の街に巨大な深海魚がゆらりと浮かぶ場面なんか)、そういう雰囲気を背景においてちょっとセンチメンタルな物語を作ってみせるところは川原由美子の「観葉少女@プランツドール@」って感じだと思う。 そうか、ブロックのこのシリーズは、日本でいえば現代小説というより現代コミックの感覚なんだ。 大学でそういう話をしていたら、『ウィーツィ・バット』を読んだ学生から、「え、先生、そんなこと今頃わかったんですか?」といわれてしまった。 どうも最近の学生は生意気で困る。 「そのヒョウ柄のTシャツ、もう終わってますから、下着にしたほうがいいんじゃないですか」とか、「そのTシャツの裾はパンツにたくしこまないでください」とか平気でいうもんね。 しかしそういう学生にブロックの本が受けているのは、とてもうれしい。 「なんだ、きみたちも、多少は小説のだいごみってやつがわかるんだな」といったところ、「先生こそ、よくこーゆー本、見つけてきましたね。なかなかいい目をしてると思います」という返事がかえってきた。どうも最近の学生は生意気で困る。 クールでポップでパンクで……感傷的で感動的で……幻想的で神話的で……中性的で優しくハードなところは、ほんと、コミックの世界かなあと思ってしまう。 とまあそんなことを考えて、ふと読み返すと、例にあがっているのが少女コミックばっかりだった。しかしブロックの世界はもっともっと広い。充電@チャージ@され、増幅@アンプリファイ@され、ひたすら破滅@カタストロフィー@に向かって突っ走るこの巻の迫力と爽快感はまさに木城ゆきとの「銃夢@ガンム@」そのものだと思う。 そうそう、そういえば「銃夢@ガンム@」の第八巻と第九巻で、「二十万枚の写真データ」が入っているカメラを受け継いでシャッターを切りまくる少女コヨミは、まさにウィッチ・ベイビだ。 そのウィッチ・ベイビが次の『エンジェル・フアン』で再び主人公になって、カメラ片手に活躍します。 乞うご期待! 最後になりましたが、毎度ながらナイス・フォローの編集山村朋子さん、細々した質問ににこにこしながら(おそらく)答えてくださった作者のブロックさん、また作者と連絡を取ってくださったジェシカ・ストロームさんに心からの感謝を! 一九九九年一一月一三日 金原瑞人 訳者あとがき(『薔薇と野獣』) フランチェスカ・リア・ブロックは、彼女自身のリリカルな言葉で、九つのフェアリー・テール(おとぎ話)をひっくり返してみせた〈原書の表紙の言葉より〉。 一九八九年、『ウィーツィ・バット』をひっさげて、ロサンゼルスから飛びだしたフランチェスカ・リア・ブロックは、またたくまにヤングアダルト小説の女神として有名になり、その後立て続けに『ウィッチ・ベイビ』『チェロキー・バット』『エンジェル・フアン』『ベイビー・ビバップ』の四冊を書き上げて、〈ウィーツィ・バット・ブックス〉全五巻を完結させる。 このシリーズはアメリカ、とくに西海岸で若者を中心に口コミで広がっていき、現在ではカルト的な作品として取り上げられることも多い。この五冊は、いってみれば現代アメリカを代表する「ポップなフェアリー・テール」。感動的で感傷的で、幻想的で神話的で、詩的で叙情的で、中性的でハードで優しく、なにより、ホップでクールなこの世界、九九年に五冊が合本になって出て(タイトルは Dangerous Angels: The Weetzie Bat Books )、ベストセラーになった。まさに「ポストモダン・フェアリー・テール・クロニクル」といったところ。 プラチナ・ブロンドのクルーカット、ピンクのハーレクインのサングラス、ストロベリー色のリップ、飾りの下がったピアス、ラメ入りの白いアイシャドーというウィーツィが大好きになってしまった相手が、最高にクールなダーク(髪を黒く染めてモヒカンにしている)。ふたりは意気投合して最高のカップルになるけど、ある日ダークは「おれ、ゲイなんだ」と告白。ウィーツィは「そんなことどうだっていいよ」といって、ふたりでボーイハントをしに街にでかけるものの、ろくな男がいない。そんなある日、ウィーツィが古いランプをこすっていると、ランプの精が出てきて、「願いをかなえてあげましょう」……ウィーツィは目をぱちくりさせながらも「あたしとダークに素敵な彼氏を。それからみんなが住める家を」とお願いする……という具合に始まる『ウィーツィー・バット』は、もうそのまま現代のおとぎ話。そして第二作目の『ウィッチ・ベイビ』以降、ランプの精だけではなく、幽霊は出るし、魔女も出るし、悪魔みたいなやつも出てくる。 こんなにファンタスティックで幻想的な物語が、なぜか、不思議なほどリアル……というところがブロックのブロックらしいところ。ちょっと、ほかの作家には真似が出来ない。下手をすると、ただただセンチメンタルな「おとぎ話」で終わってしまう。 さて、ブロックが〈ウィーツィ・バット・ブックス〉で試みた手法は、『"少女神 "第9号』という短編集にも受け継がれていく。 「角の生えた毛むくじゃらの顔、牙、丸くて盛りあがった背中、やわらかいかぎ爪、ふさふさしたしっぽ。このままのほうがすてきなのにと」考える、「野獣」大好き娘のトウィーティー。「イジーとアナスターシャとおじいちゃんとおばあちゃんとあたしは、ニューヨーク中を歩いて天使やユニコーンや人魚やペガサスをみつける。ドラゴンをみつける。あたしは、こういうものはいると信じている。みんなきれいだと思うし、たとえ自然界に存在しなくてもちゃんといるんだから」と思うドラゴン実在論者の女の子タック。そのほか、この本のなかには、天使もオルフェも登場するし、「ブルー」という短編は、ずばりそのまま現代の切ないフェアリー・テールだ。 それから『ヴァイオレット&クレア』は、映画フリークのヴァイオレットと、背中に翼の生えた妖精のようなクレアの物語だった。そしてさらにもうひとり、フェアリー・テールではないが、ヴィクトル・ユゴーが創造した近代の伝説的登場人物カジモドの心の恋人がカジモドのような姿で出てくる。「へらでケーキに塗った糖衣のようなメーキャップ。さくらんぼ色のカーリーな髪はウィッグ。ガリガリにやせてゆがんだ体に、露出度の高い黒のカクテルドレス、ねじれた足にバリバリのピンヒールをはいている」エズメラルダだ(「まさにフリークの中のフリーク、フリーク界の女神」) 考えてみれば、ブロックはこれまで、フェアリー・テールや神話の、モチーフやイメージを奔放な想像力で作り替え、たくみに利用し、自在に編み上げて、作品を作ってきた。そして今回、逆にフェアリー・テールそのものを新しく書き直してみせた。 「白雪姫」「親指姫」「シンデレラ」「眠れる森の美女」「赤ずきん」「白バラ紅バラ」「青ひげ」「美女と野獣」「雪の女王」、これらのフェアリー・テールが、驚くほど現代的に語り直されていく。 たとえば、最初の「雪(スノウ)」は、雪が母親に捨てられるところから始まる。そして庭師に拾われ、七人の小人のところへ。ここでの小人たちは、かわいい働き者というよりは、見せ物小屋でも見かけるフリーク。しかしそれぞれに職人としての技を持っているという設定。やがて雪を拾って小人たちに届けた庭師は、母親は関係を持つようになるが、毒を飲んだ雪のもとに駆けつけ……目覚めた雪が選んだのは…… その他、自分が親指くらい小さいということを知らずに育ったタイニー、ヘロインの針を腕を刺してしまう少女、継父に襲われる女の子、などなど。 この作品で、ブロックはまた新しい世界を作り上げてみせたが、以前の作品と通じ合うテーマはいくつも見つかる。自分さがし、居場所さがし、家族さがし……そしてフリーク。ブロックは最初の一冊目から、フリークを書き続けた。このへんが微妙にフェアリー・テールとつながってくる。だから、切ない。 ここには、倉橋由美子にもアンジェラ・カーターにも書けなかった、新しい現代のフェアリー・テールが九編おさめられている。まさに、フランチェスカ・リア・ブロックの『ナイン・ストーリーズ』がここにある。 さて、こんなふうにフェアリー・テールを題材に書いたブロック、次の作品は『人魚の涙 天使の翼』(主婦の友社刊行予定)。この『薔薇と野獣』のエピソードを現代のリアリスティックな世界で展開させたような物語だ。 そして最新作は、T・S・エリオットの『荒地』にヒントを得た Wasteland (主婦の友社刊行予定)。いうまでもなく、ブロックのポエティックな部分が強烈に全面に出ている。 なお、最後になりましたが、編集の山村朋子さんと、細かい質問にていねいに答えてくださった作者、フランチェスカ・リア・ブロックに心からの感謝を! 二00三年八月三十日 金原瑞人 訳者あとがき(『ヴァイオレット&クレア』) いま西海岸で最もホットで最もクールな作家、フランチェスカ・リア・ブロックは、十代、二十代の女性のあいだでカルト的な人気を呼んでいる。日本でも熱烈なファンが多く、「ウィーツィバット・ブックス」(『ウィーツィバット』『ウィッチ・ベイビ』『チェロキー・バット』『エンジェル・フアン』『ベイビー・ビバップ』)『少女神第9号』に続き、本書『ヴァイオレットとクレア』(Violet & Claire)が出ることになった。さらに Echo (『人魚の涙 天使の翼』)と The Rose and the Beast (『薔薇と野獣』)も今年中に刊行の予定。 ブロックの書くヤングアダルトむけの本がなぜこれほど魅力的なのだろう。 まずなにより文体がユニークなことではないだろうか。これほどリアルで、これほど詩的な文体で物語の書ける作家はまずいない。彼女の作品にはセックス、ドラッグ、ゲイ、エイズ、自殺といった危ない題材があふれているが、どの物語も決して汚くなることがない。いや、それどころか作品のひとつひとつが様々の色合いに美しく輝いている。明るい物語もあれば、暗い物語もあり、甘い物語もあり、また切ない物語もあるが、すべてがそれぞれの色に輝いている。 それからもうひとつ、登場人物と物語の設定がユニークなこと。ブロックの作品では、エッジの立った登場人物が、ぞくぞくするような物語をつむぎあげていく。ホワイトブロンドのクルーカット、ピンクのハーレクインのサングラス、ストロベリー色のリップ、飾りの下がったピアス、ラメ入りの白いアイシャドーの女の子ウィーツィが、髪を黒く染めてモヒカンにしたダークを好きになる物語(『ウィーツィバット』)。紫の瞳、ぐちゃぐちゃにもつれた髪の女の子が自分を捨てた魔女と自分の居場所をさがしにいく物語(『ウィッチ・ベイビ)。ふたりの母親に育てられている少女が「本当の父親」をさがしにいく物語(『少女神第9号』に収録されている「マンハッタンのドラゴン」)。ブロックは、こういった一見エキセントリックにも思える登場人物と設定を、独得の文体と、詩的なイメージと、豊かな物語で、読者にいやおうなく納得させてしまう。 そしてこの『ヴァイオレットとクレア』では、タイトルのふたりが主人公なのだが、このふたりがまたユニークで、いかにもブロックらしさがよく表れている。まずヴァイオレットは生まれついての映画マニアの天才少女。生まれて初めて口にした言葉が、オーソン・ウェルズの有名な科白「バラのつぼみ」。ケリー・グラントやハンフリー・ボガートと名画館でデートして、ジム・ジャームッシュと実験映画専門の映画館に入りびたって、夜はビデオをみながら、グレタ・ガルボやヴェロニカ・レイクと過ごす。そして将来の夢は監督になることで、いつもノートパソコンにアイデアを打ちこんでいる。かなり自意識過剰で勝ち気で、通っている高校でもひとり浮いていて友達はなし。一方、クレアは思い切り内向的な女の子で、背中に羽のついたティンカーベルのTシャツを着ている。そして自分は、中世に虐殺された妖精たちの子孫ではないかと思ったりする。クレアもひとり浮いていて、いつもいじめられている。もちろん友達はなし。 ヴァイオレットがクレアをみて、自分の映画に出ないかと誘うところから物語が始まる。写真のネガとポジのような、陰と陽のような、火と水のようなふたりは、生き別れになった自分の半身にめぐりあったかのように相手を受け入れ、新しい冒険に出る。映画館にいき、街を歩き、服装倒錯者のバーにいき、ロックコンサートにいき、未来の映画について、自分たちの夢と野望について熱く語る……が、ふたりのレールは次第にずれていき、ついに…… これは半身を失ったフリーク(freak)ふたりが、自分の半身をみつけだし、傷つき悩みながら成長していく物語といっていいかもしれない。 最近、ブロックの作品には頻繁にフリークが登場する。『ヴァイオレットとクレア』のなかでもエズメラルダを中心とする服装倒錯者たちが非常に魅力的なフリークとして登場するし、The Rose and the Beast でも「フリーク」は重要なモチーフになっている。 さて、ふたりの夢と冒険と挫折の物語が展開するのは「天使たちの街」、ロサンゼルス。ブロックの作品はそのほとんどがロサンゼルスを舞台に描かれているが、この「危険な」街は彼女の作品に登場するたびに新しい顔をみせてくれる。この物語ではどんな顔をみせてくれるのか、どうか楽しみに読んでみてほしい。 なお最後になりましたが、ブロックのよき理解者でありこの本の編集者でもある浜本律子さん、翻訳協力者の圷香織さん、原文とのつきあわせをしてくださった谷垣暁美さんに心からの感謝を! 二00三年二月五日 金原瑞人 訳者あとがき(『人魚の涙 天使の翼』) 英語圏の作品の紹介を始めてそろそろ二十年になるが、フランチェスカ・リア・ブロックほど、日本で次々に翻訳の出る作家も珍しい。スティーヴン・キングとかジェフリー・アーチャーといったエンタテイメントのベストセラー作家なら不思議はないが、ブロックはカルト的な人気はあるものの、一冊一冊が何百万部も売れるような作家ではない。実際、金原がこれまで訳してきたブロックの作品もかなり読まれてはいるものの、日本でもベストセラーとまではいかない。 それなのに新しい作品が出れば、すぐにといっていいほど早く翻訳が出る。たとえば、まだゲラの段階の新作 Wasteland もすでに主婦の友社が版権を取得して、来年の刊行が決まっている。 こういった現象をみていると、ブロックの一種独特の人気について考えないではいられない。いったい、なにがそんなに魅力的なのか。そしてその魅力がなぜ、一部の人に強烈にうったえかけるのか。 ブロックは一九八九年に『ウィーツィ・バット』という作品で、同性愛とアイデンティティの問題をからめながらロサンゼルスに住む若者の姿をあざやかに、そしてファンタスティックに描いてみせた。主人公のウィーツィーは素敵なボーイフレンドをみつけるが、彼がゲイだということを知り、ふたりしていい男をさがしに街にでるところから物語は始まる。この作品は西海岸の若者のあいだで静かなブームを呼び、続編が四作出ることになる。そしてこれら五作が合本の形になり、The Dangerous Angels というタイトルで大手から出版されベストセラーになった。けばけばしいロサンゼルスの街とファッション、そのなかで紡がれる様々な形の愛が数人の登場人物の視点から、ときにリアリスティックに、ときに幻想的に描かれており、映画化も検討中とのこと。まさに「ポストモダン・フェアリー・テール・クロニクル」といっていい。 これら五冊は東京創元社から〈ウィーツィ・バット・ブックス〉として出版されている。また、ブロックは九六年に『"少女神"第9号』(理論社)という短編集を発表した。これはゲイを含めて、「少女」と「少女の愛」をテーマにした九つの物語である。 ブロックの作品では繰り返し若いゲイのカップルが描かれるが、その特徴は、登場人物がなんら特別な存在としてではなく、ごく自然に、ごく普通に、こだわりなく描かれていることだろう。吉田秋生の『ラヴァーズ・キス』をそのまま西海岸に移してキッチュでパンクな装いをさせれば、こんな感じになるのかもしれない。ここにはいわゆる一般書に描かれるゲイとはかなり異質のゲイが描かれている。 そしてそれを表現する言葉にブロックの最大の魅力がある。これはある意味、『ヴァイオレット&クレア』(主婦の友社)でも同じで、ここには少女ふたりの心の触れあいがさりげなく、しかし異様な緊張感とひりひりするような痛みとともに描かれているのだが、この文体、詩のようでいて詩ではなく、芝居の科白のようで芝居の科白ではなく、遠くをぼんやりながめているようで近くをみつめているような、ぶっきらぼうなようでやさしい。これはだれにも真似のできないブロック独特の文体だと思う。見方によっては非常にセンチメンタルで、まるで安っぽいTVドラマによく出てくるような陳腐な人と人との触れあいが、ブロックの手にかかると、いま初めて目にするかのような光をおびて輝きだす。 こんなブロックの文体、近年ますますその密度を高めてきているようにみえる。たとえば、『薔薇と野獣』(東京創元社)。これは九つのフェアリー・テール(おとぎ話)をひっくり返してみせたような作品だ。「白雪姫」「親指姫」「シンデレラ」「眠れる森の美女」「赤ずきん」「白薔薇紅薔薇」「青ひげ」「美女と野獣」「雪の女王」といったフェアリー・テールが目を見張るほど独特な視点から語られていくのだが、その文体の象徴性と密度の高さは、なみの小説とはとてもくらべものにならない。死、再生、思い、裏切り、決意、断念、旅立ち、帰郷、フリーク、怪物、そして愛とやさしさ、これらが詩人の言葉で語られていく。しかしそれは難解な詩の言葉ではなく、耳に快く、心に響くイメージをともなった詩の言葉だ。そしてなにより素晴らしいのは、そんなふうな実験を試みながらも、ユニークな視点はそのままに、いやおうなく読者を引きずりこむ物語としてのおもしろさを失っていないことだろう。 この傾向は『人魚の涙、天使の翼』でもそのまま受け継がれている。ここでは、天使のような母親と、母親しか目にない父親を持って、「自分」と「居場所」を必死に求めるエコーを中心に様々な人物が様々な装いと様々な思いでからんでいく。 この作品を読み、そして新作 Wasteland を読んで、ふと思った。ブロックは死に向かってまっしぐらに突き進んでいるのではないだろうか、と。しかしブロックの場合、死に向かう力が強ければ強いほど、生に向かう力が輝いてくる。それはこの本を読んでくださった方にはすでにわかっていると思う。 それにしても、フランチェスカ・リア・ブロックはまったく予想のつかない作家だと思う。いったい次はどんなものを書くのだろう。多少の不安と大きな期待をもって、次の作品をまちかまえているところだ。 なお、最後になりましたが、金原よりずっとブロックに近いところにいる編集の浜本さんと、五月雨式の質問にていねいに答えてくださった作者に心からの感謝を! 二00三年九月二十二日 金原瑞人 |
|