あとがき大全(31)

          1.はじめに
 ひこさんからのお勧めもあって、今回からちょっと趣向を変えることにした。もちろん、今まで通り、あとがきは載せていく一方、翻訳についてその時その時に考えたこととか思ったこととか悩んだこととかを書いてみようと思う。
 一年中、翻訳をしているといろんな問題にぶつかる。そしてそのたびに、何らかの形でそれを解決していく(もちろん、かなり乱暴な処理をしてしまうこともある)。しかし、いったん本が出てしまうと、すっかり忘れてしまう(年のせいもあって)。
 というわけで、ふとひらめいたこととか、熟慮に熟慮を重ね、長考に長考を重ねて、結局あきらめたこととかを書き留めておこうかなと思った次第。翻訳家を志す人には、多少の参考になるだろうし、一般の人には、翻訳の内側がわかって、話のネタくらいにはなるかもしれない。

2.Wasteland by Francesca Lia Block
 というわけで、引き続きブロックである。いま取り組んでいるのが、というよりも格闘しているのがブロックのこの作品。前回も書いたように、ブロックの文体、作を追うごとに難しくなってきている。とくにこの Wasteland にいたっては、悩ましい……というより、わからん……のである。そのうえ、意味はわかるが日本語にならん……という部分も多い。
 まず、第一章の章題は 'You'。その冒頭の一文。
We keep burning in the brown smog pit.
 まず、最初の 'We' からして、どう訳すか。それが問題だ。
 ちょっと解説しておこう。これはレックスとマリーナという兄妹の物語で、レックスが自殺し、最愛の兄を失ったマリーナは喪失から立ち直れない、そんなマリーナを救おうとウェストという男の子が登場して……というふうな展開になる。
 普通のブロック体の文章の所々にイタリック体の文章が差し挟まれていて、このイタリック体の部分がレックスの言葉、という形になっている。そして作品は、まずイタリック体、つまり兄の言葉から始まる。
 さて、冒頭の一文。
「おれたちは茶色いスモッグの穴のなかで燃え続けている」と訳すのが、まずは順当なところ。この「おれたち」が実際にどういう人々を指すのかはそのまま読者にゆだねられている。レックスとマリーナかもしれないし、ロサンゼルスの人々かもしれないし、あるいは世界中の人々かもしれない。
 とりあえず、そう訳しておいて、次の章にいってみよう。章題は 'Kaleidscope'。こんなふうに始まる。
You were just a boy on a bed in a room, like a kaleidscopi is a tube full of bits of broken glass. But the way I saw you was pieces refracting the light...
 これはブロック体で、マリーナの言葉。
「あなたが部屋のベッドの上にいるところは、なんてことない普通の男の子だった。万華鏡、砕けたガラスのかけらでいっぱいの筒にそっくり。でも……」と訳すのが、まずは順当なところ。
 というふうにくると、ここでふたりの関係がそれとなくわかってくる。レックスからみたふたりは「おれ・おまえ」で、マリーナからみたふたりは「あなた・あたし」という関係だ。もちろん、レックスを「ぼく」とすることもできるのだが、パンク少年なので、やっぱり「おれ」としたい。
 ところが途中で困ったことが起こってくる。第七章 'You' が、これだと訳しづらい。
 これはブロック体で、マリーナの言葉だ。こう始まる。'You died.' さっきからの流れで訳すと「あなたは死んだ」となる。ちょっとここを引用してみよう(このあたり、全部引用してしまえば、わかりやすいのだが、著作権の問題もあって、途切れ途切れの引用になってしまう。気になる方は原書を取り寄せてください)
You died. You were sitting on the bleachers in P.E. when Ms. Sand told you to go to the principal's office.
 校長室に呼ばれた……?
 その先を読むとわかるのだが、この部分、マリーナが自分のことを 'you' と呼んでいるのだ。そして章の最後はこう結ばれる。
You, that's me. You called me you and I called you you. That was our name for each other. When you died I did and so it didn't matter.
 さて、困った。
 いや、困らずにさっさと次のように訳してしまってもいいのだと思う。
「あなたは、あたし。あなたはあたしをおまえと呼び、あたしはあなたをあなたと呼んでいた。それがお互いを呼ぶお互いの名前。あなたが死んだとき、あたしも死んだ。だから、ちっともかまわない」
 しかし、変である。勘のいい読者ならきっとここで「?」と思うだろう。
 じつはこの作品、大学院の翻訳の授業で使っている。たまにここでエッセイを載せているのでご存じの方もあるかと思うが、小林さんもこれに出席していて、小林さんは、ここが気になって、レックスもマリーナも相手のことを「きみ」と呼ぶ形で訳してきた。それだと、この部分は次のようになる。
「きみは、あたし。きみはあたしをきみと呼び、あたしはきみをきみと呼んでいた。それがお互いを呼ぶお互いの名前。きみが死んだとき、あたしも死んだ。だから、ちっともかまわない」
 兄妹で互いに相手を「きみ」と呼ぶのはちょっと違和感があるが、これで押し通すこともできそうだ。
 しかし、それならついでにレックスもマリーナも「ぼく・きみ」で統一できないだろうか。そうするとさっきのレノーラの部分はこうなる。
「きみは、ぼく。きみはぼくをきみと呼び、ぼくはきみをきみと呼んでいた。それがお互いを呼ぶお互いの名前。きみが死んだとき、ぼくも死んだ。だから、ちっともかまわない」
 パンク好きのレックスが自分のことを「おれ」ではなく「ぼく」といっても、まあいいかなという気はする(ついさっき、「もちろん、レックスを『ぼく』とすることもできるのだが、パンク少年なので、やっぱり『おれ』としたい」といった、その舌の根も乾かないうちに、こんなことをいうとはね)。そしてマリーナが自分のことを「ぼく」というのも、またある意味かわいいかなという気もする。
 さて、どうしよう。
 翻訳家というのは、このへんで最も頭を使うのである。なにしろ、これひとつで全体のトーンががらっと変わってくるのだから。このくらい煮詰まってくると、編集と相談することになる。編集が「あ、いいですね。ふたりとも『ぼく・きみ』でいってみましょう」といってくれると、あとは簡単なのだが、なかなかそうはいかない(「あ、いいですね」といってもらったとしても、それで万事OKになることは少ない。たとえば、「この作品、常体じゃなくて、敬体で訳したいんだけど、いいかなあ」「そのへんは、金原さんに。おまかせ。好きにしてください」というやりとりがあって、敬体で訳して持って行くと、そのうち「やっぱり、この作品、常体にほうが……」という連絡がきたりする)
 それはともかく、今回のような複雑な事情でいろんな選択肢があるような場合、今までの例でいうと、すったもんだしたあげく、無難な線でおさまるというのが相場だ。つまり、最初のやつ。
 総じて、編集者も翻訳家も臆病な人種である。何千人という読者を相手に物を作るとなると、どうしても無難な路線を選んでしまう。
 たとえば、原文が非常にぼくとつな感じで、読みづらい場合、それをそのまま訳に出すかというと、そうでもない。案外と、普通に訳してしまうことが多い。「訳が下手」といわれるのがいやだから。あるいは「編集者、ちゃんと手を入れてんのかなあ」とかいわれるのがいやだから。
 なかなか難しいものである。
 たとえば、今時、日記を縦書きで書く人はほとんどいない。なのに、『インディー・ジョーンズ』……じゃない、『ブリジット・ジョーンズの日記』の翻訳は縦書きである。なぜかというと、フィクションの翻訳はほぼ100%、縦書きということになっていて、なぜかというと、「横書きのフィクションは売れない」といわれているからである。『ブリジット・ジョーンズの日記』の翻訳が横書きだったらはてして売れなかったのか……難しい問題である。とはいえ、さっきも書いたけど、今時、縦書きの日記なんて、だれがつけるんだよといいたい。
 ついでにいうと、いま代田さんが訳しているメグ・キャボットの 'The Boy Next Door' は、最近増えてきたメール形式の小説。これはさすがに横書きだろう、いや、横書きしかあるまいと思っていて、編集者も、横書きですよねといっているものの、縦書きになってしまう可能性がないわけではない。
 出版界というのは、かくも保守的なところなのである。編集者しかり、翻訳者しかり。
 と、文句がちらっとのぞいたところで、この章はこれでおしまい。

 最後にひとつ、ワンポイントレッスンというやつを。
 いま杉田さんとの共訳でジョン・マンの 'Alpha Beta: How Our Alphabet Shaped the Western World' という本をやっているのだが、このなかに次のような文が出てくる。
As Yahweh lives, no one has ever had to read me a letter!
 この 'As Yahweh lives,' という表現、意外と知らない人が多い。これは古い言い回しで、現代ではほとんど耳にすることはない……けど、英語圏の人はたいがいが知っている。「ヤハウェがいらっしゃるのと同じくらいたしかに」というふうな意味で、単なる強調表現(だと金原は考えているのだが、もし「違うぞ!」という方がいらっしゃれば、ぜひ、ご一報を)。しかし日本人だとかなり英語に堪能な人でも知らないことが多く、知らないと、つい「ヤハウェが生きているように」などとわけのわからない訳になってしまう。シェイクスピアの作品には何度か登場してくるし、ピーター・カーターの『運命の子どもたち』にも一度出てきた覚えがある。犬飼先生はこの表現をご存じなかったので、訳文と原文のつきあわせをした金原が指摘したのであった(ちょっと、自慢)

2.あとがき
 訳書が何冊か出たので、そのあとがきを。
 まずは『バーティミアス:サマルカンドの秘宝』(理論社)。原稿用紙で約1000枚。長い。長いといえば『死について!』(原書房)はもっと長くて、もっと大変だった。しかし『バーティミアス』もけっこう大変だった……共訳者の松山さんが。なにしろ、時間がない。時間との戦いだった……松山さんが。まあ、金原は高みの見物である。原文とのつきあわせは石田さんがしっかりやってくれたし、編集の方ではリテラルリンクの奥田さんがコマネズミのように働いてくれたし。
 まあ、とにかく、めっぽう面白いファンタジーである。そのあたりは、このあとに載るあとがきを読んでもらうとして、早くも心強い感想が送られてきているので、そのなかから「あ、そうそう、そうなんだよ!」といいたくなるメールをご紹介しておきます。差出人は東販の十松さん。大学時代、法政の歌舞伎研にいたというので、ずいぶんと意気投合してしまった(といっても、金原は法政の歌舞伎研にはいなかったのだが)。で、その十松さんの感想をまず。

「報告が遅くなりましたが、「バーティミアス」拝読いたしました。実に面白かったです。スピーディーな展開と小気味のいい文体にやめられないとまらない、でした。さっそくホームページの日記にも書かせていただきました。でもネタバラシしない程度のことしかかけませんでした。よろしかったらお読みになってください。
(http://www5f.biglobe.ne.jp/~banka-an/)。
 ではそれ以外の感想を述べさせていただきます。
 僕はどちらかというとハードボイルド小説的に楽しみました。チャンドラーとかハメットや、関川夏央原作・谷口ジロー画の「事件屋稼業」シリーズの感じです。それで「バディ(相棒)もの」ですね(あっ今、思いつきました。「エースのジョー」の感じなのではないでしょうか。「チッチッチッ(人差し指を振りながら)、お嬢さん、火傷するぜ」みたいな……凄みと愛嬌。そしてどこか一本抜けたところ)
 ユーモアハードボイルドに置き換えてみると、ナサニエルはいわば謎の多い美少女の依頼人(億万長者の相続人)、バーティミアスは裏町の飲んだくれの中年私立探偵。でも兵隊上がりでケンカはメチャ強く、ひたすらタフ。はじめは反発しあうけどいつしか認めあい信じあうことで最強のコンビになって行く、というような感じでしょうか。とくにバーティミアスは本当にいいキャラクターです。僕はかなり感情移入しちゃいました。
 ナサニエルのキャラもいいですね。言ってみればネクラなオタクですよね。自分の関心のあることにはひたすら深く掘り下げるのだけど、関心外のことでは全くの不見識。イマドキの中学生っぽくってリアルでした。この少年にも自分を見る部分があって結構感情移入しちゃいました。
 それからもしかしたらこの作者の方は、日本のアニメやマンガを研究されているんじゃないかなと思う部分もありました。
(1)バーティミアスがアミュレットを盗んだ後、町で謎の少女たちに追われるシーン。僕はここに大友克洋の「アキラ」の世界を見ました。
(2)師匠の家が破壊炎上するシーン(まさか××××が本当に××とは思わなかった。ショック!!)。これも同じく大友の「童夢」を彷彿とさせました。
(3)最後の××××の登場と退場。ここには宮崎アニメのやっぱり最高傑作「風の谷のナウシカ」のエンディング、「巨神兵」の再生と破壊を感じました。
 主人公二人以外ではフェイキアールがいいですね。凄みが効いて、そして粋で。
 勝手なことをいろいろいってすみませんでした。本来、僕などはこういうファンタジーからは門前払いされちゃう層なのかもしれませんが、この本は、本当に楽しく読めました。続編が楽しみです」(文中の××××は、ネタがばれないように、伏せておいた部分)

 なんか、ぼくのあとがきなんかいらないくらい、この作品の特徴をよくつかまえていて、感心してしまった。そう、この作品の構成、雰囲気、テンポ、展開などなど、たしかにハードボイルドの感じは強いと思う。

 さて、次のあとがきは『バッド・ボーイ』。これは『ニューヨーク145番通り』の作者、ウォルター・ディーン・マイヤーズの自伝。
 ひとこと。読み応えあります!

 というわけで、『バーティミアス』と『バッド・ボーイ』、ふたつのあとがきを。

訳者あとがき(『バーティミアス』)

 やっと、『ハリーポッター』の対抗馬が出てきた!
 これが『バーティミアス:サマルカンドの秘宝』(Bartimaeus: The Amulet of Samarkand)を読み終えたときの第一印象だった。理屈抜きに、そして文句なしにおもしろい。ただおもしろいだけでいいのかという声もきこえるが、ここまでおもしろければ、当然いいにきまっている。
 時は現代、場所はロンドン……といっても、現実の世界とはちょっと違う。国を動かしているのは力のある優秀な魔術師たちなのだ。魔術師たちは妖魔を呼び出して、自由にあやつりながら、いろんな仕事をさせたり、様々な敵と戦わせたりしている(この本のなかでは、イギリスは大勢の妖魔を使ってヨーロッパの国々と戦争中という設定になっている)
 そんななか、見習い魔術師の少年ナサニエルが、中級レベルの魔神、バーティミアスを召喚し、命令を下す。
「サイモン・ラブレースの家から、サマルカンドのお守りをとってこい」
 びっくりしたのはバーティミアス。サマルカンドのお守りは非常に強い魔力を秘めたお守りで、それを持っているのはすこぶる優秀な魔法使いにちがいない。しかし魔法にしばられたバーティミアスは逆らうことができず、しぶしぶ目的の屋敷にむかう。
 次の瞬間から物語は一気にもりあがる。中級レベルとはいえ五千年以上生きているバーティミアスはあの手この手で、防御網をかいくぐり、敵の妖魔と戦い、ナサニエルの命令を実行すべく知恵と腕力と魔力を駆使する……が、五千年以上生きているとはいえ、まだまだ中級レベルのバーティミアスにとって、この仕事はけっこうきつい。
 ところが、このときを境に、ナサニエルとバーティミアスは、とんでもない事件に巻きこまれていく。ただ腹いせのつもりでサマルカンドのお守りを盗んでやろうとしたナサニエルは、それこそ命がけの戦いに引きずりこまれるのだ。もちろん、ナサニエルに召喚されたバーティミアスも同じ運命に。
 ふたりは次々に襲ってくる危機を必死にかいくぐりながら、やがて、逆襲をくわだてるが……
 いろんな妖魔、魔神が入り乱れての乱戦、混戦(このあたりは『西遊記』の楽しさそのもの)。ヒッチコックもスピルバーグも顔負けのアクションシーンが繰り広げられるのだが、この物語のおもしろさはそれだけではない。親に捨てられ、本当の名前も捨てて、魔法の習得にはげむナサニエルは才能にあふれているけれど、師匠にはまったく認めてもらえず、いつもくやしい思いをしている。そんな生意気で傲慢で孤独で、ちょっとひねくれているけど、正義感も捨てきれない主人公ナサニエルがとてもよく描かれている。それからナサニエルに召喚されて、いやいや命令にしたがう魔神のバーティミアスがいい。長生きしているだけあって、知識も経験も豊富だが、性格的にはちょっと問題あり。けっこう意地悪でずるくて、すきさえあればナサニエルを出し抜こうとするのだが、どこかとぼけていて、憎めない、おちゃめなキャラだ。
 このふたりが大活躍のファンタスティック・アドベンチャー。おもしろくないわけがない。とくに第三部の後半からの展開はすごい。そして、このエンディング! ずば抜けたおもしろさ、というよりは、もう、突き抜けたおもしろさといったほうがいい。
 イギリスでは出版と同時に大ヒット。すでに映画化が決まっていて、世界二十一カ国で出版予定というのも十分にうなずける。
 なおこれは『バーティミアス・三部作』の第一部で、第二部は来年刊行の予定。タイトルは『ゴーレムの目』(仮題)らしい。舞台はプラハ。第一部で登場するなぞの少女が、いよいよからんでくるとのこと。

 最後になりましたが、大奮闘のリテラルリンクのみなさん、原文とのつきあわせをしてくださった石田文子さん、細かい質問にていねいに答えて下さった作者のジョナサン・ストラウドさんに心からの感謝を!
 二00三年十一月十一日           金原瑞人


訳者あとがき(『バッド・ボーイ』)

 ニューヨーク市マンハッタン区の地図をみると、ちょうどまん中から北にかけてセントラルパークという大きな公園が広がっている。そのさらに北のあたりがハーレムと呼ばれる地域だ。ちょうど一二五番通りあたりがその中心になる。二0世紀初めから、黒人がどんどん流れこむようになり、アメリカでも有名な黒人街になった。やがて第一次世界大戦も終わり、一九二0年代、劇場や映画館やデパートやその他色々な店が建ち並び、おおいににぎわう。かつては奴隷だった黒人たちが、自分たちの音楽を演奏し、自分たちの文学を書き始め、自分たちの文化を築こうと様々な活動を繰り広げる。それまでしいたげられていた黒人たちにとって、わくわくどきどきするような時代がやってきた。黒人たちが少しずつ自信を持ち始めたこの文化活動をハーレム・ルネッサンスと呼ぶ。
 そして一九四五年、第二次世界大戦も終わった。ちょうどその頃、作者のウォルター・ディーン・マイヤーズは小学校の四年生。お母さん大好き少年で、甘えっ子で、いたずら好きで、乱暴者で、とにかくけんかっ早い。とくに発音が変で、みんなにばかにされることもあって、すぐにかっとなる。そして相手をなぐっては先生にしかられる。そのうえ先生には反抗的ときている。マンガが大好きで、家では禁止されているので、こっそり運びこんでベッドの下に隠したマンガは二百冊を越える。とにかく、バッドボーイ(悪ガキ)なのだ。ジャズが好き、ダンスが好き、スポーツが大好き……そんなウォルターがあるときから、本も好きになっていく。
 当時、黒人で有名になろうと思ったら、まず、ボクシング、野球、バスケットといったスポーツマンになるか、ルイ・アームストロングやデューク・エリントンみたいなジャズマンになるか、といった感じだった。ハーレム・ルネッサンスで有名になった黒人の小説家や詩人もいたが、ハーレムに住む黒人たちは日々の暮らしに追われていて、そんなことは知らなかったし、知る必要もなかった。ほとんどの人が肉体労働をしていたのだから。字の読めない人も少なくなかった。
 そんななかに育ったウォルターは、成績抜群で、本も大好きで、詩や小説を書いたりするものの、中学、高校と進むにつれて、自分が何を目指せばいいのかわからなくなっていく。さらに家庭は崩壊していき、思いも寄らない黒人差別の壁が立ちはだかる。
 ウォルター・ディーン・マイヤーズの作品はどれも、読者の心をぐいとつかんで離さない。この自伝も、かわいくて やんちゃな子ども時代から始まって、あれこれ失敗を重ねながらも、いろんな面で成長していき、悩み、挫折し、そして……という半生が、生き生きと、また生々しく描かれていて、途中で本を置けなくなってしまう。
 マイヤーズの本を読んでいると、どれもそれぞれに思い入れが深いものだということが、ひしひしと感じられる。しかし、これほど強烈な思いの詰まった作品はほかにないと思う。
 とくに後半は、すごい。とまどい、いらだち、怒り、孤独、絶望といった苦しみにさいなまれながらも、次々に本を読んでいく。一冊、一冊の意味を自分なりに考え、それをもとに自分で書いて、また現実の壁にぶつかって、はね返されてしまう。
 しかし、安心していい。マイヤーズはこの本を書いた。そしていままでに数十冊もの本を書いているのだから。
 マイヤーズはなぜ書くことを選び、書き続けているのだろう。それはこの本にも十分に描かれている。人種差別への怒り、ほかの人にわかってもらえない孤独感、社会からはみでてしまって行き場のない絶望感、そういったものが原動力となっているのだろう。しかしそれだけではない。この本の中心には、愛があるのだと思う。最後は身を持ち崩していくお母さんへの愛、どうしても自分の詩を読んでもらえなかったお父さんへの愛、兄弟や姉妹への愛、そしてハーレムという街への愛が。
 マイヤーズの本を読んで、いつも心ひかれるのは、この温かさだ。どんなに悲しい話でも、どんなにつらい話でも、どんなに暗い話でも、その底には温かいものが、いや熱いものが流れている。それはなぜなのか……この自伝を読んだかたには、説明するまでもないだろう。
(文中、「ニグロ」という言葉が出てきます。現在では差別用語とされていていますが、この本の舞台になっている時代においては、ごく普通に使われていて、また作品のなかで作者自身がそのまま使っているので、そのままに訳してあります)

 なお最後になりましたが、編集の小島範子さん、翻訳協力者の西田佳子さん、原文とのつきあわせをしてくださった久慈美貴さんに心からの感謝を!

二00三年十一月十七日 金原瑞人

3.最後に
 すいません、このところHPの更新が滞ってます。しかし12月中には2、30枚くらいの写真が追加になります。また、要約の数もさらに増えます。
 どうぞ、のぞいてみてください。
 それから、トーハンから毎月出ている「新刊ニュース」の一月号に、江國香織さんとの対談が載ってます。タイトルは「翻訳は楽しい」。この小冊子、「ちょっと気の利いた書店」には置いてあるそうです。
 それからNHK「週間ブックレビュー」(BS)に出ました。12月14日放送。こちらは恥ずかしいので、事後報告です。
 それから、朗報!(少なくとも金原にとって) お待たせしました。『逃れの森の魔女』の作者、ドナ・ジョー・ナポリの作品が来年、4冊出ます。青山出版社から。詳しくは来月のこの場で。
 では、みなさま、よいお年を!