あとがき大全32

「翻訳について(どこまで訳すか、どこで妥協するか、どこで歩み寄るか、どこで失敗するか)」

【児童文学評論】 2004.01.25日号

           
         
         
         
         
         
         
    
1.翻訳について(どこまで訳すか、どこで妥協するか、どこで歩み寄るか、どこで失敗するか)
 前にも一度書いたことがあるのだが、国内作家の作品にくらべると翻訳物ははるかに時代の影響を受けやすい……というか、時代の影響が大きい。翻訳というものは、原作と、それが翻訳される国の時代・社会・訳者とが切り結んだ、その場その場での瞬間的な仮の像なのだから。永続性はない。日に日に古くなる、それが翻訳物の宿命である。
 優れた作品はその国においてはそのままの形で、古くはなっても古びることなく生き残っていく。それにひきかえ、昔の翻訳物を読むと、気恥ずかしくなってしまうほどの違和感を覚えてしまう。たとえば、中学、高校の頃に読んだ、ウィリアム・アイリッシュやクリスティの翻訳など、いま読み返すと、やはり恥ずかしい。中学校のときに読んだ福田訳の『老人と海』も、やはり変だ。それにひきかえ、中学校のときに読んだ鴎外の『高瀬舟』はいま読み返しても、ちっとも違和感がない。
 いや、人の訳したものばかりではなく、自分が十数年前に訳した『のっぽのサラ』を読み返すと、われながら「古いな」と思ってしまう。
 最近、松本訳の『赤毛のアン』、鴻巣訳の『嵐が丘』、村上訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』など、ちょっとした新訳・改訳ブームである。しかし考えてみれば、改訳ブームというのがそもそもおかしいのであって、翻訳物は常に新しく訳され続けなければならないと思う。ただそれが容易でないのは、その作品の版権を握っている出版社の問題があるからだろう。ある訳者に訳してもらった作品がまだある程度で売れているというのに、それを新たに訳し直して出す必要はないし、そもそも、元の訳者に失礼である……というふうな配慮もあってか、白水社ではいまでも野崎訳の『ライ麦畑でつかまえて』をUブックスから出している。しかし両方を読みくらべればすぐに気がつくと思うが、村上訳のほうが若者にはずっと読みやすいし、違和感が少ない。もちろん、個人的な好みで野崎訳がいいという人はいるだろうし、それはそれでいいのだが、やはり古々しいことは否めないと思う。
 大体において、訳者というものは時代におもねる……といって悪ければ、同時代の人にわかりやすく伝えようとする。たとえばイギリスの現代作家が一九二0年のロンドンの精神病院を舞台にした作品を、当時の文体を真似て書いたとしよう。それを日本で翻訳する場合、若合春侑の『腦病院へまゐります』のような文体で訳してしまう人はまずいない。まあ、あんな文章の書ける人がほとんどいないということもあるが、そもそもイギリスの二0年代の文体を日本の大正時代の文体に訳してもなんのメリットもない。やあ、ご苦労様でしたというねぎらいの言葉はかけてもらえるかもしれないが、逆に敬遠されるのがおちだろう。
 それなら、当時の日本の翻訳文体を使ってみてはどうかという意見もあるだろうが、それもまた違う。
 現代のイギリス人が二0年代の文体を読んで感じる「古さ」と、現代の日本人が二0年代の文体を読んで感じる「古さ」とはまったく違う。その感覚を伝えることは、おそらく無理だと思う。作品そのものの面白さが伝わって、ある程度の古さが伝われば、それでいいし、それ以上にあれこれいじるのは、屋上屋を架すことになりかねない。
 ともあれ、翻訳というのは足が早い(腐りやすい)。だから、昔の翻訳を読むと、やっぱりどこかしら変なのである。鴎外の小説はいま読んでも少しも変ではないが、鴎外訳の『マクベス』はかなり変だ。
 それはタイトルにしても同じで、『愛ちゃんの夢物語』(『不思議の国のアリス』の丸山英観訳)とか『危険な年齢』(『ライ麦畑でつかまえて』の橋本福夫訳)といったタイトルはやはりいま見るとおかしい。しかし、逆に、その時代を見事に反映している。
 また、菊池寛抄訳の『ジャングルブック』の冒頭にはこんな紹介が載っている。
「諸君、この本は表題からして『ジャングルブック』といふ、日本の言葉でいへば『藪の本』である。それで、私は諸君にまづそのジャングルの話から始めようと思ふ」
 そしてこの本のなかでは、「アケイラ→統領狼、シーア=カーン→虎蔵、バールー→熊太郎、バギーラ→豹助、カー→蛇一」となっている。ある意味とても親切で、英語や片仮名になじみのない当時の日本人、とくに子どものことをよく考えた命名だと思う。菊池寛は、翻訳者としてもすぐれたセンスを持っていたのだろう。
 しかし、逆に、それが古びるひとつの原因ともなっている。
 翻訳というのは、ある意味、鵺(ヌエ)のような正体不明の、その場限りの、その場しのぎの合成物であって、永続性のあるものではない。
 だから、翻訳で用いられる言葉もどんどん変わっていく。たとえば、三十年前の日本人にはとてもわからなかった物が、現代の日本人には常識になっているものも多い。たとえば、「ティッシュ、アイシング、ペディキュア、ファイル、ツール、コレクトコール、ルーフ、ダイニング、クリーナー、ダスター、フローリング、ソープ……」数え上げればきりがない。
(そういえば、ついこないだ『エド・サリヴァン PRESENTS ザ・ビートルズ』というDVDを買った。これは六四年、ビートルズが初めてアメリカのTVに登場した「エド・サリヴァン・ショー」という番組なのだが、当時放送されたものがそのまま入っていて、時々CMが入っている。なかでも面白かったのは、「もう、洗濯機にお湯はいりません」という洗剤のCM。そうそう、昔は粉石鹸が水では溶けなくて、お湯を使ってたんだ! そうそう、そういう時代だったんだ!)
 閑話休題。だから、英語をそのまま片仮名にして使えるものが多くなってきて、訳者はかなり楽になってきている。が、一方、使えない言葉、使わないほうがいい言葉も増えてきている。
 たとえば、「市松模様」とかはさすがに古いイメージが強すぎて、もう使う人はいないだろう。というか、若い人だとそもそもそんな言葉は知らないと思う。それに「碁盤の目」も、もう使わなくなった。しかし面白いことに、若い人でも「心臓が早鐘を打つ」は使うことがあって、こちらとしては「?」と思ってしまう。逆に、なんで、こんな言葉を知っているんだろうと、首をかしげたくなる。まあ、翻訳には使わない方がいいと思う。
 つい先日、アレックス・シアラーの Bootleg という新作の下訳をしてくださっている菊池さんの訳で「おごれる者久しからず」というのが出てきた。原文は 'They say that power corrupts' 。じつはちょっと困っている。そのまま訳せば「権力は腐敗する」なのだが、内容にそって訳すとすれば「うまくいったからといって図に乗っていると、足下をすくわれるよ」という感じ。まあ、「つけあがると転ぶよ」といってもいい。しかしこれだと、ちょっと格言風の重みがない。となると、「おごれる者」かなあという気がしてしまう。難しい。
 ともあれ、そういう日本語特有の言葉の持つ色というか匂いというか、そういうものに敏感なほうが、訳者としてはいいのではないかと思う。逆に、そういう古い日本語を使うことによって、面白い訳しかたができることもあるだろうし。
 やはり、つまるところは日本語に対するセンスなんだと思う。それを磨くのは、大変といえば大変だけど、楽しいといえば楽しい。
 たとえば、古い新しいといったことは別にして、'his black hair' とあると、「彼の黒髪」と訳す人がいるのだが、「黒髪」というとイメージは女性。男の場合はほとんどが「黒い髪」だと思う。「乱れ髪」というのも女性かな。意味的にはどちらに使ってもいいようなものだが、そのへん使い分けるのが日本語なのだ。ところが、逆に「長髪」というと、男性の長く伸ばした髪を指すことが多い(学校の規則なんかで「長髪禁止」というと、普通はまず男子学生のことをいう)。女性の場合は「長い髪」だろう。こういう違いは辞書には載っていないが、いわれてみれば、なるほどと納得することが多い。

2.あとがき
 今回は晶文社から2月出版予定の『人類最高の発明、アルファベット』。
 いやあ、この本は大変だった。とてもとても大変だった。アルファベットの成立や歴史や特徴がわかりやすく楽しく書かれているのだが、調べ物が大変だった。とはいえ、そのへんは共訳者の杉田さんと、原文とのつきあわせの段木さんが大変だったのだが。
 細かいことはさておき、人名や地名の表記をどうするということひとつをとっても、大変なのだった。
 その苦労談を、杉田さんにまとめてもらったので、まずそれを。

 翻訳中の『人類最高の発明アルファベット』の原文に「Ch’oe Malli」という人名が出てくる。十五世紀、ハングルを普及させようとした朝鮮李朝第四代の王、世宗(セジョン)に反対を唱えた学者の名前だ。日本ではそれほど有名な人物でもなく、人名辞典には載っていない。
 そこでCh’oeで様々な辞書を開くと、たとえばリーダーズプラスにはCh'oe Che-u, Choe Je-u:崔済愚(チエジエウ)((さいせいぐ)(1824-64) 《朝鮮李朝末期の宗教家; 東学の創始者》というような人名が載っていることで、最初の「Ch’oe」は「崔」だなとあたりをつける。
 次に三省堂の言語学辞典の別巻世界文字辞典で、世宗に反対を唱えた学者はいないかどうか探していくと「崔萬理」という人物が目に飛びこんでくる。嬉々として訳文に「崔萬理」と打ち込んで、めでたしめでたし。ところがここで、何よりも読者のことを一番に考えてくださる編集者の方から、「カタカナ表記を加えてください」とくる。世界文字辞典にはそこまでは書かれていない。
 ということで、原地音主義でいきたいこちらとしては、身近に力になってくれそうな人物もいないので、まず在中日本国大使館にメールを送ってみた。すると、「お問い合わせの内容につきましては、東京の中国大使館にお問い合わせされることをお勧め致します。ご参考までに、小生の個人的な感覚でご回答すれば、以下のような感じです。崔萬理=ツイ・ワンリ(中国語ピンイン表記:cui wan li)」という丁寧なメールが送られてきた。
 そこで中国大使館に問い合わせると、折り返しお電話があり、四通りの発音(四声)を実際に電話の向こうでしてくださった。もちろんカタカナで声調は表せない。電話の向こうで絶句しているわたしに、中国大使館の親切な女性が最後にこんなふうにおっしゃってくれた。「……といろいろ申し上げましたが、中国ではピンインで音を表すわけで、カタカナ表記はしませんから、日本の出版物で、これはこうなんだとカタカナ表記を決めてしまえば、それを間違いだとはだれもいえないと思います――」
 ここで『人類最高の発明アルファベット』に書かれている大きな真実のひとつを身を持って実感することになった。つまり、「どんなアルファベットであろうと、話し言葉(の音)を完璧に写し取ることはできない」という事実を。
 普通アルファベットといってわたしたちが思い浮かべるのは、ラテン文字すなわちABCで始まるローマ字である。しかし「広義」は、起源・原理のいかんにかかわらず、伝統的な一定の配列順序をもった文字体系を指す」(平凡社世界大百科事典)わけで、もちろん日本のカタカナもこのカテゴリーに属する。よって完璧なカタカナ表記を求めることは、完璧なアルファベットを追求することと同じで、それは著者のジョン・マン氏がいうように「むなしい理想」を追うことなのである。
 しかしそうかといって翻訳する側としては、そんなむなしい努力はやめちゃえ、とはいかないわけで、やはりカタカナというファジーなツールを使って少しでも正確に原音を表すべく努力しなければならない。
 そしてそういった努力はいまに始まったことではなく、もちろん翻訳者だけがしてきたわけでもない。この本を読んでいただければわかってもらえるだろうが、人類ははるか昔の紀元前から、あらゆる話し言葉を記号で表そうという飽くなき情熱に追い立てられ、完璧にそれを行うのは無理とわかっていながら、やむにやまれぬ努力をずっと続けてきたのだ。
「アバザ語からズールー語まで、人類のあらゆる話し言葉を二十か三十の意味を持たない記号で表そうというアルファベットの理念」は、作者の言う通りいつの世でもどんな地域でも「不変」であり、この東洋の片隅の小さな部屋のなかでもカタカナというアルファベットを使っていかに原音に近い表記をすべきかと頭を悩ましている駆け出し翻訳者がいるのだった――(結局、「ツイ・ワンリ」となりました)。
 宣伝になってしまうが、この本を読んでいくと、「むなしい理想」といいながら、より完璧なアルファベットを指向していくその過程に、実はめくるめくロマンが秘められていることがわかって胸が熱くなる。取り扱われているトピックは紀元前から現代まで、人類の歴史の総体に等しい膨大な時間の流れを敷衍する。またドーキンズの『利己的な遺伝子』に倣って、アルファベットを文化から文化へと乗り移って自己を複製していくミームの一種と考える面白い論も展開されている。ぜひご一読を。 ――1/13/04 杉田七重

 というわけで、この苦労につぐ苦労の結晶である本作のあとがきを。

   訳者あとがき

 ジョン・マンの『人類最高の発明アルファベット』(Alpha Beta: How Our Alphabet Shaped the Western World)を読んだとき、未知の世界を次々にのぞいていくおもしろさに思わず我を忘れてしまった。これほど驚きと発見に満ちた本は、そうないと思う。まるで怪物のような本である。しかし考えてみれば、「アルファベット」そのものが怪物のようなものなのかもしれない。
 この本の「はじめに」を読んで、まず、なるほどと納得してしまった。アルファベットは完璧でないところがいい、というのだ。シンプルでいいかげんだからこそ、あらゆる言語に対応できるのだ、と。さらにその強靱な意志。「人類のあらゆる話し言葉を二0から三0の意味を持たない記号で表そうという、アルファベットの理念は不変なのだ」
 こうしてアルファベットはアフリカ、中近東、ヨーロッパ、そして世界中に広がり、日本にもローマ字という表記方法がもたらされ、文字を持たない人々の言葉まで書き留められるようになった。いま、新たな言語がみつかったら、たぶん多くの人々はアルファベットで書き写すはずだ。これを漢字で表記しようとする人はまずいないと思う。
 これはわれわれがアルファベットに慣れ親しんだせいなのか、それともその便利さのせいなのかは、わからないが、ともあれこのアルファベット、まるで化け物のような柔軟性と人なつっこさを持っていることは間違いない。
 しかしいうまでもなく、世界中で使われているアルファベットもその起源や変遷についてはまだまだわからないことが多い。
 さて、この本はそのアルファベットについて、その発想と伝播に焦点を絞って、四000年前のエジプトから、古代ローマ、現代へ、そのたどった道をたどっていく。というわけで、まずはアルファベット以前の三つの文字体系から。もちろん絵文字である。しかし文字とはいったい何か、絵と文字とはどう違うのか……というふうなところからゆっくり幕が上がり、やがてギリシア・アルファベットの原型になっているフェニキア・アルファベットが登場し、やがて舞台はシナイ半島、シリアへと移っていく。
 こんなふうにまとめると、無味乾燥な学術書のように思われるかもしれないが、それはとんでもない誤解で、これほど楽しく面白く、また刺激的な本も少ないだろう。作者は歴史家であると同時に旅行作家でもあり、ゴビ砂漠からエクアドルまで世界各地を見て回りそれを本にまとめてきただけあって、その土地、気候、食べ物、人、そして文化を見る目は鋭い。そういった目が、アルファベットが形作られ、発展していった歴史を追っていく。これほど知的好奇心をそそってくれる読み物も珍しい。
 そして著者は、茶目っ気たっぷりに、寄り道の楽しさも教えてくれる。たとえば第四章「完璧なアルファベットを探して」。ここでは一見、単純明快にみえるアルファベットの信じられないほどの可能性から話が始まる。「アルファベットが単純だというのは、マンハッタンの街路地図が単純だというのと同じだ。実際それだけをみても、言語の実体も町の本質もわからない」と前置きして、アルファベットの表す複雑な音、それに輪をかけて複雑な言語へと進み、そのうち「言語の完璧な表記方法」などありうるのかという問題に移っていく。そして最後に、「西洋アルファベット以上の働きをするアルファベットも存在する。完璧を求めて、可能なかぎり進歩していったアルファベット」として、十五世紀半ばに朝鮮で生まれた、「人類のなしとげた知的偉業のひとつ」を紹介する。イギリスの言語学者ジェフリー・サンプソンをして「その単純性と効率性、精密さと簡潔さはまさにアルファベットの典型」であるといわしめた、その表記方法とは……
 言語、文字、文化に興味のある人にとって、文句なく面白い本であることは間違いない。

 なお翻訳にあたり、できるかぎりの資料をあたったが、なにしろこの内容である。調べたりないものもあれば、間違いもあるかと思われる。どうかその点、ご寛恕いただき、お気づきの方はぜひ、編集部にご連絡いただきたい。

 最後になりましたが、原文とのつきあわせをしてくださった段木ちひろさん、編集の原浩子さん、そして細かい質問に笑顔で(たぶん)答えてくださった著者に心からの感謝を。
二00三年十二月 金原瑞人

 ご協力いただいた次の機関、協会、研究会の方々に心からお礼を申し上げます。
(在日イタリア大使館報道部、在中国日本国大使館広報文化部、在日エジプト大使館文化部、在日中国大使館、日本ウィクリフ聖書翻訳協会事務局、関西大学エジプト研究会の皆さん)