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1.高知こどもの図書館 もうご存じの方が多いと思うが、「高知こどもの図書館」という図書館がある。建物は高知県から借り受け、特定非営利活動法人(NPO法人)で運営しているという、珍しい図書館である。 じつは私事ながら、母親が高知は北川村の出身である。まあ、村はどうでもいいのだが、高知の人々はまことに酒が好きであって、数年前、「だれそれは泥酔したあげく車にはねられて死んだぞね」という発言に、まわりから「おお、成仏、成仏!」という声があがったというくらいだ。また、終戦後、ある神社にずいぶんと立派なご神木があったらしい。「あんなに拝んだのに、日本は戦争に負けた。この神さんの力はたいしたことないぞね」ということになり、ご神木を切って材木屋に売り払い、その金で村人全員が一週間ほど飲んだという神話も残っているという。なにしろ県民一人平均の貯蓄額は全国で最低ラインとかで、うちの社会学部のやはり高知出身の先生が「そりゃ、金原君、高知には産業らしい産業もないからねえ。さて、唯一、産業らしいものといえば、『四万十川』くらいかなあ。それになにより、酒が好きだし」といっていた。 高知は温かいし、酒はうまいし、みんな酒が好きだし、うらやましい限りである。 ところで、それはさておき、この図書館からヤングアダルト向けのブックガイドが出た。これがまた、よくできているのだ。ちなみに、金原もひとつ書かせていただいた。ということもあり、ここで宣伝を。 YAブックガイド 『よんどく!?〜当世若者読書案内〜』 増補改訂版発行のご案内 2003年2月に発行いたしましたYAブックガイド『よんどく!?〜当世若者読書案内〜』は、おかげさまで県内外の学校や図書館をはじめ多方面からご好評を得ることができ、出版から半年足らずで品切れとなりました。多くの方からの再発行要望の声を受けて、この度「増補改訂版」を発行いたしました。 内容をご紹介します。 *A5版/111ページ 紹介本:約400冊 売価:500円 遠方の方へは送料実費でお送りいたします 増補改訂版『よんどく!?〜当世若者読書案内』についてのお問い合わせ、ご注文はNPO法人 高知こどもの図書館 までどうぞ!! kodomo@i-kochi.or.jp tel:088-820-8250 2.三度、 'I' と 'you' について 英語には一人称は 'I' しかなく、二人称は 'you' しかない。それに対して日本語には数え切れないくらいある(ちょっと大げさかもしれない)。このことは英語・日本語の翻訳においては必然的に誤訳を生じさせることになる。 というふうなことを以前、二度にわたって書いた(と思う)。じつはそのとき、もうひとつ気になっていたことがあって、講演などではよく話すのだが、ここではあまり詳しくは触れなかった。というのも、自分のなかで解決がついていなかったからだ。なにかというと、日本語では二人称が一人称として使われることがあるという事実である。 たとえば関西で、「われ、なにしてけつかんねん」という場合の「われ」である。「おのれは、どいつたろか」という場合の「おのれ」である。「自分、いったいどう考えとんねん」という場合の「自分」である。 日本語の一人称はまことに幅が広い。「私、わたし、ワタシ、俺、おれ、オレ、僕、ぼく、ボク、あたし、われ、おのれ、自分、朕……」と、きりがないほどである。そのうえ、「お父さん、お母さん、おばあちゃん、おじいちゃん、先生……」といった名詞までが一人称に使われることがある。たとえば「お父さんは、おまえのことを考えていっているんだよ」「先生は、それには賛成できないね」という場合の「お父さん」や「先生」は、英語に訳せば 'I' しかない。これを英語にしようと思うと、ちょっとした混乱が起こる。"Your teacher don't agree with that."……? おいおい、"Your teacher" って、三人称じゃないのか。いや、"Your teacher" が一人称で使われている場合は、一人称なのだから、三単現の 's' はいらないのだろうか……? こういう日本語の一人称の感覚は、欧米の人にはまずわからない。それに、なんと、二人称まで一人称として使うことがあるのだ。なんだ、これは。 さっきは関西弁の例をあげたが、いうまでもなく、これは日本語の基本的構造としてしっかりある。たとえば、「おのれ(己)」を『広辞苑』で引くと、次のように書かれている。 「(一人称)わたくし。われ。 (二人称)目下の者に、または人をののしる時にいう。きさま。こいつ」 いったいこれは日本語の(あるいは日本人の)どういう特徴と結びついているのか。それが気になってしょうがなかった。 この疑問に、おもしろい方向から光をあててくれたのが橋本治である。もうすぐ刊行されるはずの『いま私たちが考えるべきこと』という著書のなかで、この問題に触れている。まず次の箇所を読んでほしい。 「日本語には『一人称と二人称の区別』がない。『我』は、『自分をさす言葉』であると同時に、『二人称の他人をさす言葉』でもあって、『己』も『自分』も同じなのである。『自分』などという、近代になって一般的になったとしか思えない言葉でさえ、『自分=他人』の構造になっているというのにはちょっとびっくりするが、しかし、そうなのである」 この本の中心になっているのは、「人間には二種類がある」という仮定だ。二種類というのは、「自分のことを考えろ、と言われるとまず自分のことを考える人」と「自分のことを考えろ、と言われるとまず他人のことを考える人」である。このへんについては、ここでは説明しないで、さっきの問題にもどり、もうひとつ橋本治の文章を引用してみよう。 「そんなメチャクチャな言葉を使って意思の疎通を図ることが可能なのは、日本語が、『その言葉の置かれた文脈に従って、言葉の意味を理解する』という、思考技術を前提にしているからである。つまり、『自分のことを考えるに際して、”他人”という迂回路を通る』をあたりまえにしているのである」 これを読んで、「その言葉の置かれた文脈に従って、言葉の意味を理解する」のは日本語に限らず、万国共通ではないかと疑問に思った人も多いだろうが、この本の文脈ではそうではない。そのへんを説明しだすと大変だし、そもそもそのへんを説明するためにこの本一冊が書かれているわけなので、気になる人は、ぜひ読んでみてほしい。これほどわかりやすい言葉で、これほど深く考えさせてくれる本はなかなかない。 ちなみに、まだ刊行されていない本の中身をなぜ知っているかというと、新潮社の宣伝雑誌「波」にこれの書評を頼まれて、ゲラの段階で読んだからである。ちなみに、なんでそんな本の書評を頼まれたかというと、橋本治+岡田嘉夫の『仮名手本忠臣蔵』を雑誌やTVで紹介したからである。ついでながら、この「波」の書評ではこんなことを書いている。 「当時まだ駆け出しの翻訳家だった金原は、これ(『桃尻語訳・枕草子』)を読んで、君子ではないが豹変した。その時代と社会と個人の『好み』が、はっしと切り結んだ虚像こそ翻訳の本質なのだと悟ったのである。橋本治版『枕草子』なくして、現在の自分はないと思う」 え、いったいなんで、と不思議に思った方は、ぜひ、「波」を読んでみてほしい。 3.これぞヤングアダルト!(『ホエール・トーク』) 今年の翻訳、予定通りいけば、かなり豊かなものになりそうな予感がある。アレックス・シアラーの新作が二冊、ドナ・ジョー・ナポリが四冊、『バーティミアス』の第二巻や『ヒーラーズ・キープ』などのファンタジー、『人類最高の発明、アルファベット』(ノンフィクションはこれ一冊かな)、その他もろもろなのだが、とくに高校生を主人公にした青春小説が今年は突出しているような気がする。その第一弾が『ホエール・トーク』だ。このあと『スピーク』『ホワイト・ホース』(仮題)と続く。 この頃、日本の出版社は血眼になって「映画化などの話題性のあるファンタジー」と「癒し系のヤングアダルト物」をさがしているから、そういったジャンルのものは、エージェントを通じて、すぐに出版社に持ちこまれる。ものによっては、ゲラや原稿の段階で持ちこまれるものもある。普通の翻訳家が割りこむすきはほとんどない。そもそも金原は基本的に競争が嫌いである。というか、群がる人々を押し分けて……というのが面倒なのだ。二十年ほど前、日本の出版社がほとんど海外のヤングアダルト物を出そうとしなかった頃は、のんびり好きなように宝探しができた。が、いまはちょっときつくなってきた。 というわけでいまどのへんをさがしているかというと、「高校生あたりが主人公のかなりきつい(厳しい)小説」、「エスニック作家のもの」、「短編」、この三つである。どれもまだまだ日本ではあまり注目されていないから、さがすのも楽である。 というわけで、今回は高校生が主人公のヤングアダルト物の第一冊目『ホエール・トーク』の後書きを載せておこう。とにかく素晴らしい作品だと思う。今まで訳してきたヤングアダルト物のなかで最高点をつけたい。「もしつまらなかったら、本代返してやる!」と啖呵を切りたくなるほどの作品である。 それにしても、これほどの作品がこれまで日本でほとんど注目されなかったのは、うれしいような、また悲しいような複雑な気持ちである。 西田君との共訳。四月初旬、青山出版社から刊行の予定。 訳者あとがき 圧倒的な力を持つ作品というものがある。今まで訳したヤングアダルト向けの本でいえば、『豚の死なない日』がその最も良い例だろう。読み終えたあと、一言も声がでないくらい心の揺さぶられる小説といってもいい。クリス・クラッチャーの『ホエール・トーク』も、まさにそんな一冊である。 これまでずいぶん色んな本を訳してきた。どれも好きだし、それぞれに思い入れがある。が、また、それぞれに向き不向きがある。ハードなファンタジーが好きな人に薦めたい本もあれば、一風変わったリアリズム小説が好きな人に薦めたい本もあれば、エスニック文学の好きな人に薦めたい現代小説もある。 しかし相手の好みなどきくまでもなく、とにかく読んでみてくれと突きつけたくなる本というのもごくまれにある。 主人公のT・Jは、IQ驚異的、表現力モンスター級、身長百九十センチ、バスケットが得意で、百メートルのタイムは十秒四。ただ黒人と日系と白人の混血で、ドラッグに溺れた母親に捨てられ、白人夫婦に引き取られた。そしてまわりには人種差別主義者がライフルを片手にのし歩いている。 T・Jの腹のなかには幼い頃から、怒りと痛みとが渦巻いていて、ことあるごとにそれが噴出する。自宅謹慎の経験は数え切れない。小学校で水泳を始めるまで、教師の半数が薬物治療を受けさせたがり、もう半数は感化院に入れたがった。 入学したカッター高校はスポーツが異様に幅を利かせていたが、T・Jは高校のスポーツクラブには絶対入らないと心に決めていた。人に指図されるのもいやだし、スポーツバカといっしょになにかをするのもいやだったからだ。 そんなT・Jが、ある事件をきっかけに、水泳チームを作ることになる。しかしカッター高にはプールもなく、集めてきた部員は、脳障害のあるクリス、体重百三十キロのサイモン、平凡すぎるほど平凡なジャッキー、いつも殺気だった目で相手をにらみつけるアンディ(右脚は義足)など、ひと癖もふた癖もあるくせに、ろくに泳ぎを知らない連中ばかりだ。コーチはシメット先生と、オールナイトのフィットネスクラブを家代わりにしているオリヴァー。立ちはだかるのは、対戦する高校の水泳チームではない。カッター高の花形フットボール選手バーバーや、その先輩にあたる卒業生リッチなど、暴力的な差別主義者たちだ。 こうしてスーパーマンT・J率いる奇人変人でこぼこチームは前途多難な旅に出る。 この奇妙な青春小説は、さらに様々な人々を巻きこんでいく。T・Jの養父(心に大きな傷を負って以来、バイクの修理と子ども相手のボランティアばかりしている)、養母(児童虐待事件を扱っている弁護士)、人種差別と幼児虐待で悪名高いリッチ、リッチから必死に逃れようとする妻とその娘。 テーマは重いが、物語は非常にテンポ良く、読み出すととまらない。物騒なジャングルを走り抜けるジープに乗せられたような、スリルとスピード感に翻弄されているうちに最後まで行き着いてしまう。 これほど読み応えのあるユニークな青春小説にはめったに出会えない。「奇跡」にも似た作品といっていい。『豚の死なない日』と同じように多くの人々に読まれることを祈っている。 著者のクリス・クラッチャーは寡作ながら、もこれまでに刊行された本書を含む7冊すべてがALA(アメリカ図書館協会)のヤングアダルト・ベストブックに選ばれており、ほかにも多くの賞を受賞している。スポーツがらみの作品が多いが、なにより若者を見つめる目の鋭さと確かさと優しさが特徴的だ。現在、『ホエール・トーク』にも出てくるワシントン州スポーカンに住んでいる。 なお、最後になりましたが、編集の津田留美子さん、原文とのつきあわせをしてくださった柳田利枝さんに心からの感謝を!二00四年一月 金原瑞人 |
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