あとがき大全(38)
金原瑞人


2004..08.25日号

           
         
         
         
         
         
         
    
1.『白い果実』
 というわけで、岡山での個展(写真展)、盛況のうちに幕を閉じました。大阪、兵庫からの来客もあり、ちょっとうれしかった。お越しいただいたみなさまには、この場を借りて、お礼を。
 またその節には、同級生もきてくれて(20年ぶりくらい?)、それも楽しかったし、中学校の国語の先生もきてくださって、中学、高校でもっとも印象に残っている先生だったので、またこれがうれしくて、来年もやろうかなどと考えているところ。
 そういえば、来客のひとりに、幻想小説を書いてる山尾悠子がいて、二、三時間話しこんでしまった。話題は今月の20 日に発売になる(予定の)『白い果実』。
 この本、ジェフリー・フォードというアメリカの作家のSF(というか幻想小説)で、「世界ファンタジー大賞」を受賞している。
 この「世界ファンタジー大賞」という名称(訳語)について、一言。英語では 'World Fantasy Award' という。現在、日本ではこれに二種類の訳語をあてている。ひとつは「世界ファンタジー大賞」。もうひとつは「世界幻想文学大賞」。後者のほう、気持ちはわからないでもない。実際、受賞している作品をながめると、ファンタジーもあれば、幻想小説もある、これを「ファンタジー」とくくってしまうと、なんか子どもっぽくて、ちがうぞという気がしてくる。しかし、翻訳者としていわせてもらえば、そのまま「世界ファンタジー大賞」でいいと思う。そのままなんだし。そもそも、英語では「ファンタジー」というと、トルキンやルイスの作品も指す一方、幻想小説も指すわけで、このままでいいって。そのへん、考えすぎて、訳語をごちゃごちゃひねっていると、かえって面倒なのだ。'World Fantasy Award' は「世界ファンタジー大賞」でいい。こういうところに似非マニアが口を出すから、話が面倒になってしまう。もともと、「ファンタジー」というのは、前にも書いたけど、文学用語では幻想文学が本体なんだから(というふうに書きつつも、大勢に押され、あとに出てくる「あとがき」で「世界幻想文学大賞」という名称を使ってしまうあたりが、いかにも金原らしい。なにしろ『世界幻想文学大賞』を使う人のほうが圧倒的に多い)
 で、閑話休題。もう三年くらい前だったか、タトルというエージェント主催の翻訳教室で教えていたときのこと、生徒さんのひとり、谷垣さんがこの本を持ってきた。ざっと読んでみたところ、ストーリーもイメージもおもしろくて、まず東京創元社の編集者、山村さん(現在、シラキュースの大学院に留学中)に持っていって相談したところ、「たしかにおもしろいのはわかるけど、売りに欠ける」との返事。まさに、そうだなと思った。
 そもそも、文体が弱い。これがマーヴィン・ピークの文体で書かれていたら、どんなに素敵だろう……と思った瞬間、足は国書刊行会に向いていた(都営三田線の志村坂上にある出版社)。目指す編集者は磯崎さん。まあ、国書刊行会というのがマニアックな出版社なのだが、その編集者のなかでも、さらにマニアックなのがこの人で、いまは鎌倉に住んでいて、毎週末、澁澤龍彦宅を訪れ、蔵書の表紙やなんかのコピーを取っている。これをもとに、『澁澤龍彦蔵書目録』を作るつもりなのだ。えーー、そんなもの、だれが買うんだ?! と叫びたいところだが、金原は絶対に買うと思うから、気持ちは複雑である。
 で、磯崎さんに会って、ひとつ驚いたのは、以前に一度会っているということだった。じつは、朝日新聞の「ヤングアダルト招待席」を担当していたとき、特色のある出版社を訪れるという企画を考えていて、当時巣鴨にあった国書刊行会を訪ねたことがある。そのとき相手をしてくださったのが磯崎さんだった。
 そのマニアックな編集者、磯崎さんにかけあってみた。つまり、谷垣+金原で翻訳して、それを山尾悠子に彼女の文体で書き直してもらうという案である。
 じつは、これを思いついたとき、自分は天才ではないかと、ふと思ってしまった(一生に一度か二度しかないと思う……ということは、これが最初だから、あと一度あるかないかだろうな)
 磯崎さんとしては、山尾悠子にそんなことを頼むのはもったいないという考えが、まずあったらしい。もともと寡作な作家だから、翻訳なんぞに手を染めるよりは、少しでもオリジナルの創作をと考えるのも、有能な編集者としては無理はない。
 が、なんとなく、この企画、通ってしまった。山尾悠子もOK。
 というわけで、出発したのだが、いやあ、さすがに寡作な作家だけあって、なかなか原稿があがってこない。しかし、あの凝縮された文体で原稿用紙600枚分を書き直すというのは、かなりの重労働だったと思う。
 三年越しで、出版の運びとなった。山尾、金原、谷垣の三人の存命中にこの本が出たのは、まことにめでたい。
 磯崎さんはつい昨日、「出たよ〜〜ん」とかいう軽いメールを送ってきたが、こちらはそれどころではない。これはもう、日本の翻訳界をゆさぶる、いや、震撼させるほどの好企画なのだ。これほど贅沢な翻訳本は、まず出てこないと思う。気鋭の谷垣が訳し、金原がつきあわせ、山尾が書き直す。もう、先代団十郎、現団十郎、現海老蔵の夢の初顔合わせに勝るとも劣らない。
 とにかく、もろ手を挙げてのお奨め本。ぜひぜひ読んでみてほしい。

2.『白い果実』
 というわけで、そのあとがきを。

   あとがき(『白い果実』)

 一九九七年、ジェフリー・フォードの『白い果実』(The Physiognomy)が出版されたときの衝撃はちょっとしたものだった。ニューヨーク・タイムズの書評で激賞されたほか、SFやファンタジーのみならず、ほかのジャンルでも評判を呼び、翌年、世界幻想文学大賞を受賞する。
 壮大な三部作の第一部だが、なにしろダンテの『神曲』やカフカの『城』と比較する評もあるといえば、そのスケールの大きさと独創性は十分にわかってもらえるだろう。が、いわせてもらうと、そんなにしかつめらしい深刻な物語ではない。もちろん、宗教、哲学談義も出てくるが、あくまでもスパイスとしての役割にすぎないと思う。幻想味と諧謔味あふれるモダン・ゴシックといった感じではないだろうか。
 さて、舞台は(第二部以降を読むとわかるが)「東の帝国」である。この帝国には、独裁者ビロウが自らの内面を具象化して創り上げた「理想形態都市」とその周辺の属領がふくまれる。ビロウは科学と魔法に長じ、丸天井の建物や塔、クリスタルとピンクの珊瑚からなる美しい都市を創造し、異常に発達した観相学を支配の道具として使っている。
 そのビロウの右腕と評判の観相学者、クレイが辺境の町アナマソビアに派遣されるところから物語は始まる。
 ある教会に飾られていた「白い果実」が盗まれ、その犯人をつきとめることが彼の任務だった。「白い果実」というのは鉱山で発見されて、いつまでも腐ることなく教会に保存されており、食べると不死身になるといううわさもあった。
 クレイは早速、観相学を用いてその調査に乗り出す……が、次々に起こる異様な事件に翻弄されるうち、やがて自分を見失い、破滅する……が、物語は彼をその地獄から引きずり出して、冒険へと追いやる……舞台は南国ドラリス島の硫黄採掘場へ、そして理想形態都市へと二転三転し、そこで彼を待ち受けていたものは……
 とまあ、この物語は、最初から最後まで、読者の予想を裏切り続け、読者の期待に応えながら疾走してくれる。
 この作品、プロットも構成も人物造型もすべて、エンタテイメントの王道をいくような巧みな作りになっている。つまりおもしろくて楽しくてしょうがないのだが、最も大きな魅力は、そこにはない。それはなにかというと、あちこちにちりばめられた幻想的なイメージと、病的で痙攣的なイメージではないだろうか。
 たとえば、この本を読み始めるとすぐに、スパイア鉱山のエピソードが出てくる。スパイアというのは燃料になる青い鉱物なのだが、鉱夫たちは長年ここで働くうちに、体が青くなり固くなっていく。主人公のクレイは鉱夫ビートンが真っ青に石化する瞬間を目撃する。
「私がその手紙を読み終える前にビートンは人間から鉱物に変わってしまったようだった。変化は全く音を伴わなかった。断末魔の呻きも叫びも洩れはしなかったし、肉が石に変化する時に微かな音を伴うこともなかった。かれはただ手紙を読み終わるのを待つ淡々とした表情で私を見つめていた。前に差しだされた手は、封筒の幅だけ指が開いている。私は手を伸ばし、ビートンの顔に触れた。青い大理石さながらの滑らかさだった。皺や髭まですべすべしている。私が手を引いた時、ビートンの眼球が急にぴくりと動いて真正面から私の眼を覗き込み、そのまま今度こそ永遠に固く凍りついた」
 そしてその青い像をながめながらのクレイと、ビートンの孫娘アーラとの会話。
「分析のために鑿を使わなくてはならないかもしれない」
「あの頭を発掘するのを手伝わせていただけたら光栄ですわ」
「何が見つかるだろうね」
「楽園への旅が見つかると思います」(……)
「かれの脳の真ん中で、我々は白い果実を見つけることになるんじゃないかな」
 この手の小説が好きな読者は、もうこのあたりでしっかりつかまってしまう。そして作者の奇想といっていいほどの異様な想像力に翻弄されて最後までいやおうなく引っぱられていくのだろう。
 ともあれ、二十世紀最後を飾る、奇書といっていい。

 じつはこの作品、翻訳の教え子の谷垣さんに要約を渡され、原書を読んでみて、そのすごさに驚き、なんとか日本でも出版したいと思ったのだが、問題はその文体だった。これをわれわれの翻訳文体で訳してしまうと、それこそぺらぺらなエンタテイメントになってしまう。それだけはなんとしても避けたい。しかし、日夏耿之助か平井呈一でも生きていれば話は別だが、いまこれを過不足なく、見事に訳せる訳者は、ひとりも頭に浮かばなかった。
 そこで頭に浮かんだのが、山尾悠子だった。谷垣・金原で訳したものを山尾が山尾文体に移す、なんとすばらしいアイデアなのだろう。それを思いついた日は、結局朝まで、いや、朝になっても眠れなかった。そして早速、国書刊行会になぐりこんで、いや、飛びこんで、編集の磯崎さんに相談してみた。この本の性格からして、ぜひ山尾悠子の文体がほしいということ、また、山尾は根っからの遅筆だが、こういうリライトを経験すれば、書く速度が上がるのではないかということ……などなど、さんざん並べ立てて説得し、了解をいただいた。
 こうしてこの本ができあがった。
 なんとも、なんとも贅沢な一冊である。おそらく原作を越えている。
 ぜひぜひ、お手にとってご一読ください。

 ちなみに、この物語は第二部の『Memoranda』へと続き、第三部の『The Beyond』で完結する。」いずれも主人公はクレイだが、最終巻には、『百年の孤独』に匹敵するほどの見事な仕掛けがほどこされている。
 乞うご期待!

 二00四年六月二一日
                               金原瑞人


3.『フランダースの犬』
 国書の磯崎さんに限らず、編集者というのはたいがい訳者よりも有能で、目配りがきいて、親切で、ある意味、意地が悪い(こともある)。それはフリーの編集者もまったく同じ(というか、だいたいフリーの編集者というのは、どこかの出版社で働いていて、そのうち独立することが多い)。
 そんなフリーの編集者のうち、ぼくなんか到底歯が立たないと思ってしまうような人が数人いて、そのうちのひとりが三浦さん。おたがい、酒好きで(飲んだくれで)、本の趣味もなぜか合うし、歌舞伎でも話が合う。ただ、ぼくのほうが日本酒というのが、唯一の違いかもしれない(三浦さん、最近は発泡酒らし)
 で、その三浦さんから今日、『フランダースの犬』をめぐる感想がメールで届いたので、それを紹介してみたい。けっこう発見に満ちたメールだったので。
(ちなみに「>」は金原のメールの一部で、返事のほうが三浦さん)
メール(1)
> 家で飲んでると、きりがないからなあ。
> ぼくなんかも一週間ほど家にいると、それこそ、休肝日は0だもん。

そーなんです!

> 適当に外に出るほうがいい……とはいえ、外に出たら出たで、また、飲むもんな。

そーなんです!!

メール(2)
> 今日は久々に勘九郎の『四谷怪談』。

どうも、こわいのが苦手で、毎年パスしてしまうです。

> 飲み会、九月にまいりましょう。

おお、楽しみ。

話はまったく関係ないですが、ふと、新潮文庫の夏の100冊フェアにつられて「フランダースの犬」とか読んでしまった。甥っ子(そろそろ、文庫本サイズもOK。ただし、日本語苦手なので、読みやすくないとダメ)に、と思ったのだが、いくら村岡花子訳でも50年前の訳だから、とても甥たちにはムリだ、と思ったです。今日本にいる10代の人たちでも「この言葉、なに??? これも。これも。」状態だろうなあ。しかし。ネロが15歳だとは知らなかった。15歳なら、ちゃんと働けよ! アニメのせいもあり(見てなかったけど)なんとなく、8歳くらいのイメージですよね。

メール(3)
> このメール、「あとがき大全」に使っていい?

おお、そういう仕込みの時期ですね。
このところ、酔っ払い時間帯には、メールは見ても、アホ返信を書くのは(100%お詫びメールを追っかけ送ることになるので。わかってはいても送っちまうことも、あいかわらずですが)翌日、酔いが醒めてから返信、にしてるです。
が、すばやい金原さんのことだから、すでに原稿書き始めておられて、返事がこなくてこまっておられるかも、とか思い、1時間ほど醒めたところで返信。(ちなみに、この一週間、焼酎パックが切れてたので、毎日よい子にビール6本、クラスでしたが、今日また補充しちまったので、ヨロラリホ、です)

ネロ、一応働いてはいるんだけど、8歳児なみ、ですよね。昔のほうが子供を早くから6868労働力として扱ってることを思えば「???」みたいな。一方では「ぼくはルーベンスみたいな画家になりたい」とか、野望をもっちゃってるわけで、作者はそのへん、皮肉ってるのか? とか穿った見方をすることもできるし。

アホメールの内容をネタにしていただくのは(パス、といいたいところながら)なにとセットになるのか(63歳からのハローワーク、とかか?)多少の興味もあるし、おまかせするです。

ちなみに、粉屋の娘のアロアちゃんも、これまた12歳。オヤジが「あの2人をあまりいっしょに遊ばせるな」と妻にいうのも、(大人の感慨で悲しいですが)当然、ですよねえ。このご時世からいえば、作者が年齢設定に普遍性がない、ちゅうか。無邪気というのか。

がんばれパトラッシュ! であります。

酔っ払い三浦


 というふうなメールのやりとりだった。そうか、ネロは15歳だったのかと、一気に酔いがさめてしまった。これって、知っていると、この作品観ががらっと変わってしまいかねない。けっこう、大きな問題かも。
 日本のアニメの演出も問題あるよな。これにくらべれば、ディズニー映画の『ピノキオ』で、ピノキオがクジラに飲みこまれてしまう演出なんかかわいいものかもしれない(原作ではサメに飲みこまれることになっている)。まあ、名作をアニメでみて、原作を読まない読者にも責任はあるんだろうけど(自分もふくめ)。
 いまどき、どんな感じで、欧米の読者はこれを読んでいるんだろうと思い、アマゾンで調べてみたら、こんなふうに紹介されていた。

A reprint of "the first modern dog story," originally published in 1872, presented here as an example of sentimental literature in which realism and credibility are subordinate to grand emotional tragedy.

 ある意味、これって、全然ほめてないじゃん。「感傷的小説の見本として、復刊した」とあって、「感傷的小説というのは、心を揺さぶる悲劇を目的としたもので、リアリティなんか二の次である」といっている。ということは、ご都合主義的な通俗小説ってことか? ま、わからんでもないが。
 しかし 'the first modern dog story' かあ。いわれてみれば、たしかにそうかも。


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