あとがき大全(40)

金原瑞人

【児童文学評論】 No.82 2004.10.25日号

           
         
         
         
         
         
         
    
1.まずはお礼
 青山出版社から出ることになっていて、すでに翻訳作業が終わったり、進行中であったりの6冊、宙に浮いていたのですが、おかげさまで引受先が決まりました。フリーの編集者の倉澤さんから、牧野出版社の佐久間さんへ連絡がいき、佐久間さんがある出版社に打診してくださって、6冊まとめて引き受けていただくことになりました。ありがとうございます。
 また、一冊でもと出版を検討して下さった出版社の方々にも、この場を借りて、お礼を申し上げたいと思います。
 ふう、やっと肩の重荷がおりました。


2.問題
 翻訳に興味のある方へ。とてもおもしろい文章にぶつかりました。どうぞ、訳してみて下さい。解答、解説は最後に載せておきます。

I dumped my books on the sofa and began looking for the trowel we had used when Mother and I had tried to grow tomatoes outside our trailer in Texas. The plants had grown about a foot high when huge caterpillars attacked. They were covered with hundreds of tiny white cocoons, and if you picked them off and stepped on them, they squished out the most disgusting green stuff. I decided that it was punishment enough for them to have to go through life looking as ugly as they did, so I left them alone and they ate up all the tomato plants.


3.縦横問題
 先月号に「縦書き・横書き」について書いてみました。それについて、女性義太夫の太棹の寛也師匠からおもしろいメールがきたので、ご紹介しておきましょう。

受信メール(1)
 わたくしもお手伝いいたしませう。こないだ子供の本、だいぶ妹のとこ行っちゃったから、あれなんだけど。
<まんが・アニメ絵本>
○縦書き
パンダコパンダ・ポケモン(ゲームの本は横)・ディズニー・学研カラー絵ばなし(手塚治虫)・セーラームーンなど。講談社とかでよくシリーズものあり。やっぱり縦ばかり。
○横書き
カラー版ピーナッツ(スヌーピー) 鶴書房

ついでに。
<絵本>
○縦書き
・トッパンカメラ絵本  1960何年?
・岩波の子どもの本シリーズ(サンボなど・絵本かどうか微妙なとこだけどね) 53〜?
・松谷みよこ あかちゃんの本 童心社 67〜(この手のほかの会社のはみんな横)
・ものがたり絵本(花咲き山とか) 岩崎書店 70
・創作絵本(ひさの星とか) 岩崎書店 72
・おはなし名作絵本(かたあしだちょうのエルフ) ポプラ 75
・おばけの縁日 リブロポート 88
・日本の童話名作選 (ゴーシュとか。右半分文・左絵) 偕成社 89
・絵本館の佐々木マキ おやつですよーっ 92
(同シリーズのぶたのたね 89 は横)
・日本の神話 あかね書房 95
・クレーの絵本 講談社 95(絵本っていっても谷川俊太郎だからね。詩は縦ね。)
・ますだくんのいちねんせい日記 ポプラ 96

 縦書きは圧倒的に少ないけど、多少和風って以外、一貫性はないみたいねえ。せっかく調べたのに。

<横書きの普通の本>
・デブラウィンガーをさがして・13歳のハローワーク・茶色の朝   やっぱり「小説」じゃないね。
わたしの子どもの時の『こども百科』は縦、かおる(金原注:娘さん)のは横。

受信メール(2)
そうそうご報告。
『第17回 現代学生百人一首』入選歌集は、なぁんと、横書きである!(こどもの授業でコピーが渡されたそうで、それなんだけど、まあ縦から打ち直したとは思えないな)

 以上、寛也師匠からのメールでした。横書きの歌集、いいかも。


4.あとがき
 10月は絵本が三冊、『魔女ひとり』『あたしもすっごい魔女になるんだ!』『ゼルダのママはすごい魔女』(小峰書店)が出たのだが、これらにはあとがきがない……ので、あとがき大全に載せるあとがきはない。ただ、三冊のうち二冊はフランス語。おお、金原は仏語もできるのか、と感動なさった方も多いかとは思うが、残念ながら、大学を卒業してからはとんと仏語とは縁がなく、英訳を参照して訳したまでのこと。ただ、一冊は文字量も多く、英訳もときどき「?」と思われるところがあって、フランス物の翻訳で有名な平岡さんに原文とつきあわせていただいた。あとがきで感謝できなかったので、ここで、感謝!
 絵本以外ではご存知、フランチェスカ・リア・ブロックの『ひかりのあめ』(主婦の友社)が出たので、あとがきを。

   訳者あとがき

 茶色いスモッグがたちこめる、まるで穴のようなロサンゼルスのヴァレー地区。そんな★不毛の地(★ルビ ウェイストランド)に、レックスとマリーナという★兄妹(★ルビ きょうだい)が住んでいた。ふたりはしょっちゅう大好きな海に行き、いつもいっしょにいた。しかしあるときからレックスは自分の殻に閉じこもり、マリーナは途方に暮れる。ふたりの幸せな日々は陰を帯び、レックスの唐突な死によって幕を閉じてしまう。マリーナは兄の死を受け入れられず、絶望の日々を送るようになった。だが、やがて同級生のウェストの協力のもと、死の真相をさぐろうと動き出す。
 アメリカの若者にとってカリスマ的存在の作家、フランチェスカ・リア・ブロック、日本でも次々にその作品が翻訳され、今では多くの固定ファンを持っている。作品はどれもポップでクールで詩的。ファンタスティックでリアリスティックな独特の世界が広がっている。どの作品も、ときに美しく、ときにグロテスクにうごめいているように感じられるのが特徴かもしれない。ブロックの作品は小説というよりは詩に近く、そのきらびやかで鮮やかでレトリカルなイメージの躍動に、読者は理解する前にまず戸惑ってしまう。が、やがてそれが快感に変わっていく。
 この『ひかりのあめ』、原題は『★荒地(★ルビ ウェイストランド)』。二0世紀を代表するイギリスの詩人T・S・エリオットが一九二二年に発表した詩『荒地』に触発され、ブロックは自分の『荒地』を書いた。この作品には『荒地』から何カ所か引用されているし、語り手が次々に替わる構成も似ている。また全編にちりばめられた印象的な単語も、直接的間接的に『荒地』から持ってきたものが少なくない。
 しかし、それほど『荒地』に影響されながらも、やはりこれはブロックの『荒地』だ。ポップでクールな独特の世界は健在。さらに、詩と小説のあいだをいくような形式によって、より詩的な新しい世界に踏みこんでいる。
 詩的になったぶん、翻訳は大変だった。ひとつの単語に何重もの意味がこめられているような場合は訳しようがない。ルビを使うなどして対応したものもあるが、説明的なことは最小限にとどめた。『ひかりのあめ』をさらに楽しみたい方は、ぜひエリオットの『荒地』を読んでみてほしい。
 You と I の訳語も一筋縄ではいかない。原文では登場人物についてなんの説明もなく、いきなり I が You について語り出す。途中まで I や You が男なのか女なのかもわからず、読み進むうちに見えてくる構成になっている。しかし、訳文では、パンクに走るレックスを「わたし」と言わせるわけにはいかず、「おれ」を使うことになった。You も、レックスやマリーナの性格から、「おまえ」「あなた」という訳語におさまった。もちろん、ふたりとも「ぼく・きみ」という言葉で呼び合う形も考えられるが、やはりレックスが「ぼく」ではちょっとイメージが崩れてしまう。
 読むたびに発見のあるブロックの作品と格闘するのは、苦しかったが、また楽しかった。これからブロックはどの方向に進んでいくのか。訳者としては少々怖い気もするが、ひとりの愛読者として次の作品を楽しみに待っているところである。

 最後になりましたが、質問に丁寧に答えてくださった作者のブロックさん、編集の浜本律子さん、原文とのつきあわせをしてくださった中村浩美さんに心から感謝を。
   二00四年八月二七日               金原瑞人・田中亜希子

 というわけで、今回、翻訳のあとがきは一本のみ。ただ十一月にはストラウドの『バーティミアス』の第二巻(理論社)、カニグズバーグの『スカイラー通り19番地』(岩波書店)、ダン・ローズの『コンスエラ』(アンドリュース)、『ジャッコ・グリーンの伝説』(偕成社)、ミッチ・カリンの『タイドランド』(角川書店)などが出る予定。ちなみに、ミッチ・カリンは日本で初の紹介かな。乞うご期待である。
 ところで、金原、50歳を目前にして初の著書が出た。『大人になれないまま成熟するために:前略。「ぼく」としか言えないオジさんたちへ』(洋泉社)。書き下ろしではなく、語り下ろし。まとめてくださったのはフリーの編集者の今野さん。ちょっと気恥ずかしい……けど、紹介をかねて、あとがきを。

あとがき
 この本の内容を箇条書きにすると、こんな感じになります。
(1)アメリカの五0年代における若者の登場、若者文化の形成をわかりやすくまとめながら、アメリカにおけるヤングアダルト小説の役割について考えること(五一年の『ライ麦畑でつかまえて』から六七年『アウトサイダーズ』まで)
 いままで音楽や映画を中心にアメリカの五0年代、六0年代をまとめた本はかなりあるのですが、これに本をからめるとどうなるか、それを考えてみました。
(2)アメリカの若者文化とパラレルであるようにみえて、なぜか微妙に、いや、かなり異なった日本の若者文化について考えること。
(3)われわれとってある時期以降、常に不信感の対象であった団塊の世代(全共闘世代)に対する愚痴ともつかない批判。もちろん、この世代のなかにも評価すべき人々は多く、またぼく自身、心から尊敬する人々もたくさんいます。が、塊としてみた場合、どうしてもある種の不信感を抱かざるをえない。それはたとえてみれば、ぼくの場合、親交のあるアメリカ人はおしなべていいやつばかりなのに、イラク侵攻をはばからないアメリカはろくでもない国にしか見えないということと同じです。
 この不信感というのは、見田宗介の端的な言葉を借りれば、「欧米の団塊には、大人になっても現実社会で理想を追い続けたという印象があります……その点、日本の団塊、全共闘世代には、挫折して理想を捨て、大人になってからはビジネスに徹した印象が強い」(朝日新聞・2004年8月20日)ということです。
 しかしアメリカに対してある種の期待があるのと同様、団塊の世代に対しても大きな期待があります。ぼくが中学生時代、「世界は変革できる、それができるのは若者だ」と、一時的にでも夢を持たせてくれた世代にたいする期待です。不信感と期待、これがこの本のあちこちに顔を出す批判のような愚痴の背景にあります。
(4)自分自身、どのような姿勢で若い連中と向き合えばいいのか、つきあっていけばいいかについての考察。
 じつはこれがこの本の核にある問題ではないかと思っています。大学で学生を教えるとき、またゼミ合宿で学生と飲むとき、学生と芝居や落語を見に行くとき、そして子どもを育てるとき、いったいどんなふうに……というのが、この二十年ほど考え続け、また現在も考えあぐねている問題です。そしてこのことは、「大人になれないまま成熟するにはどうすればいいのか」という問題に直結しています。とりあえず答えらしきものは書いてみたのですが、自分自身それに十分納得しているかというと、そうでもないところがあり、このあたりは、まだまだ模索中といったところです。
(5)権威化してしまった日本の文芸批評の世界からは見向きもされない(されなかった)ヤングアダルト向けの小説について注意を喚起すること。
 齋藤美奈子が「女性を元気にする文学」として「L文学」(レディ、ラブ、リブ)なる言葉を作り、L文学が日本の文芸を切り崩し始めている現状を語っていますが、ヤングアダルト小説もまた同じような役割を果たしつつあります。文学界のみならず、これまである意味権威的、ある意味硬派であった日本のSF界を電撃文庫などのライトノベルが小気味よく切り崩している状況など、なかなかおもしろい現象ではあります。が、今回は軽く触れる程度にしておきました。
 考えてみれば、八0年代後半、朝日新聞で中高生向けの書評欄を隔週でまかされたとき、文芸部のほうでは「ジュニアの本棚」という名称を考えていたのですが、赤木かん子とふたりで「ぜひ、『ヤングアダルト』という言葉を使ってほしい」と頼みこみ、「ヤングアダルト招待席」という名前になりました。ヤングアダルトという言葉、当時はあまり使われていなくて、「アダルトというと、なんかいやらしい感じがする」とかよくいわれたものです。また、その後「アダルトチルドレン」という言葉流行ったときにも妙に混同されて困ったことがあります。が、最近では書店や図書館にも「ヤングアダルト・コーナー」が置かれるようになり、出版社に顔をだすと、「売れそうなヤングアダルト物はないか」と必ずきかれるようになりました。おそらく、これからさらにおもしろい方向に進んでいくと思います。

 本書の成立について少し。
 じつはこの本、金原が書いたものではありません。金原が語ったものを、フリーの編集者である今野哲男さんがまとめたものです。もっと詳しくいうと、金原がざっくばらんに取り留めもなくしゃべったものを、今野さんがまとめ直し、それに骨を入れてこのような形にしてくれました。怠惰でいい加減な金原の話がこんな形にまとまるとは、いったいだれが思っただろうなどと、われながら驚いています。
 また最後になりましたが、本書のあちこちでやり玉にあがる団塊の世代のひとりである洋泉社の編集者、小川哲夫さんにも感謝したいと思います。

   二00四年八月二十七日                  金原瑞人

 とまあ、こんな本を出したわけで、興味のある方はご一読を。しかし、この本、現代では40を過ぎても50を過ぎても「ぼく」としかいえないだろうというふうな、ぼやきのような、あきらめのような、また一方、決意のような、居直りのような実感が核になっているのだが、早くもひこさんから反論がきた。とてもおもしろいので、紹介しておこう。

(1)私は「ぼく」をほとんど使わないのね。「ぼく」を使わないのは、「ぼく」を使ったことがほとんどないからやけど。小学生までだった。あとは、「わし」か「俺」。「わし」や「俺」はさすがにフォーマルでは書きにくいので、「私」。「ぼく」で書くと落ち着かない。「私」も落ち着かないが。

(2)今、原稿書いてて、詰まったので、逃避行動で、「ぼく」について考えて、思い出したので、「金原資料」に付け加えるべく、書いておきます(本人は忘れるので)。
 これは地域差や、風土差だと思うが、当時の大阪で、中学生にもなって自分のことを「ぼく」なんていったら、「やつしや〜」(ええかっこしい)で、ボコボコにされた(あ、大阪やから、肉体的暴力ではなく、言葉でね)。
 せやから、「ぼく」を封印した側面もある。その場合大阪の、今で言うYA初期の(要するに中学生)にとって選択肢は「わし」か「俺」しかなかった。細かく言うと、「自分」もあるはずですが、大阪の場合、「自分」とは、「あなた」の意味でも使うので、一人称では使いにくかったわけ。


5.解答と解説
 冒頭で出した問題で、問題になるのは次の箇所。
 The plants had grown about a foot high when huge caterpillars attacked. They were covered with hundreds of tiny white cocoons,...
 でっかい毛虫(イモムシ)がついて、トマトの茎や葉を食べてしまったという内容なのだが、"They were covered with hundreds of tiny white cocoons"が曲者。
 ごく普通に読んでいくと、「茎が三十センチほどにのびたとき、大きな毛虫がついた。毛虫は無数の小さくて白いサナギにおおわれていて……」となって、なんだ、こりゃ、ということになる。
 そこで、"They were covered..." の "They" は毛虫じゃなくて、そのまえの "The plants" のほうかと考える。すると、「トマトの茎は無数の小さくて白いサナギにおおわれて……」となる。これなら、わからないでもない。ところが、この段落の最後で、茎も葉も食べ尽くされたとくる。え、なんで? 毛虫がサナギになったら、もう食べないじゃん。
 さて、あなたなら、どちらを取る?
 正解は最初のほう。これがわかったときは(作者に教えてもらった)、へえ、そうなんだと驚いて、へえ、おもしろいなと思い、翻訳の教え子たちに「問題」としてメールで送りつけた。15人くらいだったっけ。
 さてさて、1割くらいは正解がもどってくるかな、などとにやにやして待っていたら、なんと3時間ちょっとしてから、谷垣さんからメールがきた。生け贄第一号かと思ってメールを開いて喫驚。大正解だった。その直後、ニューヨークにいる海後さんからメールがきた。これも大正解。それから、杉田さん、船渡さん、西本さん、石田さん、天川さん、野沢さん、井上さん、西田くんなどなど(このあとも数人)から正解が届いた。
 正解を早めに送ってくださった方たちに、正解および、正解にいきつくまでの経路、順路を教えてもらったので、ここに紹介しおこう。翻訳にたずさわっている方には、絶対、参考になると思う。
 まずは最初の大ヒットを打った、谷垣さんのメールから。早くて正しいというお手本みたいな解答。そのうえ、第二信のほうでは「(もしかして後書き大全のねたづくりでした?)」という鋭い指摘もあり、二度驚いてしまった。

(1)(解答)
「芋虫の体には寄生バチの白い小さな繭がびっしりとついていた。」でしょうか? 「びっしりと」というのは、無数についている、という感じのつもりです。「体」は「背中」でもいいかも。寄生バチはヤドリバチともいうようです。
 寄生バチなのか寄生バエなのか迷ったのですが園芸のホームぺージでA doomed tomato hornworm carries white cocoons of braconid wasps that will parasitize and ultimately kill it. というキャプションの(かなり気持の悪い)写真を見つけたのでハチにしておこうと思います。
 辞書(リーダーズ)によると hornworm はスズメガの幼虫(芋虫)、braconid wasps はコマユバチ(小繭蜂)だそうです。
 寄生バチの生活史は種類によっていろいろみたいですけどたぶんこの場合は成虫のハチが芋虫の体に卵を生みつけて、幼虫が皮膚をやぶって体内にはいって(寄生して)それからまた出てきて体表に繭をつくって成虫になったら飛んでいくんだと思いますが。(うーん、なんだか背中がかゆくなってきました)。
 三か所ぐらいの英語サイトにトマトに、小さな白い繭がびっしりついた大きな芋虫がいたら放っておきなさい(寄生虫がやがて宿主を殺すから)。と書いてありました。問題文の芋虫はずいぶん元気そうなので、ちょっと食い違うのですが・・・。(日本のサイトで、寄生バチには宿主を殺してしまうタイプと飼い殺し〈生かしておく〉タイプがあるとも書いてありましたが、具体的な種類や植物名はなかったのでよくわかりません)。
 それにしても、この文章、最初に見たときは寄生バチだなんて思いもよりませんでした。
勉強になりました。

(2)(続・解答)
(もしかして後書き大全のねたづくりでした?)
 さっき「芋虫の体に卵をうみつけて」と書きましたが平凡社の百科事典によると、コマユバチのほとんどは宿主の体内(ときには卵内)に卵を生むそうです。それから、日本のサイトでアオムシコマユバチは交尾しないでも卵が生めるという話もありました(もちろん交尾をして生む場合もあるのだと思います)。全てのコマユバチがそうかはわかりませんが。
 前のメールに書いた写真のキャプションの... that will parasitize ... というののwill がよくわからなかったのですが成虫になったのが、また同じ(もしくは近隣の)芋虫に卵を生んで・・・ということなのかもしれませんね(よくわかりません)。なんだか芋虫、気の毒。

(3)(経路)
経路・・・ですか?
1、 最初にThey were covered with hundreds of tiny white coccoons. という文章を読んだときは、They はthe tomato plants でcaterpillars が cocoons になったのだと思いました。
2、 でも放っておいたら、tomato plants をくいつくしてしまったというので変だと思った。もしかしたら別の年のことかも、と思ったけれどそういう感じではないし、一度しっぱいしたら二度とトマトはつくらないでしょうし。それに、huge caterpillars なら huge cocoons になるでしょう。というわけで、They が tomato plants で cocoons がcatterpillars の cocoonsだという考えは捨てました。
3、となると Theyはcatterpillars だということになる。The catterpillars were covered with ○○. ○○は毛しか思いつきませんでした。細かい毛が密集しているのかなと思ってcocoons に毛という意味がないか、家にある辞書で調べたけど、そういう記述はみつからず明日図書館にいってOEDを見ようと思いました。
4、でも毛だとしたらfine でしょう。tiny は変だと思った。で、アメリカのヤフーで、'caterpillars tomatoes white cocoons' (だったと思う)のキーワードで検索。「トマトに catterpillars covered with small white cocoons を見つけたら・・・」という記事(園芸サイトでした)を見つけて、ああこれだと思った。
5、しかし、そこの説明では、寄生する虫だというだけで、何なのかわからない。日本語のサイトやパソコンにはいっている平凡社百科事典で調べ、寄生バエか寄生バチだろうと思う。このあたりでいろいろ面白いことを学習。でも寄生バエ、寄生バチのどちらなのか、なかなかわからない。
6、もう一度アメリカのヤフーに帰って、'tomatoes caterpillaer covered with white coccons' などと入れて丁寧に見ていくうちにA doomed tomato hornworm carries white cocoons of braconid wasps...というキャプションの写真を見つけ、ああ、これこれと思い、リーダーズや百科事典で hornworm や braconid wasps を調べ結論に至る。
 説明が長くなっちゃいましたが、簡単にいうとcoccoons についての考えは毛虫の繭(さなぎ?)→毛→寄生バチか寄生バエの繭→寄生バチの繭、と変わりました。
使ったのは、インターネットの日本語と英語のサイト、家にある辞書(リーダーズ、研究社、ロングマン、ジーニアスなど)、百科事典、でした。
 たしか三時間ぐらいかかったと思うので結構苦労しました。でもこういう謎解きは好きです。(殺人の出てくるようなミステリーは好きじゃないですけど)。


 さて、次は海後さんからのメールを。
(1)(解答)
 なんですか〜、これ? cocoonだらけのイモムシってこと〜!?
 ほんとにコクーンをしょってるイモムシがいるんですね〜!
 Tomato hornworm caterpillars may be seen with tiny white cocoons attached to their back. Leave these caterpillars alone. They will die anyway but the cocoons contain the pupae of tiny wasps, which control hornworms naturally.
 画像を添付しますが、見られますか? (草間さんがよろこびそう……〈金原注:草間彌生〉)見られなかったらこちらへどうぞ:http://biology.clc.uc.edu/graphics/taxonomy/Animals/Arthropoda/Insecta/Lepidoptera/Tomato%20Hornworm/
 説明は↓のサイトが詳しそうです:
http://www.oznet.ksu.edu/dp_hfrr/extensn/problems/hornworm.htm
 というわけで、「イモムシの背中には、ほかの虫の小さな繭がびっしりついていて、」でしょうか?

(2)(経路)
・まず、cocoonに適当な意味がないか、辞書で確認→なし
・google.co.jpで、caterpillar cocoons を検索→件数が多すぎ
・"caterpillar covered with cocoons" を検索
(引用符 " " に入れる=フレーズ検索)→該当なし
・引用符の有無、キーワードを変えてみるなど、いくつか試しているうちに、Tomato Hornwormという種類が浮上
・イメージ検索(キーワードを入れるボックスの上の「イメージ」)で、Tomato Hornwormを検索→画像を確認
 ちなみに、インターネットの検索にかかった時間は20分程度だったと思います。



 さて、三番バッターは杉田さん。
(1)(解答)
お世話になってます。突然びっくりしましたが、問題にチャレンジしてみました。
 (答え)毛虫はどれも、(寄生蜂の)小さな白い繭にびっしり覆われていて、
 ※下のような状態でしょうか?
 コマユバチ(小繭蜂)
 コマユバチ(金原注:以下、平凡社の百科事典からの引用があるけど省略)

(2)(経路)
 調査過程は以下のとおりです。
 最後の文章がI left them alone and they ate up all the tomato plants.となっている。となれば、毛虫自体が糸を出して繭になってしまったらトマトの木を食べられない。それなら、なにか別のものが繭になって、毛虫に群がっているのかも、とあたりをつける。それから、
(1)Googleのフレーズ検索で "They were covered with hundreds of tiny white cocoons" をより一般化した "covered with white cocoons" で検索する。
(2)すると、二件ひっかかる。
※一件目は、次のような掲示板への投稿。
Choose a control: When you find that your trap crop is infested, you have several ways of going about eliminating the pests. You can do away with most of the pests, leaving a few for beneficial insects to dine upon: pick off and destroy large, slow pests like tomato hornworms or cabbage loopers (unless they are covered with white cocoons which indicate that they have been parasitized by beneficials)
 問題文に出てくるcatapillarsは、たぶん、このtomato hornworms(スズメガの一種 Manduca quinquemaculata の幼虫;potato worm ともいう)のことを言っているのだろう。
 さらに、下線部のindicate以下から、white cocoonsの正体がぼんやり浮かび上がってくる。―えっ、寄生する?
※もう一件は、そのTomatoWormについての一項。
Tomato Worm. Tomato Horn Worms are very hard to see as they hang in the shade underneath foliage. But this one, covered with white cocoons of the predatory Braconid Wasp, is easily seen against a background of ripe tomatoes. Also seen to the ...
 で、こちらをクリックしてそのサイトにいってみると、ずばり、見たかった写真が出てくる。
Tomato Horn Worms are very hard to see as they hang in the shade underneath foliage. But this one, covered with white cocoons of the predatory Braconid Wasp, is easily seen against a background of ripe tomatoes. Also seen to the left, is its ornamental yellowish tail "horn", from which it gets its name. There may still be many larvae inside this Worm, about to come out and spin their own cocoons. If allowed to mature, the Horn Worms may approach 3" in length.
上記の説明より、この繭は、Branconid という、毛虫の体内に寄生する蜂の繭なのだとわかる。
(3)このBranconid(ae)を平凡社の百科事典で調べると説明が出てきて、日本語ではこれを、「コマユバチ」ということがわかる。
(4)訳文では、この繭というのが、毛虫に寄生した別の生き物の繭であることがわかる程度の補い訳を括弧づきで入れるにとどめた。
「毛虫はどれも、(寄生蜂の)小さな白い繭にびっしり覆われていて、」
以上。

すみません、書き忘れました。
Googleのフレーズ検索というのは、半角の二重引用符(" ")のなかに、調べたいフレーズを入れることです。それをしないで検索窓に入れると、八千件近くもひっかかってしまいます。


 という具合に、これら三人以下、ほとんど全員正解。やはり多かったのは、YahooかGoogleを活用して、目当てをつけてから、平凡社の百科事典や英和辞書で確認するという形。
 つまり、考えていてはだめということ。大学の英語の講読授業のとき、しつこく学生にいうのは、「意味を考える暇があったら、辞書を引け!」。辞書をたんねんに読んでいくと、たいがい解決がつく。それを生半可な単語力でもって無理やり意味をひねり出そうとするから失敗する。どんなにわかりきった単語であっても、そこで引っかかったら、まず辞書を引く。そして今回のことでわかったのは、「考える暇があったら、調べろ!」。インターネットなどという非常識なくらいに便利な検索道具ができたのだ。これを使わないでどうする。考える前に調べる、これからの翻訳家の座右の銘になると思う。
 しかしネットのお世話にならないで正解にたどりついた人もいる。ひとりは石田さん。こういう寄生蜂のことを知ってたらしい。
 さて、ここを間違えて、"They" を"The plants" に取った人が数名。そのうちのひとりは、ネイティヴにたずねてみたら、"The plants" だろうといわれたとのこと。まあ、そのあたりの知識がないと、ネイティヴでも間違えて読んでしまうという例かな。
 とはいえ、この正解率の高さに、そろそろ金原引退近しとの感じがしないでもない。こんなに優秀な人たちがたくさんいるのなら、もう出る幕はないような気がする。
 しかし、若い人々に追い抜かれるのは、それなりに快感でもある……などといっているうちに、人間はぼけていくのかもしれない。
 つい先日、編集工房リテラルリンクの奥田さんから、『バーティミアス』第二巻のあとがき、もう〆切が過ぎているので送ってくださいというメールがきた。それを読んだ瞬間、めまいがした。というのも、三日前に書いて送ったと思いこんでいたのだ。
 ここ数年、深夜から日本酒を飲み始める習慣がついていて、2時、3時になると、かなりアルコールが回って、あとがきやエッセイを書くのにもってこいの状態になる。もちろん、翻訳もOK。そして4時ころに、ふらふらして寝床に着くという感じ。なので、終盤戦のことはあまりはっきりとは覚えていない。たまに朝、ファイルを開いてみて、あれ、こんなところまで訳したっけと首をかしげることもある。こないだ江國さんと対談のおりに、そんなことを話したら、「あっ、そんな小人さん、わたしもほしい」といわれてしまった。
 それはともあれ、第二巻目のあとがき、かなり力を入れて書いた……ような気がしていて、所々のフレーズまで覚えているような気がしていたところに、奥田さんのメールである。書いたら間違いなく送っていたはず。ということは、まだ書いていないということじゃないか! しかし、こういうときに真っ青になったりしないのが自慢といえば自慢で、じゃ、また書くか(おっと、「また」じゃないな)という気になって(気持ちの切り替えが早い)、その日の夜、外での打ち合わせが終わってもどってくると、パソコンの前に座って、まずメールチェック。
 なんと! また奥田さんからのメールがきていて、開いてみると、「ごめん、あとがき、もらってた」。こちらは、一瞬また、めまいがした。
 奥田さんが、もらったメールを忘れていたというのはOK。しかし、あとがきを書いた本人が、書かなかったと思ってしまうというのは、いかがなものか。
 金原引退説、その二の理由である。