あとがき大全44

金原瑞人

           
         
         
         
         
         
         
    
1.読む、ということ
 アマゾンとかで、翻訳本の読者感想を読んでいてたまに見かけるのが、「原書はそんなにむつかしくないから、絶対に原書で読むのがお勧め! 原書のほうがずっとおもしろい。翻訳、ちょっとちがうなと思うところあるし……」という内容のもの。
 あたりまえじゃん、と思う。
 まず、「翻訳、ちょっとちがうなと思うところあるし……」というのは当然。自分が原書で読んだイメージそっくりの翻訳があったら、それこそ不思議だ。だいたい、英語で読むのと日本語で読むのと、印象が違わないはずがない。'Irene' と「アイリーン」は、発音だって違うし、見た感じだけでもずいぶん違う。ぼくだって、原書で読んだ作品を、だれかの翻訳で読むと、あちこち引っかかってしまう。そういうものだろう。
 あるとき、有名な児童文学の翻訳家が、「自分の訳した本以外は、すべて気に入らない」といっていたが、まったく同感である。ついでに書いておくと、気に入った本はすべて自分が訳したいと思う。ほかの人の訳では読みたくない。だって、人は自分と違うもん。
 ところで、ここで書いてみたいのは、そちらではなくて、前半部。「原書のほうがずっとおもしろい」というところ。これも当然。
 なぜかというと、読み速度が違う。たとえば英語の本を読む場合、日本語訳とくらべてどのくらい時間が長くかかるか。もちろん、その人の読書の速度によって異なってくるのだが、英語がよく読める人で(素人、つまり翻訳家などのプロではない場合)、日本語訳の三倍くらいかかっていると思う。逆にいえば、三倍くらいの時間で原書が読めれば、それはかなりのもの、ということになる。日本語訳なら一日で読める作品、原書は三日くらいで、というのは、拍手なのだ。
 その程度の英語の読解力のある人の場合、読むのに費やす時間は、感動の大きさと比例する。これは長年の経験からいって、まず間違いない。やっぱり、早く読むと、読み飛ばす部分がどうしても増えてくる。それにくらべて、三倍くらいかけて読むと、細かい部分までしっかり読み取っている。三倍の時間をかけて読むということは、普通、一文一文たんねんに理解していくということだから、そのぶん感動は大きいはずだ。
 そのうえ、おれは英語で読んでいるんだという一種の優越感のようなものが無意識のうちに、その感動に拍車をかける。そして、原書を読んで感動している自分に感動することも、たまにあったりする。
 だから、「原書はそんなにむつかしくないから、絶対に原書で読むのがお勧め! 原書のほうがずっとおもしろい」というのは、あたりまえなのだ。読める人はそうしなさい。
 翻訳家の場合、まず原書を読んで感動して、訳しながら感動する。そのときは、英語をたんねんに日本語に移し替えているわけだから、原書を読んだとき以上にゆっくり咀嚼しているわけで、この感動は大きい……と思われるかもしれないが、必ずしもそうでもなくて、たまに、あれ、あまり感動しないじゃんとか思ってしまうこともある。センチメンタルな感動というのは、じっくり腰を据えて相手にすると、意外と色あせてしまったりするものらしい。まあ、それはともかく、基本的には、翻訳家は普通の読者の数十倍の時間をかけて原文と格闘しているわけで、感動するときはする! そしてまた、一読したときにはそれほどでもなかった部分のすばらしさに気付いて感動することもよくある(そういう場合、ある意味、読解力がとぼしかったともいえる) いや、さらにゲラを読み直していて、新たな感動を覚えることさえある。
 それを強く感じたのは H. M. Van Den Brink というオランダ作家の作品、On the Water のゲラに目を通したときだ。これは短いけれど、数年に一冊といってもいいくらい完成度の高い作品で、本好きにはとても魅力的な本だと思う。今年中には扶桑社から刊行の運びになる。
 さて、ところがである、プロとして原書を読み続けていくと、あるときから逆転現象が起こるようになる。つまり、英語を日本語のように読めるようになってしまうのだ。そりゃ、いいことでしょうといわれそうだが、そうでもない。つまり、これは英語でも読み飛ばすことを覚えてしまうということなのだ。まあ、ストーリーだけで読ませる作品なら、これで十分なのだが、雰囲気や文体、あるいは細かい心理描写、心に触れるか触れないかという微妙な味わいなどが身上の作品の場合は、だめ。判断を誤ることが多い。
 その典型的な例が、デイヴィッド・アーモンドの『火を喰う者たち』だった。原書でざっと読んだときの印象は、なかなかいい作品だけど、『ヘヴンアイズ』のほうが上、だった。ところが訳し終えてみると、とんでもない……という感じだった。
 そろそろ、原書を読んだときの金原の評価があてにならなくなってきたということかもしれない。
 そういえば、デイヴィッド・アーモンド、来日します。今年の三月から一ヶ月ほど。東京でも、池袋のジュンク堂でサイン会が行われる予定。おそらく四月二日の六時か六時半から。ただし、確認情報ではないので、細かいことがわかったら、ここと、ぼくのHPで紹介します。


2.『シャバヌ』『フィード』『トロール・フェル』あとがき
 前回、どこかにいって見あたらなかった『シャバヌ』のあとがきを最初に。砂漠物が好きな方には、こたえられない作品。
 それから、『フィード』。これはヤングアダルト向けのSF。いくつもの賞をかっさらった、新感覚のヤングアダルト小説。あちこちではじけるイメージがすごいし、なにより、最後が切ない。今年はほかにもSFを訳すことになっていて、たとえば、パトリック・ケイヴの Sharp North もそう。そういえば、全米図書賞を受賞したナンシー・ファーマーの『砂漠の王国とクローンの少年』(小竹由加里訳、DHC)もSFだし、アレックス・シアラーの『スノードーム』(石田文子訳、求龍堂)もSFっぽい作品。どれもとてもおもしろい。今年はヤングアダルト向けのSFの当たり年になるかも。
 それから『トロール・フェル』。これは北欧を舞台にした、骨太の民話風ファンタジー。素朴で力強い。

   訳者あとがき(『シャバヌ』)
 もしこの本を手に取ったなら、そして、このあとがきを最初に読んでいるなら、まず最初にもどって、第一章を読んでみてほしい。これほど、読む人を遠くへ遠くへ突き飛ばし、心をゆさぶる冒頭というのは、まず、ない。
 砂ぼこりでかすむ、インド国境に近いパキスタンのチョリスターン砂漠の冬の情景が広がる。冬だというのに、真夏のように暑い。水飲み用の池は干上がりかけている。そこで水をくむのが十二歳の主人公シャバヌと、その姉のプーラン。やがて、すさまじい雨が降る。真ちゅうの足輪を鳴らしながら踊るラクダのグルバンド。そして場面は一転して、子どもを産んだばかりで毒蛇にかまれて倒れている母親ラクダ。シャバヌは必死に、母親も子どもも助けようとするのだが……
 ここには日本ではとても想像ができない砂漠の生活が広がっている。
 夜明けや日没の美しさ、夜の砂漠のまるで夢のような幻想的な世界、水をたたえたトバ、どこまでもどこまでも広がる砂丘、そしてラクダたちを育てる喜び、手放す悲しみ。
 翻訳をやっていて、ほんとうに楽しいのは、こういう日本とはまったく異なった世界のものを訳しているときだ。このラクダを育てて暮らしている遊牧民の娘シャバヌを主人公にした、砂漠の物語を訳していると、まるで勝ち気なシャバヌがすぐそばでラクダに水をやったり、ラクダを踊らせているような気になってしまう。それはおそらく、作者がここに描いている、放牧民の生活をよく知っているからなのだろう。それが、ほんとうに生き生きと鮮やかに伝わってくる。
 やがてシャバヌは大切なものを失い、そして様々な経験をへて、大きく成長していく。
 そう、翻訳をしていてもうひとつ、ほんとうに楽しいのは、同じ感動を伝えられているなと実感できるときだ。雨やトバの水がすべてを支配している所に生きている人々の苦しみと悲しみと喜び。この作品にはそれがあふれている。
 パキスタンの砂漠を舞台にしたイスラム教徒の少女の話というと、日本ではあまりなじみがないかもしれないが、ここに描かれているのは、世界中、どこにいてもおかしくない魅力的な女の子だ。
 ぜひ、シャバヌといっしょに、この砂漠の世界を旅してほしい。
 その旅先案内人として、少しだけ説明を。
 今ではイスラム教徒圏の国のことも毎日のようにニュースなどでが報じられているが、それは政治的なことばかりで、ふつうの敬けんなイスラム教徒の人たちの生活は伝えられていない。たとえば、本の中で父さんやキャラバンの男たちがたき火をかこんでお祝いをしているとき、水パイプは吸っても酒は一滴も飲まず、お茶ばかり飲んでいたことに気がついただろうか? そう、イスラム教ではお酒は禁止されているので、男たちは祝いの席でも飲まない。また、父親の権威は絶対で、シャバヌは姉さんの幸せや父さんの名誉を考えながら、自分の将来を考えなくてはならなくなる。
 そんな世界に住んでいる女の子をとても魅力的に描いたこの作品がニューベリーのオナーを受賞したのは、当然かもしれない。

 作者は一九八五年に、UPIという国際通信社の記者としてパキスタンに滞在していて、そのときに、チョリスターン砂漠の遊牧民を取材してこの本を書くヒントを得たらしい。作者は「チョリスターン砂漠の人々は物質的に豊かではありませんが、気高く、思いやりにあふれたとてもすばらしい人々で、いつもほこり高く、堂々としています」と書いている。またシャバヌの置かれたつらい状況に対しては、「欧米社会ではたいていの人は自由に思う通りに生きているように見えますが、わたしたちにもまだ同じような葛藤はたくさんあります。わたしたちだって、自分の意思に反したことを家族から期待されたり、影響力のある人々からこうしたほうがいいとか、ああしたほうがいいとか言われて、選択をせまられることがあるからです」と答えている。
 さて本の中でもパキスタンとインドのことがよく出てくるが、もともとはひとつの国だったものが、イスラム教とヒンドゥー教という宗教上の対立から分離独立したので、生活習慣や風習などはよく似ている。たとえば、本の中にも出てくるメヘンディーの儀式や結婚式で赤いチャドルをまとい、甘いミルクを飲むところなどはどちらの国でも同じ。

 『シャバヌ』には六年後のシャバヌの姿をえがいた続編がある。これも本編にもまして、激しく心をゆさぶる作品。
 近いうちに出版される予定ですので、どうぞ、お楽しみに。

 なお、最後になりましたが、この作品を世に送り出してくださったポプラ社の方々、とくに編集部の中西文紀子さん、いつも的確なアドバイスをくださった浦野由美子さん、原文とのつきあわせをしてくださった舩渡佳子さんに心からの感謝を!
  二〇〇四年十一月                金原瑞人
                          築地誠子

   訳者あとがき(『フィード』)
「とんでもない本が現れた……不気味で、優しく、熱い。息を呑むほどの傑作」(メルヴィン・バージェス)
 これは未来、ほとんどの人間がフィードと呼ばれるチップを頭に埋めこむようになった時代の物語だ。フィードというのは最初、百科事典や辞書などの情報が得られる「画期的な教育ツール」として売り出された。そして様々な分野に広がっていき、映画も音楽も楽しめるようになった。ショッピングモールを歩けば店の情報が流れてくるし、新しいファッション情報も流れてくる。なによりすごいのは、その人の欲しいものをなんでも知っていることだ。本人でさえ気づかないうちに、フィードのほうがちゃんとその人の欲しいものを知っているし、アドバイスもしてくれる。人が考えたり、感じたりしたことはすべて、色んなデータ会社によってデータとしてとりこまれるからだ。
 これはそんな未来世界に生きているタイタスとヴァイオレットのラブストーリー。といっても甘ったるいラブストーリーじゃない。グロテスクで残酷で切ないラブストーリーだ。
 月に遊びに行ったタイタスたちは、政府に不満を持つ老人の攻撃を受ける。老人に触れられた若者たちは、全員フィードが故障し入院させられる。数日のうちにフィードは元通りになるけど、ただヴァイオレットのフィードだけは劣化し続けていく。
 ヴァイオレットはタイタスにフィードに支配された世界の危険を訴える。いたるところで起こっている災害、公害、不正、暴動、テロの情報を次々に送る。そして必死に救いを求める。タイタスはヴァイオレットの気持ちにこたえることができるのか、ヴァイオレットを救うことができるのか。
 ふたりのつむぎあげる物語も強烈だけど、全編にちりばめられた未来のイメージも強烈だ。フィード、フィード、フィード、フィードにすべてが操作されて管理されている世界、フィードを使っている人々の体に現れ、次第に広がっていく「ただれ」、自然らしい自然がすべて死滅したあとの人工の自然……すべてがまぶしく、どぎつく、毒々しく、痛々しい。テリー・ギリアム監督の傑作『未来世紀ブラジル』にも負けない迫力に満ちている。
 作者のM・T・アンダーソンは元DJ。あちこちに顔をだす、リズミカルで迫力のある言葉言葉言葉の遊びや、あざやかなイメージを作り出す言葉の使い方は、並みの作家にはとても真似できない。
 肌がひりひりして、頭のなかがぴりぴりしてくるような刺激的な、ヤングアダルト向けの本が誕生した。
 本文中に「TM」という記号が出てくるが、これは商標(Trade Mark)……つまり、この世界では「学校」も空の「雲」も会社のものになっているということ。

 最後になりましたが、大奮闘の編集者遠山美智子さん、つきあわせをして下さった大谷真弓さん、細かい質問にていねいに答えて下さった作者のM・T・アンダーソンさんに心からの感謝を!
 二00五年一月二十一日               金原瑞人

   訳者あとがき(『トロール・フェル』)
 飢えた怪物のように、父親の遺体を飲みこんでいくまっ赤な炎。
「舞いあがる火の粉が、無数の精霊のようにきらめきながら、闇のなかに逃げていく」
 それをみつめる少年ペール。
燃えさかる火の後ろから、ぬっと現れる大男の黒い影。すぐ近くには木彫りのドラゴン。その向こうには勢いよく押しよせては、砂利をはげしくかきたてるまっ黒な海。暗い波、波、波。
 まるですべてが目の前に浮かんでくるかのようだ。
 舞台はスカンジナビア半島のどこかの海岸。時代は、バイキングが活躍していて、人々がドラゴンの船首をつけた船を造っていた時代。いまはもう伝説になってしまったトロールがあたりまえのようにやってきては、ふっと姿を消してしまう、そしてたまには黄金のゴブレットを置いていく、そんな時代。
 この『トロールフェル』は、そんな場所、そんな時代の物語だ。荒々しい冒険の時代、伝説の生き物がすぐそこに生きている時代、人々がこわごわと、おそるおそる、しかしのびのびと自由に生きていた時代の物語だ。
 作者のキャサリン・ラングリッシュは、こういった場面や風景を描くのがとてもうまくて、ときどき、訳すのを忘れて読みふけってしまうことがある。
 しかしもっとうまいのは、物語の作り方だろう。
 ペールは冷酷で乱暴な叔父に無理やり連れていかれ、水車小屋で働かされることになる。が、そこには叔父の双子の兄がいて、これがまたひどい男で、ペールはとことんこき使われてしまう。ペールはこのグリムソン兄弟にさんざんな目にあわされ、トロールにもいやな目にあわされる。
 いっぽう、少し離れたところにはヒルデという少女が家族といっしょに幸せな日々を過ごしている。が、父親がバイキングの船に乗って、危険きわまりない冒険の旅に出てしまう。ヒルデと母親は父親のことを心配しながら、またトロールたちのいたずらや襲撃を不安に思いながら暮らすことになる。
 このヒルダとペールが出会うところから、話がテンポよく進みだし、あとは坂を転がる岩のように勢いよく走っていく。
 はたしてペールは、強欲なふたりの叔父から逃げることができるのか。ヒルダの父親がトロールからうまくちょうだいした金のゴブレット(叔父たちもねらっている貴重な宝物)はどうなるのか。バイキングの船に乗って出かけていったまま、消息を絶ってしまったヒルダの父親はどうなったのか。
 作者のキャサリン・ラングリッシュは、何本もの糸をよりあわせるようにして、わくわく、ぞくぞくする楽しい物語を編んでいく。とくにこの『トロールフェル』は、まるで乱暴な叔父たちのように、読む人を話のなかに引きずりこんで閉じこめてしまう。いったんそこに入ってしまったら、最後にたどりつくまで、出てこられない。本を読んでいないときも、本の続きを、ついつい考えてしまう。
 もうひとつすばらしいのは、物語のなかに登場してくる怪物たちがまるでそこに生きているように描かれていることだろう。トロール、ニース、グラニー・グリーンティース、ラバー……ほんとうに、そばで息をしているかのようにリアルに感じられるから不思議だ。かわいいやつもいれば、ぞっとするほど不気味なやつもいるし、なんだかよくわからないやつもいる。まるでそのにおいまでがただよってきそうな気がする。この迫力はなんともいえない。
 伝説や昔話に出てくる連中が次々に、ぞろぞろと登場してくる。とくに最後のあたりで、卵の上半分をはずすようにトロール山のてっぺんが持ち上がったとき……これはすごい!
 北欧の香たっぷりの冒険ファンタジー、どうぞ、ゆっくり楽しんでください。

       二00四年十一月
                            金原瑞人


3.没になった原稿
 産経新聞の宝田さんから、「みんな本が好きだった」というコーナーにエッセイをという依頼があった。ぼく自身は、前にも書いたとおり、子どもの頃にはあまり本を読んでいないのだが、中高から一気に読み始めた。そこで、生まれて初めて最後まで読み通した原書を取り上げることにした……というわけで、今回の最初につながる。
 ところが、それを書き上げて送ったところ、宝田さんから、「金原さん、分量、多すぎ!」との連絡がきた。(11字×67行)にまとめたつもりだったのだが、いわれて確認してみると、(11字×102行)あるではないか。35行も多い! パソコンで打つとき、一頁を(11字×35行)に設定して、(二頁−3行)だなと思ったのだが、飲みすぎていたせいで、つい一頁余分に書いてしまったらしい。
 この頃、この手のミスがますます多い。そろそろ仕事やめたらと声のかかるゆえんである。
 というわけで、もったいないので、長すぎた元の原稿をここに載せておこう。興味のあるかたは、産経新聞に載ったエッセイもどうぞ。たぶん、今月下旬、掲載。こういう場合、金原はどこを削るかが、よくわかる。ある意味、非常にわかりやすい。

〈産経新聞・「みんな本が好きだった」〉
 翻訳をやっていると、学生時代、さぞ英語ができたのでしょうといわれることが多い。しかし医学部を目指していた田舎の理系の少年はそれほど英語はできなかった。中学校時代はともかく、高校時代は惨憺たるもので、三年間平均して五段階評価の三くらいだったと思う。それが紆余曲折のすえ、大学で英語を教え、翻訳までするようになるのだから、人生はわからない。ちなみに金原家の家訓は「人間万事塞翁が馬」である。
 ところで、翻訳家として、はて、はじめて最後まで読み切った原書はなんだったろうと、考えた。じつは中高の頃、ろくに読めもしないくせに、やたら原書を読もうとして、次々に挫折を重ねた覚えがある。『くまのプーさん』『不思議の国のアリス』『メアリー・ポピンズ』、どれも途中で放りだした。英訳本ならまだ読みやすいだろうと思って買った『星の王子様』もだめだった。正直にいってしまうと、原書をなんとか読めるようになってきたのは、大学三年生の頃、ユージン・オニールやバーナード・ショーやノエル・カワードの芝居が最初だった。
 ところが例外が一冊だけある。トルーマン・カポーティの『遠い声、遠い部屋』だ。ペンギンの原書に注釈書がついたものが、南雲堂から出ていた。おそらく岡山の丸善で買ったはずだ。なぜ買ったのかも覚えていないのだが、読み始めたとたん、一気にその世界に引きこまい、何日かかけて最後までいってしまった。カポーティのこの時期の文体はそれほど読みやすくはない。が、とにかくおもしろかった。というか、こんな世界があるのだという驚きにふりまわされているうちに読み終えてしまった。ずいぶんあとで読み返してみると、ろくに内容も覚えてなかったのだが、あちこちに現れる異様に濃い風景だけは頭にこびりついていた。
 考えてみると、そのときはちょうど、大学受験に失敗して、浪人が決定した頃で、家業の印刷を手伝いながら、東京の予備校に行く準備をしていた。ある意味、とても不安的な時期だった。そのときこの原書は強烈なインパクトをもって迫ってきた。もしかしたら、医学部を目指して二浪したあげく英文科に進んだのは、この本のせいかもしれない。
 当時、これと同じくらい鮮烈に胸に穴を開けてくれたのが、唐十郎の『煉夢術』だ。装幀は四谷シモン。いまも大切に持っている。岡山で、労演主催の新劇ばかり観ていた少年にとって、これもまたメガトン級の体験だった。このおかげで、東京にいってアングラ劇を見始めることになる。
 『遠い声、遠い部屋』と『煉夢術』、この二冊にこのとき出会うことによって、ぼくは道を踏み外したのかもしれない。いや、道から転げ落ちたのかもしれない。