あとがき大全(51回目)

金原瑞人

【児童文学評論】 20050.10.25日号

           
         
         
         
         
         
         
    
1 四川省成都から

 成都にある四川大学で教えている王さんと、たまにメールのやりとりをしているのだが、ちょっとおもしろい話題があったので。

(王さん)
この期間、二本の映画を見ました。一本は、ビデオでフランス映画「the taste of others」。フランスでは人気があったらしいです。フランス人のユーモアを感じさせてまあまあよかったです。もう一本は、香港の映画。上海作家の小説『長恨歌』を改編した同名映画。小道具や三十年代の上海の雰囲気がよかったけど、小説の方がうまかった気がしました。監督は関錦鵬(スタンリー・クワン)、梁家輝(レオン・カーファイ)と鄭秀文(サミー・チェン)が共演している。

(金原)
いつも不思議に思うんだけど、そういう英語名って(スタンリー、レオン、サミー)、どこからくるんだっけ? それが不思議でならないんだけど。

(王さん)
何か香港の一部の監督や俳優は、英語名があるようです。例えば、劉徳華の場合、Andy Lauでしょう。Lauは広東語の発音で、Andyは彼の英語名。関錦鵬は、KWAN, Kam-Pang Stanleyという標記で、Kwan,Kam-Pangは「関錦鵬」の広東語の発音。Stanleyは本人の英語名。
 勝手につけた英語名だと思いますよ。ちなみに香港の番組でも俳優を紹介する時に、Andy Lauで呼んでいます。
 ただし、前の「剣橋」(注1)の場合は、Kambridgeを訳す最初の中国人は沿海の人で、そこの剣の発音は現代中国語のJianと違って、Kamに近いから,その字を使ったわけ。 普通の中国人もそんなことがないです。香港はやはりイギリスの植民地だったから、中国人とイギリス人の半々かもね。
 だいたい、香港の人の英語がうまいもん。

(金原)
それって、おもしろいなあ。
まず、日本人の場合は、そういうことないもん。
Mizuhito Travis Kaneharaとか、いわないしね。


(王さん)
たぶん、それは英語がうまいかどうかと関係なく、英国の植民地が原因だったと思います。
 調べたところ、香港は英国の植民地になってからイギリス人の先生がやってきて、学生の中国語名を覚えられないから、皆にそれぞれの英語名をつけたそうです。香港人の身分証明書にも中国名+英語名が書いてあるそうです。香港の人々はやはり好きでつけたわけではないらしかったです。何か同じ英国の植民地なのに印度人は英語名がつけられるのが嫌がっていたと批判する人もいます。
 いま中国大陸で英語を勉強する人は、流行というか、格好よさから英語名をつける習慣がありますが、さすがに身分証明書には記すのがいやでしょう。私ならいやですね。

 というふうなやりとり。
 なるほど。アグネス・チャンの「アグネス」なんてどこからきたのか、ずっと不思議だったんだけど、これですっきりした。
 じつは、こういう習わしは日本でも昔からあって(もちろん、今でもたまにある)、とくにミッション系の学校の場合、ネイティヴには日本人の名前は覚えにくいので、最初の時間に自分の英語名を好きにつけさせていた。そういう経験は珍しいものではなく、ぼくもある教室では「トラヴィス」とか呼ばれていたし。
 ともあれ、固有名詞はむずかしい。

(注1)いつかこの「あとがき大全」で、外国の固有名詞に漢字をあてるとき、どうするかということについて書いたことがあった。そのとき、日本では中国語の漢字をそのまま使う場合もあれば、日本で独自にあてた漢字を使う場合もあると紹介して、いろんな例をあげたんだけど、そこで「剣橋(ケンブリッジ)」は日本での当て字と指摘したところ、王さんから、「いえ、それは中国が先です」という反論があった。


2 四川省成都から(2)
 王さんのねたをもうひとつ。こんなメールがきた。

(王さん)
ちょっと先生に聞きたいですが、「内供の自尊心は、妻帯と云ふやうな結果的な事実に左右される為には、余りにデリケイトに出来てゐたのである。」という文です。
 この文の意味が今一わからないです。内供の自尊心は……事実に左右されるかされないか。

(金原)
「内供の自尊心は、妻帯と云ふやうな結果的な事実に左右される為には、余りにデリケイトに出来てゐたのである。」
→あ、むつかしいなあ。
「内供の自尊心は、余りにデリケイトにできていたから、妻帯というような結果的な事実には左右されなかった」と書き換えると少し、わかりやすくなるかな。
His pride was too delicate to be bothered by ...
ただ、「結果的な事実」というのが説明むつかしいなあ。

(王さん)
 ええっ?ここの「為には」は原因を指していないんですか。例えば、「彼は病気の為に学校を休んだ」の「為に」と違いますか。でも、普通だったら、デリケートなら、そのような事実に左右されやすいんじゃないのかな。
 そうそう、この文の中訳を読んだら、「結果的な事実」を「具体的な事実」と訳しているけど、どうですか。

(金原)
 「結果的な事実」、うちの学部の江戸学の権威、田中優子さんにきいてみたら、「ちょっと待って」とのこと。なんか、むつかしいよ。


3 芥川の「鼻」

 じつは、王さんからのメールで気になって、青空文庫の「鼻」を読み返してみた。問題の箇所は以下の通り。

一度この弟子の代りをした中童子(ちゅうどうじ)が、嚏(くさめ)をした拍子に手がふるえて、鼻を粥(かゆ)の中へ落した話は、当時京都まで喧伝(けんでん)された。――けれどもこれは内供にとって、決して鼻を苦に病んだ重(おも)な理由ではない。内供は実にこの鼻によって傷つけられる自尊心のために苦しんだのである。
 池の尾の町の者は、こう云う鼻をしている禅智内供のために、内供の俗でない事を仕合せだと云った。あの鼻では誰も妻になる女があるまいと思ったからである。中にはまた、あの鼻だから出家(しゅっけ)したのだろうと批評する者さえあった。しかし内供は、自分が僧であるために、幾分でもこの鼻に煩(わずらわ)される事が少くなったと思っていない。内供の自尊心は、妻帯と云うような結果的な事実に左右されるためには、余りにデリケイトに出来ていたのである。そこで内供は、積極的にも消極的にも、この自尊心の毀損(きそん)を恢復(かいふく)しようと試みた。

 しかしそれにしても、この日本語のひどさ……

……内供は実にこの鼻によって傷つけられる自尊心のために苦しんだのである。
……内供の自尊心は、妻帯と云うような結果的な事実に左右されるためには、余りにデリケイトに出来ていたのである。そこで内供は、積極的にも消極的にも、この自尊心の毀損(きそん)を恢復(かいふく)しようと試みた。

 あちこちに翻訳文体、それも直訳文体が顔を出していて、作文の時間にこんな文章を書いたら、ぜったい先生にしかられるぞと思う。ついでにいうと、今の翻訳家がこんな文体で訳したら、それこそひんしゅく物だろう。それが、名作として教科書に載ったりするんだもん、なんだ、これ、といいたくなる。それを漱石が絶賛してたりして。なんだよ、それ。
 とまあ、ちょっと怒ってみたけど、じつはちっとも怒ってはなくて、まあ、そういうもんだろうなと思っているところ。おそらく、当時は、こういう直訳風の文がちょこちょこ顔をだすのが新鮮でおもしろかったんだと思う。ただ、それだけのこと。
 この頃、「美しい日本語」とか「正しい日本語」とかうるさいほど耳にするけれど、そんなものはない。「内供の自尊心は、妻帯と云うような結果的な事実に左右されるためには、余りにデリケイトに出来ていたのである。」という文は、現在の感覚で読めば、決して、美しくもなければ、正しくもない。しかし、当時は新鮮だったのだと思う。その意味では、「文学的」だったのだろう。
 作家であれ翻訳家であれ、文章で問われるべきは「正しい」とか「美しい」とかではなく、(その時代において、その状況において、読者にとって)「効果的であるかどうか」「本人の伝えたいものが伝わっているかどうか」だと思う。
 そしてまた、古びないものなどなにもない。あらゆるものは時間がたてば古びていく。しかし古びていっても、なお次の時代に通用する物もある。しかし、そういったものが「本当に価値がある」ものであるかどうかは定かでない。というか、そういう絶対的な価値などおそらくない。その時代、その社会、その人にとって価値を持つかどうか、究極的にはそれしかない。
 先日、井上ひさし作『天保十二年のシェイクスピア』(蜷川幸雄演出)を観て、いい芝居三本分くらいの衝撃を受けたのだが、この現代、こわもての劇作家シェイクスピアだって、故国イギリスで不遇をかこった時もあったわけで、当時はシェイクスピアなんて、下品で、冷酷で、がさつで、などと思われていた。だからあまり上演されなかったし、上演されるときでも、エンディングを変えて(たとえば、『リア王』をハッピーエンドに作り替えて)上演されていたくらいだ。また世界的にみた場合、シェイクスピアは英語圏、ドイツ、ロシア、日本などでは人気があるけど、フランスではそれほどでもない。
 文章もまた、料理の味と同じで、時代の好み、社会の好み、個人の好み、この三つに左右される、頼りないものなのだと思う。


4 あとがき
 今月もまた、あとがきを。『メジャーリーグ、メキシコへ行く』『ノアの箱船』『グッバイ、ホワイト・ホース』の三冊。

   訳者あとがき(『メジャーリーグ、メキシコへ行く』)


 担当の編集者から、こんな野球小説、いかがです、と手渡された、この本『ベラクスル・ブルース』(The Veracruz Blues)を一読して、思わずうなった。
 まずなにより、発想と着想と構想が素晴らしい。そして、そのために入念に丹念に集められた膨大な資料もまたすごい。さらにそれをもとに作り上げられた何人もの有名な選手のエピソードや物語がどれもおもしろいし、それらの物語がもつれあって紡ぎ上げる世界が最高に魅力的だ。そのうえ、そこに語り手である「著者」が登場人物として非常にうまくからんでくる。そしてぜいたくなことに、わきをしめる端役にもかなりの大物が抜擢されている。その中心がアーネスト・ヘミングウェイとベーブルース。
 そう、熱い、まさに熱い小説なのだ。その舞台がまたメキシコ!
 いったいどんな小説なのかというと……。

 これは一九四六年にメキシコリーグが行った、選手引き抜きの話だ。当時の関係者たちは、これを「メジャーリーグに対する殴りこみ」といっている。そしてわたし、フランク・ブリンガー・Jr.もその関係者のひとりだ。われわれは、ほかの何千という人間たちとともに、故ホルヘ・パスケルによって買い集められたコレクションの一部だった。

 つまりこの小説は、ホルヘ・パスケルによってメキシコリーグに呼ばれた選手たちが織りなす物語なのだ。このホルヘ・パスケル、作中で折に触れいろんな風に紹介されているが、一言でいってしまえ表の世界にも裏の世界にも通じた大金持ち。アメリカ政府に手を回し、アメリカの野球選手の兵役を免除させるくらいは朝飯前。このパスケルが大の野球好きで、また当時のメキシコが野球熱にうかされていたこともあり、多くの優秀な選手がメキシコに引き抜かれていった。とくに黒人選手が多い。アメリカよりも給料が数倍いいうえに、アメリカとちがって、まったく差別されることない夢のような扱いを受けることができたからだ。そう、第二次世界大戦直後のアメリカは、まだまだ人種差別が激しかった。黒人で初めてジャッキー・ロビンソンが大リーグデビューする前の話だ。
 パスケルは金に物を言わせて、メジャーリーグからもニグロリーグからも次々にいい選手を引き抜く。こうしてメキシコへやってきた選手たちを縦糸に、パスケルとフランク・ブリンガー・Jrを横糸に、なんとも野趣あふれる強烈な野球小説が織りあげられていく。
 もちろん、ここで熱く語られるのは黒人選手ばかりではない。たとえば、四六年にメキシコリーグでプレーしたため、五年間にわたる出場停止処分を受けたダニー・ガルデラは損害賠償訴訟を起こす。そしてこのおかげで、アメリカにも一九五〇年、ようやくフリーエイジェント制が導入されることになる。また彼は、アメリカ野球の歴史において、完全に人種差別をなくすきっかけを作ることにもなる。
 しかしこの本はアメリカの終戦直後の野球史でもなければ、メキシカンリーグを扱ったノンフィクションでもなければ、ダニー・ガルデラやほかの選手の伝記でもない。それらすべての興味深いところだけを集めて、巧みに調理したフィクションなのだ。
 選手たちのひとりひとりがまるで実際に語りかけてくるようなリアリティが、最初から最後までしっかりとゆるむことなく持続する。その物語から立ち上る熱い試合の数々、名プレー、珍プレー、喧嘩、乱闘、軍隊の乱入……汗のにおいまでがしてきそうだ。それは名脇役であり、また迷惑役でもあるヘミングウェイとベーブルースも同じ。
 そしてなにより、メキシコ! メキシコの大地、メキシコの風、メキシコの人々、ここにはメキシコがぎゅうぎゅうに詰まっている。本を顔に近づけるだけで、メキシコの香りが漂ってくる。
 とくに印象的なのは、タンピコという港町の球場だろう。

 まずは球場。正面の観客席なんて古い木造で、見るからに、一日で造って三十年はもたせよう、って感じだった。外野席はファウルポールのところで、いきなりぶち切れてる。理由は簡単。鉄道の線路が一本、外野の部分を横切ってるんだ。外野フェンスは線路の向こうにあった。

 一九四六年、ニグロリーグ、メキシコリーグ、ダニ・ガルデラ、メキシコ! ここには、フィクションとノンフィクションの熱くせめぎ合う強烈な時間と空間が凝縮されている。

 ひとつお断りをしておきたい。これは事実をもとに組み上げられたフィクションなのだが、取材や資料の収集は徹底していて、作者によれば、各選手の成績や記録、歴史的・球史的事実やその他のデータはほぼ百%正確とのこと。ただ、資料の違いや解釈の違いで、ごくまれに細かい数字や、登場人物の詳細が異なっている箇所がある。たまに作中人物が思い違いをしているという設定の部分もある(らしい)。
 ともあれ、六十年も前のアメリカやメキシコの野球界を舞台にした小説なので、参考資料が見つからなかった事件や人物もある。また、こちらの調べ間違い、勘違いも多いかと思う。固有名詞の発音も不安である。そういったミスにお気づきの方は、どうかご寛恕のうえ、ぜひ出版社までご連絡いただきたい。
 なお、最後になりましたが、この本を紹介してくださった元編集者の山村朋子さん、原稿をチェックしてくださった望月索さん(功労賞もの)、大奮闘の校閲の方、翻訳協力者の中力千詠子さん、原文とのつきあわせをしてくださった中村浩美さんと野沢佳織さん、そしてまた、質問にていねいに答えてくださった作者にも、心からの感謝を!
   二〇〇五年七月二十四日             金原瑞人


   訳者あとがき(『メジャーリーグ、メキシコへ行く)……こちらは本文中からの引用が多すぎると編集さんにしかられて、没になったやつなんだけど、金原としては、かなり気に入っているのでついでに。

 担当の編集者から、こんな野球小説、いかがです、と手渡された、この本『ベラクスル・ブルース』(The Veracruz Blues)を一読して、思わずうなった。まずなにより、発想と着想が素晴らしい。そして、膨大な資料を丹念にあさったうえに作り上げられたいくつもの物語がどれもおもしろいし、それらの物語がもつれあって紡ぎ上げる世界が最高に魅力的だ。そこに語り手である「著者」が非常にうまくからんでくる。わきをしめる端役にもかなりの大物が抜擢されている。その中心がアーネスト・ヘミングウェイとベーブルース。
 さて、どんな内容かというと……。

 これは一九四六年にメキシコリーグが行った、選手引き抜きの話だ。当時の関係者たちは、これを「メジャーリーグに対する殴りこみ」といっている。そしてわたし、フランク・ブリンガー・Jr.もその関係者のひとりだ。われわれは、ほかの何千という人間たちとともに、故ホルヘ・パスケルによって買い集められたコレクションの一部だった。ホルヘ・パスケルという男は、いったい何者だったのだろう? (a)メフィストフェレス(悪魔)(b)ギャッツビー(みえっぱりな成り金)(c) バーナム(先見の明のある興業師)(d)自分勝手な戦争成り金(E)身分の低かったスポーツ選手の救世主(f)公民権運動の先駆者(g)恋愛ごっこの好きな殺人犯(h)野球の殿堂に入るべき予言者(i)これらすべて(j)どれでもない。わたしは四十八年ものあいだ、この問題と格闘してきたが結論は出ない。あとは読者のみなさんにおまかせすることにしよう。

 そう、この本の内容はこれにつきる。それに少しだけ色をつけてみると、こんなふうになるだろうか。

当時、もしだれかが、ガルデラは稀有の精神病……感応精神病……にかかっているといったら、わたしは納得しただろう。だが野球の歴史に大革命を起こすべく生まれてきた男だといったなら、こいつは頭がいかれていると思ったにちがいない。しかし、ダニー・ガルデラは本当に革命をもたらした。野球の歴史において、完全に人種差別をなくすきっかけとなったのだ。舞台は一九四六年のメキシコ。ジャッキー・ロビンスンがブルックリンでデビューを果たす一年前、ビッグリーグの名ばかりの黒人差別撤回が、真の平等へ変革をとげる十年前のことだ。

 それともうひとつ色をつけておくと、このガルデラのおかげでアメリカにも、一九五〇年、ようやくフリーエイジェント制が導入されることになる。
 しかしこの本はアメリカの戦後直後の野球史でもなければ、メキシカンリーグを扱ったノンフィクションでもなければ、ダニー・ガルデラの伝記でもない。それらすべての興味深いところだけを集めて、巧みに調理したフィクションなのだ。
 選手たちのひとりひとりがまるで実際に語りかけてくるようなリアリティが、最初から最後までしっかりとゆるむことなく持続する。その物語から立ち上る熱い試合の数々、名プレー、珍プレー、喧嘩、乱闘、軍隊の乱入……汗のにおいまでがしてきそうだ。それは名脇役であり、また迷惑役でもあるヘミングウェイとベーブルースも同じ。そしてなにより、メキシコ! メキシコの大地、メキシコの風、メキシコの人々、ここにはメキシコがぎゅうぎゅうに詰まっている。本を顔に近づけるだけで、メキシコの香りが漂ってくる。
 とくに印象的なのは、タンピコという港町の球場だろう。

 まずは球場。正面の観客席なんて古い木造で、見るからに、一日で造って三十年はもたせよう、って感じだった。外野席はファウルポールのところで、いきなりぶち切れてる。理由は簡単。鉄道の線路が一本、外野の部分を横切ってるんだ。外野フェンスは線路の向こうにあった。

 一九四六年、ニグロリーグ、メキシコリーグ、ダニ・ガルデラ、メキシコ! ここには、フィクションとノンフィクションの熱くせめぎ合う強烈な瞬間が凝縮されている。

 ひとつお断りをしておきたい。これは作者も最初に書いている通り、事実をもとに組み上げられたフィクションなのだが、どこまでが事実でどこからがフィクションなのか、あいまいな部分がかなり多い。資料と付き合わせてみると、細かい数字の違いなどが目につくし、登場人物の詳細も異なっている場合がある。また、六十年も前のアメリカやメキシコの野球界を舞台にした小説なので、参考資料が見つからなかった事件や人物もある。また、こちらの調べ間違い、勘違いも多いかと思う。固有名詞の発音も不安である。そういったミスにお気づきの方は、どうかご寛恕のうえ、ぜひ出版社までご連絡いただきたい。
 なお、最後になりましたが、この本を紹介してくださった元編集者の山村朋子さん、原稿をチェックしてくださった望月索さん、翻訳協力者の中力千詠子さん、原文とのつきあわせをしてくださった中村浩美さんと野沢佳織さんに、心からの感謝を!
   二〇〇五年七月二十四日          金原瑞人


   訳者あとがき(『ノアの箱船』)

 『ノアの箱船』はタイトル通り、旧約聖書に出てくる有名なエピソードを下敷きにしている。登場人物は、ノアとその妻。そしてノアが五百歳にしてなした三人の息子、セム、ハム、ヤフェト。そしてその妻たち、ベラ、イリヤ、ミルン。これら八人の織りなす人間模様がこの作品の中心になっている。この本を読んだとき、作者のデイヴィッド・メイン、途方もない想像力の持ち主だなと思った。
 神の言葉を聞いてからのノア一家の箱船作り、動物集め、四十日間にわたる大洪水、雨がやんでから陸が見えるまでの日々も、聖書にすればほんの数ページのエピソードだ。作者はこれを数百ページの非常にリアルな小説に仕立て上げた。もちろん、ノアが巨人たちから材木やピッチをゆずってもらう逸話や、ベラが父親に売られてやがてセムの妻となり再び父親に会って動物をもらいうける逸話や、ハトがオリーヴの葉をくわえてもどる逸話などは、きっちり織りこまれているが、その一方、ノア一家の生活が事細かく、まるで手に取るように、目に浮かぶように、におってくるかのように描かれていく。食事、仕事、動物の世話、糞尿の始末、降りしきる雨、そばを流れていく人や動物の死体、そしてもちろんセックスも。
 しかしそれだけではない、八人の心理も細かく描かれている。それもおもしろいことに、この小説のなかのいくつかの章は個性豊かな妻や息子や娘たちが語る形になっている、つまりそれぞれの一人称になっているのだが、ノアの章だけは三人称で書かれている。
 この作品から浮かび上がってくるのは、ファンタスティックな状況で繰り広げられる、いかにも生臭い人間の生活であり、人間の愚かさ、おもしろさ、悲しさ、切なさであり、信じられないくらい敬虔な、もしかしたらただ〈幻〉を見ているだけかもしれないノアと、彼をめぐる家族の成長である。この大事件を乗り切ることによって、だれもがなんらかの変化、成長をとげる。それはノア自身も例外ではない。
 ともあれ、軽い小説ばかりがはびこる今日この頃だが、小説を読んだぞという、ずっしりした読後感を味わえることはまちがいない。
 なお、原題の The Preservationist は「保存、保護する人」という意味。また、本文中の聖書からの引用はすべて「新共同訳」から。

 最後になりましたが、編集工房リテラルリンクのみなさん、翻訳協力者の段木ちひろさん、原文とのつきあわせをしてくださった鈴木由美さんに心からの感謝を!
 二〇〇五年九月五日                金原瑞人


   訳者あとがき(『グッバイ・ホワイトホース』)

 サニーはレイナにとって、この世で一番美しい。がりがりにやせてしまったいまでも、やっぱりそう。レイナはサニーの寝顔をみつめながら思う。この人はわたしのもの。サニーの腕は白く、毛もうっすらと生えているだけでなめらかだ。腕のあちこちに刺青が入っている……
「タバコない?」レイナがそばを通りかかった人に声をかけると、一本落としてくれた。その一本を、レイナとサニーはふたりで吸った。
 
 主人公のレイナは十六歳。赤ん坊の頃に死んでしまった弟のことで心に大きな傷を負っている。母親はドラッグ漬けで、次々にいろんな男と関係を持つが、どの男も「ゲス野郎ばかりで、あとには子どもを残していった……七人もいるのに、ママに望まれて生まれた子どもはひとりもいない……レイモンドなんて、二十回ぶっ続けでぶん殴られたこともある……シーラの目の前でヤクをやって、フランケンシュタインそっくりに血管が浮き出すほど絶叫し続けたこともある」
 レイナはそんな家から飛び出し、ドラッグから抜け出せないボーイフレンド、ソニーといっしょになり、半路上生活を送っている。ただ、文章を書くのは好きだった。
 そんなレイナの作文を読んで、歩み寄ってくれたのがマーガレットという教師。マーガレットの教えている高校は問題児ばかりが集まっていて、社会からもろくに相手にされていない。校舎のいたるところにアリが群がって困っているというのに、アリ駆除の予算もおりない。マーガレットは教育長にこんな手紙を書きたいと思うことがある。

 覚えていらっしゃいますか? エマニュエル・ライト補習学校のマーガレット・ジョンソンです。国旗を掲げた公衆便所のような学校の、といえば、おわかりになるでしょうか?
 アリのことはもう心配御無用ですので、その旨、ご連絡差し上げた次第です。解決いたしました。水攻めにあい、全滅したのです。すさまじいばかりの雨漏りのおかげです。このままでは、卒業必修単位に「水泳」を追加するしかなさそうです。

 ときにユーモラスに、ときに辛辣に社会や自分をみつめるマーガレットも心に大きな傷を負っている。子どもがほしくてたまらず、何度も何度も病院で検査を重ね、いろんなことに耐えてきたにもかかわらず、希望と絶望の繰り返しだったのだ。「チアリーダーの女の子が、トイレで赤ん坊を産み落として、フットボールの競技場に戻っていく。どうして、取り替えっこできないのかしら?」と思ってしまう。
 この作品は、麻薬、ティーンエイジャーの売春、妊娠、幼児虐待など、現代アメリカで落ちこぼれていく若者たちと、それを取り巻く劣悪な環境や困難な問題をじつにリアルにとらえている。しかしそれだけではない。というか、それはただの背景であって、中心はお互いに傷を抱える主人公レイナと教師マーガレットの物語だ。ふたりは安易なドラマのように、なんのわだかまりもなく理解し合うようになるわけではない。その前には、おたがいの厳しい葛藤と、激しい自分との戦いが続く。そしてそれを描いていく、文体のすばらしさ。それに、レイナの書く作文。レイナの文章はときにストレートで強烈で、ときに詩的でやさしく、一語一語が鮮やかに鋭く心に突き刺さってくる。
「残酷で、心の震える、ときにショッキングだが、美しい作品」("ブックリスト")という書評そのままだと思う。
 これを訳しながら、クリス・クラッチャーの『ホエール・トーク』(青山出版社)を訳したときの感動がそのままよみがえってきた。

 なお、最後になりましたが、編集の川端博さん、原文とのつきあわせをしてくださった野沢香織さん、鈴木由美さんに心からの感謝を!

   二〇〇五年九月二十八日
                          金原瑞人


5 連絡
 前回、お伝えしたように、八重洲ブックセンターの上のホールで、毎月末、金原の企画で、新しい古典芸能のシリーズをやっています。今月は26日、6時半からです。どうぞ、寄ってみてください。
 また来月は11月23日の午後。『忠臣蔵』の解説と義太夫を楽しんで、そのあとで、〈橋本治+岡田嘉夫〉の対談があります。こうご期待!
 「小説すばる」でエッセイの連載を開始。今月号から。
 「野生時代」の今月号から三ヶ月、アメリカの短編をひとつずつ掲載(訳しているのは、金原ではなく、短編の勉強会の面々。ただし、今月号の紹介風エッセイは金原)。どの短編もすばらしいので、ぜひ読んでみてください。