あとがき大全(66)
金原瑞人


           
         
         
         
         
         
         
    
1.睡眠時間
 ここ数年、家で仕事をしていると深夜あたりから飲み始め、午前3時か3時半、酔っぱらってきたところで仕事もお酒もやめて寝る、というパターンが定着していた。そして早いときは7時半くらい、遅いときは9時半くらいに起床。寝覚めも目覚めもかなりよくて、ごく軽くアルコールの残った状態ながら、すっきりした起床だった。夢をみることは(夢を覚えていることは)ほとんどなく、たぶん熟睡なのだろう。
 ところが、この頃、睡眠時間が1時間増えてしまった。そのうえ、ちょっと疲れたなと思うと、35分寝て仕事にもどるというのがパターンだったのに、この頃は45分になってしまったし、ときどき、タイマーを止めてまた寝てしまうということも増えてきた。
 4月から引き受けた学生部長のせいかもしれない。夏休み以外の講演などはほとんど断っているものの、大学の関係で時間を取られることが多く、翻訳その他にしわよせがきているのも確かで、この「あとがき大全」がほぼ隔月になってしまったのも、その表れのひとつかな。
 しかし市ヶ谷の学生部長にくらべれば、多摩の学生部長などずいぶん楽なのだ。仕事量だけとっても、警視総監と足軽くらいの差がある。その足軽でさえ、こんなに大変なのだ。そのうえ精神的な負担もかなり違う。市ヶ谷の学生部長だけにはなりたくないものである。職務手当をいくら積まれても遠慮したい。
 と、そんなわけで、この「あとがき大全」、遅れ遅れですいません……という言い訳でした。

2.『アイスマーク』『ミッドナイターズ1』『クレイ』『国のない男』
 このところ立て続けに4冊出た。そのうち3冊はファンタジーかファンタスティックな物語で、変わり種がカート・ヴォネガットの遺作『国のない男』。
 NHK出版社の編集者から、これを訳しませんかという話がきたときには、まず、「なんでNHK出版社が?」という疑問と、「なぜ金原に?」という疑問が。たずねてみると、「NHK出版社では、かなり広いジャンルの本を出していて、ヴォネガットというのも、それほどはずれた選択ではない」「金原がどこかで、ヴォネガットのことを書いていたので、声をかけてみた」とのご返事あり。
 そうそう、そうなのだ。大学3年生のとき、カート・ヴォネガットで卒論を書こうと思って……という話を『翻訳家じゃなくてカレー屋になるはずだった』(牧野出版)というエッセイ集に書いたのだった(というか、そのまえにこの「大全」に書いたんだけど)
 というわけで、ヴォネガットの大ファンである金原としては断る理由はなにもなく、喜んで訳させていただいたという次第。これはぜひ自分の文体で訳したかったので、共訳も下訳もなし。100%金原なので、ほかの共訳本などと読みくらべて、文体の違いなどと分析するのもまた楽しいかと。
 というわけで、今回は4冊のあとがきを並べてみました。

   訳者あとがき(『アイスマーク』)

 『もののけ姫』に勝るとも劣らない新しいファンタジー・ヒロインが登場した。
 四方を敵にかこまれた辺境の国アイスマークの王女、十四歳のシリンである。
 物語は、小さな国に大帝国軍の侵略のしらせが入るところからはじまる。父王が南方で大帝国軍の侵略を食い止めている間に、シリンは首都に住む人々を従えて北へ避難する。やがて父は戦死。敵が厳しい雪に阻まれて進めない間に、シリンは人々を救うため、魔法使いの少年オスカンとふたりで北へむけて出発する。それまで敵同士であったウェアウルフ族やヴァンパイア族、さらには最北の巨大なユキヒョウたちと同盟を結ぶためだ。
 ヒロインのシリンは気が強く、生意気で、気位も高く、勇猛な戦士だが、案外と小心でシャイ。相棒の魔術師オスカンも一見頼りなさそうで、シリンにふりまわされているようでいて、案外と頑固。どうやら人外の血を引くらしく、気性の激しい一面も見えかくれする。シリンが同盟を結ぼうと画策するウェアウルフやヴァンパイア、ユキヒョウたちの個性もさまざまで、同盟にいたる経緯もそれぞれに楽しませてくれる。
 とにかく、魔法使い、ウェアウルフ、ヴァンパイア、ユキヒョウ、さらにはゾンビまでという、多彩な顔ぶれ、息をするのも惜しいようなスピード感と緊迫感、ダイナミックですさまじい戦闘場面、ヒーローとヒロインの微妙な関係など、おなじみの要素が大盤振る舞いなのだ。いいとこ取りして、おなかがいっぱいになりそうだが、まさにファンタジーの醍醐味、ここにあり。
 作品の舞台は架空の世界だが、ヨーロッパの歴史や神話を意識した描写が随所に見られ、作者はそこに遊びとひねりを加えて、独自の世界をつむぎだしている。たとえば、アイスマークには、キリスト教伝播以前のケルト文化やゲルマン文化を思わせる文化が根づいているし、ポリポントゥス帝国はあきらかに古代ローマ帝国をモデルにしていて、カエサルの有名な言葉も出てくる。また、ヒポリタ族のモデルは、ギリシア神話の女戦士の部族であるアマゾン族だし、ほかにもエレムネストラ、オレメムノンといった名もギリシア神話に登場する名をアレンジしたもの。そのへんも驚くほどうまくできている。
 さて、第二巻はいきなり、二十年後に飛ぶ。シリンとオスカンをはじめ、本書の主要キャラクターは健在。新キャラクターも続々と登場し、そのうちのひとりが、ふたたび高まる戦乱の危機のなか、今度は南の国へ旅立つ。

 最後に、数々の貴重なアドバイスをくださったリテラルリンクのみなさんに心からの感謝を。
  二〇〇七年二月二十三日      金原瑞人・中村浩美


   訳者あとがき(『ミッドナイターズ1』)

 もうずいぶんファンタジーを訳してきたが、ふと立ち止まって思うのは、ファンタジーって、ほとんどがどこかに「幼さ」を持っていて、なんとなく「けなげ」で、全体的に「感動的」で、そこがまたいいんだけど、そのぶん、なんとなく物足りないかも、ということだ。
 「ナルニア国シリーズ」にしても『指輪物語』にしてもにしても『ハリー・ポッター』にしても『ダレン・シャン』にしても、ある意味、児童文学の王道みたいなところがあって、見方を変えれば、ちょっと昔までのいい子の活躍する冒険物語とそう違わない部分が目についたりする。だから、『ミッドナイターズ1』を読んだときは、ちょっと驚きだったし、とてもうれしかった。だって、かっこいいんだもん。
 たとえば、ジェシカが初めて経験するPM12時00分。

 雨に濡れて光るアスファルトの上で、何百万というダイヤモンドが、空中にびっしり浮かんでいた。ひと粒ひと粒の感覚は十センチもない。そんな光景が、見わたすかぎり通りのずっと向こうまで、空のずっと上まで、どこまでも続いている。涙の滴くらいの小さな青い宝石が、無数に浮かんでいるのだ。

 そして背景には青い光、そして空を半分埋めつくすかのような巨大な黒い月。
 この鳥肌が立つほど美しい世界のなかに突如、出現する不気味な闇の生き物たち。そしてこの一時間限りの異界をのぞくことを許された若者たち(登場人物表参照)。
 スコット・ウェスターフェルドの『ミッドナイターズ1』(Midnighters 1)は、その発想といい、イメージといい、物語の展開といい、いままでのファンタジーとは、ちょっとちがう。そして雰囲気はまるっきりちがう。おそらく主人公たちが高校生ということもあるんだろうけど、すごく大人っぽいし、シャープだ。いままでのファンタジーとちがって、「幼さ」や「けなげさ」のかわりに、一種「危うくて、危ない」感触が強い。ただ、「感動的」な部分はしっかり残っている。ファンタジーの「新しい波」かなとか思ってしまう。
 第二巻は、この危ない感じがさらに強くなって、闇の生き物たちのグロテスクさもレベルアップする。どうぞ、期待してほしい。

 なお、最後になりましたが、大活躍のリテラルリンクのみなさん、原文との中田香さんに心からの感謝を!
     二〇〇七年六月十四日           金原瑞人


   訳者あとがき(『クレイ』)

 『肩胛骨は翼のなごり』『闇の底のシルキー』『秘密の心臓』『ヘヴンアイズ』『火を食う者たち』『星を数えて』、そして『クレイ』。
 デイヴィッド・アーモンドの新作を読むたびに、この人って、いつもフルスイングだなと思う。力をためて、引きつけて、ぐっと腰を入れて、ゆうゆうと球をはじき返す。しかしバットと球が触れあう瞬間の衝撃はすごい。スモールサイズのビッグバンくらいだろう……と、漠然とした印象を書いてきて、この「球」って、なんだろうと気になってきた。「テーマ」だろうか、とも思ったが、「読者」かな、という気もする。
 アーモンドの作品はけっして派手ではないし、奇をてらったところもない。しかし序盤戦で、読者の腕をおだやかにつかむ握力の強さは並大抵ではない。それは『肩胛骨』や『へヴィンアイズ』のような幻想的な作品でも、『火を食う者たち』や『星を数えて』のようなリアリスティックな作品でも変わらない。そして後半、物語が大きく動いて思いがけない方向に進みはじめると、読者はいやおうなくその世界のまん中に連れこられる。
 それにしてもアーモンドの作品は、はずれがない。次こそ、期待を裏切られるんじゃないか、という不安を毎回、軽々と打ち砕いてくれる。
 しかしここ数年の作品をじっくりながめると、アーモンドの描く世界が濃く、重く、パワフルになってきたような感じがする。作品のなかからあふれてくる力が次第に強くなってきている。とくにこの『クレイ』という作品では、それが痛いほど感じられる。
 近所のクレイジー・メアリーの家にスティーヴンという少年がやってくる。主人公のデイヴィッドと親友のジョーディは、敵対する少年たちのリーダー、モウルディに手こずっていた。なにしろモウルディは三歳も年上で、でかくて、大人と同じように酒を飲み、乱暴というより凶暴という言葉がふさわしい相手だ。
 スティーヴンは粘土細工がとてもうまくて、いろんな動物や人間を作っていくだけでなく、命を吹きこんで動かすこともできるという。デイヴィッドはスティーヴンと付き合うようになり、やがてその暗い世界に引きずりこまれていく。それと同時に、スティーヴンの暗い過去が明らかになっていく。
 これまでのアーモンドの作品に控えめに表れていた、死と狂気と暴力がぐっと浮かびあがってきた。とくにデイヴィッドがスティーヴンの作った粘土男に灰をかけて、池の水をかけ、鼻に息をふきこむあたりからがすごい。まるで足元の地面が一気に崩れたかのように、デイヴィッドは暗闇のなかに転げ落ちていく。
 この凶暴な物語は、いかにもアーモンドらしい優しさでひとつの終わりを迎える。
 最後の最後で、クレイジー・メアリーが「あんたはいい子だ!」というところは、何度読んでも胸が詰まる。

 クレイジーはくずおれるようにひざまずき、しみがついた布と、ほこりのついたセロテープをつまみあげると、高く掲げた。そして目を閉じ、布とセロテープを舌の上にのせ、飲みこんだ。両手をしっかり合わせ、小刻みに体を揺すっている。やがて目を開けると、クレイジーはひざまずいたまま、空を見あげた。
「見える! ほら、ごらん!」

 ここを読みながら、ふと『ヘヴンアイズ』のエンディングを思い出した。

 ふたりはどうしてお互いのことがわかったんだろう。何度も何度もジャニュアリーがみた夢のせいだろうか。冬の嵐の番の記憶のせいだろうか。愛情のせいかもしれない。ふたりはみつめあった。
「来てくれると思ってた」ジャニュアリーがいった。
 その人は両手を自分の頬にあて、ジャニュアリーをみつめた。
「ずっと待ってた」

 このふたつの情景は、そのまま『火を食う者たち』のエンディング近くの海辺の情景につながっていく。死と狂気と暴力の物語を、これほどおだやかな情景でしめくくることのできる作家はとてもまれだ。ここには心からの祈りが美しく響いている。

 最後になりましたが、大奮闘の松尾亜紀子さん、翻訳協力者の豊倉省子さん、原文とのつきあわせをしてくださった段木ちひろさん、そして、細かい質問にていねいに答えてくださったアーモンドさんに心からの感謝を!
    二〇〇七年四月二十三日
                                  金原瑞人


   訳者あとがき(『国のない男』)

 二十世紀後半のアメリカを代表する作家カート・ヴォネガットの遺作!
 となれば、あとがきも、それ相応に、ヴォネガットの文学的意味であるとか、ヴォネガットの作品の歴史的価値であるとか、ヴォネガットの作品世界の斬新さであるとか、あるいは往年の読者としての訳者の思い入れであるとか、そういったところから始めるのが妥当かもしれない。が、その手のありきたりで権威的な紹介を、ヴォネガットが喜ぶはずがない。
 というわけで、『ハイスクール・USA』(長谷川町蔵・山崎まどか)という、アメリカ学園映画の紹介本の引用から始めようと思う。

 思春期とイノセンスの喪失について描いた、アメリカ文学者といえばサリンジャー……なのだが、学園映画ではサリンジャーよりも圧倒的に、カート・ヴォネガット、『ライ麦畑』より『スローターハウス5』への支持が強い。
 『バーシティ・ブルース』でジェームズ・ヴァン・ピークが控えのベンチで読んでるのは『スローターハウス5』(中略)『待ちきれなくて』ではラスト、イーサン・エンブリーは大学でヴォネガットの講座を受けるために(中略)『バック・トゥ・スクール』に至っては(中略)ヴォネガットその人が登場するのである!

 これを読んで、なるほどなと思った。アメリカの高校生にとっては、やっぱり、ヴォネガットのほうがずっとおもしろいのだ。あのユニークな発想とスラプスティックな展開の作品にこめられた強烈なアイロニー、そしてその影に隠された温かいユーモア。人間への愛と憎悪の葛藤が、(「ピタゴラ装置」にも似た)ヴォネガット装置を通って現れた作品の数々は、若い感性にとって常に新鮮なのだ。
 そんなヴォネガットの晩年のエッセイを集めたのがこれ。まさにヴォネガット。どこを切っても、どこを取っても、どこを読んでも、ヴォネガット。100%、ヴォネガットだ。
 下手な紹介は無用。映画の予告編風に、抜粋でもってその魅力を伝えるとしよう。
 たとえば、こんな感じ。まずは徹底的なアメリカ批判。

いま、この地球上で最も大きな権力を持っているのは、ブッシュ@陰毛@、ディック@男根@(ディック・チェイニー)、コロン@尻@(コリン・パウェル)の三人だ。何がいやだといって、こんな世界で生きることほどいやなことはない。

アメリカが人間的で理性的になる可能性はまったくない。なぜなら、権力がわれわれを堕落させているからだ。そして絶対的な権力が絶対的にわれわれを堕落させているからだ。人間というのは、権力という酒で狂ってしまったチンパンジーなのだ。

 アメリカにおいて最も許し難い反逆は、「アメリカ人は愛されていない」という言葉を口にすることだ。アメリカ人がどこにいようと、そこで何をしていようと、それをいってはいけない。

うちの大統領はクリスチャンだって? アドルフ・ヒトラーもそうだった。

 そして、現代文明批判。

「進化」なんてくそくらえ、というのがわたしの意見だ。人間というのは、何かの間違いなのだ。われわれは、このすばらしい銀河系で唯一の生命あふれる惑星をぼろぼろにしてしまった。

じつは、だれも認めようとしないが、われわれは全員、化石燃料中毒なのだ。そして、ドラッグを絶たれる寸前の中毒患者と同じように、現在、われわれの指導者たちは暴力的犯罪を犯している。それはわれわれが頼っている、なけなしのドラッグを手に入れるためなのだ。

 それから独特の文学観、芸術観、そして人間観。

偉大な文学作品はすべて──『モウビィ・ディック』『ハックルベリ・フィン』『武器よさらば』『緋文字』『赤い武勲章』『イリアス』『オデュッセイア』『罪と罰』『聖書』「軽騎兵旅団の突撃の詩 」(アルフレッド・テニスン)──人間であるということが、いかに愚かなことであるかについて書かれている。(だれかにそういってもらうと、心からほっとするはずだ)

 わたしがいいたかったのは、シェイクスピアは物語作りの下手さ加減に関しては、アラパホ族とたいして変わらないということだ。
 それでもわれわれが『ハムレット』を傑作と考えるのにはひとつの理由がある。それは、シェイクスピアが真実を語っているということだ。

 そしてまた、音楽への愛。

 外国人がわれわれを愛してくれているのはジャズのおかげだ。外国人がわれわれを憎むのは、われわれがいわゆる自由と正義を大切にしているからではない。われわれが憎まれているのは、われわれの傲慢さゆえなのだ。

 政府や企業やメディアや、宗教団体や慈善団体などが、どれほど堕落し、貪欲で、残酷なものになろうと、音楽はいつも素晴らしい。
 もしわたしが死んだら、墓碑銘はこう刻んでほしい。
「彼にとって、神が存在することの証明は音楽ひとつで十分であった。」

 ここにあげた抜粋、これだけで十分に、いや十二分にこの本の魅力と危険性は伝わると思う。少しでも心に触れるところのあった人は、ぜひ、じっくり本文を読んでほしい。
 ヴォネガットが死んだとき、ヴォネガットのファンや、ヴォネガットに読みふけったことのある人たちは、「ひとつの時代が終わった」と感じたかもしれない。しかし、そうではない。今こそ、あらためてヴォネガットが読まれるべき時なのではないだろうか。
 だから、とくに若い人々にヴォネガットを読んでほしいと思う。このエッセイ集だけでなく、ほかの多くの作品も。

 最後になりましたが、この本の翻訳を勧めてくださって、さらに訳文についてていねいなアドバイスをしてくださった編集者の松島倫明さん、原文とのつきあわせをしてくださった西田佳子さん、野沢佳織さん、作者に代わっていろいろな質問に答えてくださったジョージ・ハンさんに心からの感謝を!

 そうだ、最後の最後に、'God Bless you, Mr. Kurt Vonnegut!'

二〇〇七年六月二十四日
金原瑞人