気まぐれ図書室 第2回

2001年11月   西村醇子
──キャッツ アンド ドッグズ──

           
         
         
         
         
         
         
    
 英語でなにが厄介かというと、さまざまな慣用表現があることでしょう。
まったく知らない単語にぶつかり、文脈から推測できないときは、辞書を引こうと思うものです。ところが、ひとつひとつの単語がやさしいと、組み合わせが成句になっていることに気づきにくいのです。じつは、今回の見出しがまさにそうでした。たまたま雨が降っている日にこれを書きはじめたので、犬と猫の話にはぴったりだと、軽く考えました。「イット レインズ ライク キャッツ アンド ドッグズ」といえば、土砂降りを表す慣用表現なので、それを踏まえた言葉遊びも意識していました。でも、書く前に念のために辞書を見たら(!)、なんと「キャッツ アンド ドッグズ」には「はんぱ商品、売れ残り品」という意味があるではありませんか。言わんこっちゃないとは、このことです。  もちろん、以下で取り上げる本はけっして「半端な売れ残り」ではありません。先月号の児童文学評論でも取り上げられていましたが、『のら犬ウィリー』(みはらいずみ訳、あすなろ書房、二〇〇一年十月刊)は、人に教えたくなる絵本の一冊でした。犬好きの方にはとくに見てほしい。作者はマーク・シーモント。そんな人、知らないよ、というあなたも『はなをくんくん』(福音館)や『木はいいなあ』(偕成社)という絵本には見覚えがあるのではありませんか?シーモントは一九一五年にパリで生まれ、アメリカで活躍しているイラストレーター、作家です。ルース・クラウスの文に絵をつけた『はなをくんくん』はコルデコット賞銀賞(すなわちオナーブック)となりましたし、ジャニス・ユードリーと組んだ『木はいいなあ』で1957年にコルデコット金賞を受賞しています。2001年に出た今回の本では、文と絵の両方をシーモントがかいています。惹かれたのは絵本の読み手の視線を誘っているうまさでした。以下、絵をお見せできない分、どうしても説明が長くなります。表紙には、やぶの向こうで捕獲用の網をもち、向こうを見守っている男の人と、やぶの手前からテニスボールをくわえた犬が反対側へ出てきた瞬間が捉えられています。上目遣いになっている犬は、男の人を意識しているようでもあり、また読者に「ほらね」と合図しているようにもみえます。後者だと解釈すると、演劇における傍白と同じ効果が得られ、犬と読者の間に共犯意識が生じます。つまり読者はこの表紙からすでに犬に興味をもち、その物語を心待ちするように導かれていくのです。なお両者の間、やや右よりにテニスボールより少し濃い山吹色の大きな円が置かれ、中に作者・書名・訳者の名前が収められています。また裏表紙は、両親とふたりの子どもで構成されたある一家が公園でピクニックを楽しんでいるところ。表紙も裏も、物語の大事な伏線となっています。
 さて、緑一色の見返しをあけると、そこにはごみ袋に頭をつっこんでいる犬の下半身が見えてきます。まわりにはごみが散乱し、のら犬が食料をあさっているところだと推測されます。つぎの見開きはいわゆる扉ページですが、左側を中心に、さまざまな犬と飼い主の光景が描かれています。そして画面いちばん手前に、弟の肩に手をかけ並んで立っている姉弟の後姿が見えます。ふたりにせりふはありませんが、犬連れの人々をうらやましそうに見ていること、その気持ちを姉弟で分かち合っていることが伝わってきます。つぎの見開きは一転して赤いハッチバック型の乗用車が大きく描かれています。上下に開く後背部のドアを大きくあけ、ピクニック用の荷物を積みこんでいる父親と、荷物をドアの外へ置き、玄関の鍵をかけようとしている母親、そして道路への石段をとびおりているうれしそうなさっきの二人の絵です。おや、これは字のない絵本かなと思っていると、つぎのページにはじめて「きょうは、みんなでピクニック。お天気も、さいこうです」という説明が出てきます。
 物語は一家の赤い車が橋を渡り、ピニクック地に来て、バーベキューをしている場面まで進みます。左ページ上方のしげみの左側には顔をのぞかせている一匹の犬。右側のページには大きなテーブルと、バーベキューセット、そしてさっきの一家がそれぞれ動作を止め、犬を見ているところ。左を向いている彼らにつられて、読者も左に注目します。ほら、表紙にいた犬ですよ。一家はこの犬と楽しく遊び、「ウィリー」という名前までつけてやるのですが、夕方になって一家が帰るとき、ウィリーは残されます。ヘッドライトがともり、中がぼやけた車と、そこから突き出ている子どもたちの手。そして右画面には、ごく小さな犬の姿が灰色で描かれています。この絵本は背景を白地のままにした個所が多いのですが、ここもそのひとつで、まわりに何もないことで、車が進むにつれ、取り残された犬が味わうであろう孤独感が強まる結果となっています。ウィリーには帰るうちがあるのでしょうか。この思いは、夕暮れの橋を逆方向に戻る赤い車と、おねえちゃんのせりふで表されます。

初めてこの絵本を読んだとき、たまたま、この個所でほんの少し、本を中断しました。ところが、ほかのことをしていても、このあとウィリーはどうなるのだろう、物語はどんなふうに展開するのだろうと、気になって気になって、しようがありません。絵本ですから、幸せに終わるだろうと思っていても、寂しそうなウィリーが目の前にちらつきました。じつはこの一家もわたしと同じでした。(なお、名前をもらうのはウィリーだけで、家族の名前はどこにも出てきません。)「それからずっと、みんなは、ウィリーのことが気になってたまりませんでした。」という文章が中央に置かれ、その周囲には四者四様の(三者三様というのがふつうですが、四人家族にあわせておまけした造語です)反応が描かれています。つぎの土曜日、一家は先週と同じ場所にピクニックへでかけます。お父さんの目は、このまえ犬が最初に姿を見せたやぶに向けられ、地面に置かれた皿と水入れとが、犬を待っていることを物語っています。で、ウィリーの登場です。ただ、前ページでやぶから顔をのぞかせていなかったことからわかるように、前と同じように展開している部分とそうでない部分がうまくまじりあっています。そして現れたと思ったウィリーは、表紙にいたあの野犬捕獲人に追われていて、犬の姿に喜ぶみんなの前を素通りしていくのです。そこで子どもたちもその後を追って走ります…。
ご安心ください。ウィリーは家族に救われます。そして、ほかの犬連れの人たちを羨んでいた公園に姉弟がウィリーを連れて行って公園デビュー!をさせる画面が続きます。最後は、文字通りの大団円、つまり丸いクッションのなかに体を丸めているウィリーの寝姿です。
この絵本は、誰か、またはどこかに属したいというわたしたちの願望、つまり帰属意識をあつかっている本ではないでしょうか。絵本からは帰属先を得た犬の幸福感が伝わってきます。同時に犬と暮らす人間たちの幸せも。どちらにとっても、紐や首輪は重要ではなく、犬と人間を目に見えない絆でつなごうとする物語、そんなふうにわたしには思えたのです。

犬の話が出れば、つぎは猫の話になるのが順当というもの。でも「気まぐれ」図書室なので、ダイアナ・ウィン・ジョーンズのクレストマンシーものの話が続きます。今回は『クリストファーの魔法の旅』(田中薫子訳、徳間書店、2001年10月31日刊)。といっても物語の途中から猫も顔を出しますので、ご安心下さい。
これは、あるリッチな家族の一人息子、クリストファーの物語です。クリストファーは、両親にほとんど会えず、子ども部屋で使用人や家庭教師などと暮らしています。彼には小さい時から、不思議な夢を見る能力がありました。彼が<あいだんとこ>と呼ぶ中間地点から、さまざまな関連世界へ自由に行き来していたのです。でも彼のこの能力は、ラルフ伯父が配下の家庭教師を送りこむまで、誰ひとり気づきませんでした。クリストファーの両親はかねてから不仲でしたが、父が投資先の選択に失敗し、母の財産を大きく減らしたときに破局をむかえます。そして父が家から姿を消すと、それまで訪問すらできなかったラルフ伯父が、クリストファーの母親の相談役として顔を出すようになったのです。クリストファーは長身でかっこよい伯父を崇拝します。そして伯父に提案された「実験」――つまり、おじの部下と協力して、別世界からさまざまな品物を運ぶこと──に協力するのです。これはふたりだけの秘密でした。クリストファーが、初めて動物を連れ帰る「実験」をしたとき、第10世界の神殿で出会ったのが<生けるアシェス>と名乗る女神でした。平凡な外見で彼よりも少し年下の女の子にしか見えなかったのに、この女神にもまた強い魔力がありました。女神はクリストファーをその場にくぎづけにし、何しに来たのか尋ねたのです。そして彼が猫を欲しがっているとわかると、ほかの猫たちをいじめるオス猫のスログモーテンなら手放しても良い、ただし、彼の世界から読み物を密輸してくること、という条件をつけます。でも女神との取引はあくまで個人的なもの。このときアシェス神殿の猫を連れだしたクリストファーには、強い呪いがかかります。ただし彼は(猫たちと同様、命が九つあったため)槍で突き刺され、命を落としても自分では気づきませんでした。実験はすぐに週一度のペースになります。何も知らされていない母親は、息子が将来社交界で成功する人物になることを期待し、彼を伯父に勧められた寄宿学校へ入れると、自分は人生を楽しむにさっさと海外へ出かけてしまいます。
クリストファーは同年代の仲間がいる寄宿学校での生活に即座に適応し、毎日を楽しむようになります。毎週木曜日夜の「仕事」も続けました。ところが、呪いのせいで、彼の身にさまざまな事故が起きます。ホロスコープで息子の動静をずっと見守ってきた父は、クリストファーが命(のひとつ)を失った事件後、母親を出し抜いてまんまと彼を寄宿学校から連れだすことに成功します。そしてケンブリッジの高名な博士に預けて、彼の能力を診たててもらったのです。こうして命が九つある(実際にはすでにいくつか失っていましたが)ことが確認されたクリストファーは、クレストマンシーの後継者として、現クレストマンシーのゲイブリエル・ド・ウィット氏に弟子入りすることが決まりました。父は大喜びです。魔法使い一族の出身ながら落ちぶれた父にとって、魔法使いとしての名声と成功を息子に実現してもらうことこそ、悲願でしたから。
 けれども大好きなクリケットシーズン中に、しかも仲間たちにお別れもいえずに学校から連れ出され、それきり戻れなくなったクリストファーの気持ちは? そうです、周りの人間が彼の気持ちにおかまいなく、勝手に彼の未来を決めていこうとするので、不満がいっぱいでした。大人ばかりのクレストマンシーの城でさみしく暮らすことになってからも、彼の憤りは収まらず、誰とも打ち解けずに反抗的な態度をとりつづけます。そんな彼の現在の気持ちがわかる相手といえば、第10世界で「生けるアシェス」として窮屈な暮らしを強いられているあの女神だけです。(なおクリストファーは、連れ帰った猫が魔法の材料としてばらばらに売られようとしていることを知ったとき、スログモーテンをこっそり逃がしてやっています。)彼は女神との約束を果たすため、寄宿学校に入ってから女の子のきょうだいがいる同級生に本について助言を求めました。おかげで同級生に勧められた女の子向けの学校物語は、女神に大喜びされ、何度か届けに行くたびに、打ち解けて話すようになっていたのです。女神のほうも、「生けるアシェスが大人になったら?」というクリストファーの疑問がきっかけで、自分の未来に不安を覚え、彼の知恵を借りようとします。そして、とうとうクレストマンシー城まで、押しかけてきてしまいます…。

 あらすじは、このぐらいにしておきましょう。物語は、子ども部屋、寄宿学校、短期間のケンブリッジ滞在をへて、全体の約半分がクレストマンシー城での出来事となります。そして魔法があることをのぞけば、明らかに19世紀のイギリス文化を下敷きにした設定です。そのなかで主人公のクリストファーは疎外され、帰属する場所をもてない子どもです。頼れるおとながいないせいで、自分の置かれた状況を正しく判断することができません。彼と似た立場にいたのが第10世界の女神です。彼女はクリストファーの世界では、ミリーと名乗りますが、これはクリストファーが運んできた少女向きの学校小説のヒロインの名前から借りたものです。つまり、少女向き学校小説の世界に憧れている女の子です。クリストファーが最初子ども部屋で親と切り離れていたこと、その後も男子の寄宿学校にいれられてしまうことと併せて考えると、これらの部分が十九世紀の子どもをとりまく制度・習慣へのパロディ(と、おそらくは一種の批評)になっていることがおわかりでしょう。
 ところで先ほどクリストファーが<あいだんとこ>を通って、別世界と行き来していたと述べました。子どもがおじさんに別世界への冒険にひきこまれる話といえば、C・S・ルイスの『魔術師のおい』という作品が有名でしょう。もっともクリストファーは魔法の指輪など使わずに別世界へ行けます。また、別世界(のひとつ)から女性がやってきて、騒動が起きることはC・S・ルイスの作品にもありますが、それよりはるか以前に出版されたE・ネズビットの『お守り物語』も連想させます。ただし、類似性はあくまでこうした設定部分だけ。ジョーンズの物語展開は先行作品を知っていても、やっぱり意表を衝かれます。
 この作品の主人公はあくまでクリストファーで、ミリー(女神)は脇役のひとりですが、わたしは準主役と見ています。頭が切れる上、クリストファーと同じくらい強い魔力をもっていて、彼にぴったりの相手です。ただし立場や考え方の違いからしばしば彼を振り回すので、クリストファーが姉妹を扱いかねている男の子のようにも見えてきます。なかでも傑作なのは(第10世界から自分の世界へ)逃げ帰ろうとする彼を、女神が壁のなかで身動きできないようにしてしまう場面でしょう。自分がゼリーのようになった壁で動けないことを知ったクリストファーは、魔法を使って姿だけは見えなくします。でも神殿の人たちにはみな魔力があるので、気が気でありません。だって彼ときたら、「顔を部屋の中にむけたままおしりからさがろうとしていたので、頭の大部分はまだ部屋の中で壁から突き出ていた。人から見えようと見えなかろうと、城の食堂の壁にかかっている剥製の動物の頭みたいだ」(訳書218ページ)
 つぎに彼が心配するのは、中庭側におしりがはみ出しているのではないか(!)ということなのです。
 これにたいし、訓練を受けている最中のクリストファーが未熟な魔法をあやつるケンブリッジでの章や、ミリーを匿うために魔法で城内の品物を集めて世話する章なども、魔法の楽しさと、それがもたらすトラブルを描いた個所になっています。そして最後の最後まで、目をはなせないこと請け合いです。
物語にもうひとつスパイスを添えているのが、神殿の猫だったスログモーテンでしょう。出番こそ少ないのですが、憎たらしい猫なりに存在感を示しています。自分を切り刻もうとした宿敵(ラルフ伯父)にたいする彼の恨みは理解できるだけに、彼が相手を追い詰め、思う存分爪をふるうときは、読んでいてとても痛快になります。またミリーは、彼の息子にあたる白い子猫もクレストマンシー城へ連れてきました。ですから、お約束どおり猫の登場する物語だったと、受けとっていただけるものと信じています。(いいよね!) 
この物語は基本的には楽しいファンタジー作品ですが、先ほども触れたように、重いテーマが隠れています。読者はクリストファーといっしょに読むと、彼が疎外され、強い被害者意識で不満をくすぶらせていることに気をとられがちになります。でも彼の側にも問題があって、そのためコミュニケーション不全になっていたことも、見てほしい部分です。また、自分の思い込みを捨てて真実が見えてくるときも。洞察や啓示をえる場面を特に「エピファニー」と呼びますが、なかなか感動的でした。どうかいくつもの発見を楽しんでください。
 きょうの図書室はこれで終わりです。また近いうちにお会いしましょう。