気まぐれ図書室(5)

――春はあしばや――
西村醇子

           
         
         
         
         
         
         
    
昔から「オオカミだ!」と叫んだ子どもは、嘘つきとされ、おとなたちに叱られると相場が決まっている。3月号のテーマは「春だ、オオカミだ」となるはずだったが、3月号が幻に終わった結果、嘘をつく機会も逃してしまった。
最大の誤算は2月末にプライベートで来日したジリアン・クロスに会いそびれたことだ。ある場所で子ども向けにトークをおこなう予定と聞いたので、それを本図書室の話のネタにする心積もりをしていた。ところがところが。日時を間違えるという大失態をした。(言うまでもなく、「わたしが」である。)トークを聞き逃したうえ、クロスにも会えなかった。あとから聞いたのだが、クロスは高学年の子どもたちに、自作の『ウルフ』(邦訳は岩波書店)の舞台裏を話してくれたそうで、オオカミ(!)とのかかわりも話には含まれていた由。悔やんでも後の祭りだが、残念である。
3月にはもうひとつ、オオカミにかかわるエピソードがあった。掲示板をご覧になった方もおいでだろうが、カナダの研究者サンドラ・ベケット教授に日本イギリス児童文学会主催の講演会で話していただいた。そのときのテーマがペローの「赤ずきんちゃん」のリサイクル、つまりさまざまな語り変え、再利用だったのだ。当日はペローの「赤ずきんとオオカミ」のモチーフが、コミックから絵本、映画演劇にいたるまで、フランスをはじめ各国で多種多様に展開しているようすを、画像をまじえて語っていただいた。改めて「オオカミ」の人気というか底力を感じた次第だ。 (オオカミ:ウォーン)

さて今月は、オオカミ男ならぬクレーン男の物語、ライナー・チムニク文・画『クレーン男』(原著1956年、矢川澄子訳、パロル舎、2002年2月刊、1700円)を取りあげたい。出版社を変えての復刊本である。
チムニクは面白い。その作品は、まるでクレーンのようにあまたの作品から屹立している。この世界のユニークさは、物語の常道をはずれているところにある。そもそも始まりからしてかなり唐突だ。

町がしだいにひろがるにつれ、貨物駅では、山のような荷箱や石炭や、牛やブタをさばききれなくなった。そこで、市長と、大臣と、十二人の市会議員たちは、町の正面の空き地に、貨物の積みかえ用のクレーンを一台、すえつけることにきめた。(6ページ)

これが昔話なら、「昔あるところに」という定型の句を発端とし、場所や時代を特定させずに物語に普遍性をもたせるだろう。ところがチムニクはそれをしていない。にもかかわらず、いきなり、「いつ・どこ」の不明なまま、物語をはじめてしまうのだ。もちろん、今の時点からみれば、石炭の時代に「昔」を感じる。でも、昔話とは明らかにスタイルがちがう。最初から読者は意表をつかれっぱなしなのである。それでいてきびきびとした文のリズムが、読者をつかみ、物語世界に一気に引き込むから不思議だ。物語は最初、見開きの右にテキスト、左に絵が配置され、クレーンが設置され、主人公がクレーン男となるいきさつが手短に語られていく。
主人公はクレーン男。名前はなく、最初だけは「青いぼうしの男」として登場する。彼は、クレーンをすえつけているうちに、クレーンにほれこみ、首尾よく操作係に任命されると、二人のライバルに仕事を奪われるのがこわくて、それきりクレーンからおりようとしなくなる、変わり者である。彼は、クレーンの操作にかけては優れていて、海賊を退治したり、暑さで暴れた動物たちを手懐けるといった活躍で、町の人々からも信頼される。変わり者ながら、レクトロという親友がいて、彼が何くれとなく情報をくれれば、クレーン男もおかえしをしている。

冬になって──夏になって、また冬になって──夏になった。いつでも、そのくりかえしだった。

石炭の積みかえ──荷箱の積みかえ、荷箱の積みかえ──石炭の積みかえ。

けれど、いつだってたのしかった。なぜって、夏はこころよく、にぎやかで、レクトロはたのしい夢にふけることができたし、冬は冬でクレーンに白い霜がおりたからだ。町からそよ風がふけば、鉄骨はきよらかなガラスみたいに、あかるい澄んだ声でうたってくれたし、石炭はカラスどもがはずかしがるぐらい、まっくろだったからだ。(72ページ)

ところが、戦争がおこる。チムニクは「白い騎士」という比喩を用い、大量の死が町を、国をおそったようすを短く語る。ここまでが前半だ。クレーン男は彼の時代のただひとりの生き残りであり、ひとりぼっちとなる。そのうえ戦争で堤防が破れたために、クレーンは海に取り囲まれる。そして自給自足の生活のなかで、今度はワシを友とし、海のサメたちとたたかい、遠くの人物とビンの手紙をやりとりする。やがて時はうつり、ふたたび町ができる・・・

さきほど述べたように、この物語はけっして昔話型の物語ではない。けれども機能的には共通点がある。つまり時間の流れが凝縮され、人の一生、人間の営みが見事な縮図となって浮かびあがってくる。しいていうなら、寓話に分類されるのだろうが、豊かで美しい詩的な雰囲気があり、センスのよさに驚くばかりである。

春にぴったりの、読後感がさわやかで中身の濃いエッセイを読んだ。梨木香歩『春になったら苺を摘みに』(新潮社、2002年2月刊、1300円)である。梨木の『裏庭』(新潮社)や『りかさん』(偕成社)などは前に読んだことがあったが、イギリスに留学経験があることを含め、背景はなにも知らないままだった。ただ、どことなく外国の香りを感じていたが、それがあながち間違いではなかったことが今回わかった。
このエッセイを手にしたのは、梨木香歩だからというより、装丁とタイトルに惹かれたほうが大きかったかもしれない。だが読むにつれ、書き手梨木香歩に強い興味を覚えた。感性といい、表現力といい、思考プロセスといい、波長があう人だと感じさせる何かをもっている人なのだ。(読み手にそういう錯覚を感じさせるのも、技術の確かさから来ているのかもしれないが…。)
たまたま4月19日付けの朝日新聞夕刊にこの本が英国紹介の本の一冊として書評されていた。この本の魅力のひとつは、異文化についての洞察がしっかりしていることだ。そして、かつて梨木が下宿していた家の女主人ウェスト夫人の個性と、彼女をとりまく人々の事件が(まるで小説のように!)面白いこともつけ加えたい。思考過程をふくめ、あれこれを語る梨木の文章にも読みやすい。また最近の英国再訪からはじまり、時計の針をもどしてかつての英国体験を語り、その後の交流の様子から、最後の手紙まで、一連の流れもよかった。
エッセイのタイトルにある「春になったら苺を摘みに」は、最後の頁、ウェスト夫人からの手紙の一文として、さらりと出てくる。だがそれは暗い世の中にたいして、未来を期待するイメージとして効果的である。

と、ここまで書いて気がついた。三月に原書房から出版された『暗くなるまで夢中で読んで』(神宮輝夫・野上暁監修、1800円)のなかで、梨木の『りかさん』も取り上げられていたのだ。(なんと強引な結びつけ方!)『暗くなるまで・・』は、海外児童文学を取り上げた前2作にたいし、日本の作品だけを選んでいる。6つの小見出し「幼いころの風景」「あしたに変身」などのうち、『りかさん』は「秘密の入り口」というグループに入っている。同書の書き手はおもに上原里佳、神戸万知、鈴木宏枝、横田順子で、ところどころに監修のふたりの担当項目も混じっている。誰がどれを、そしてどう書いているかも読みどころといえよう。
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以下は宣伝である。
ミネルヴァ書房から『英米児童文学の宇宙:子どもの本への道しるべ』(2002年、3000円)という論集が出た。相模女子大学の本多英明教授が編著者で、古典(ルイス・キャロル、マーク・トウェイン、フランシス・ホジソン・バーネット)、現代(J・R・トールキン、E・L・カニグズバーグ、ヴァージニア・ハミルトン)、同時代(アン・ファイン、フィリップ・プルマン、アレン・セイ)に区分けしてある。そのほかに絵本論も3本。
自分が関わっているのでコメントしにくいのだが、このメールマガジンを読み、児童文学と接している方には非常に刺激的で読みごたえのある本であろう。またなかなかに新しい批評がそろったと自負しているが・・・。
ミネルヴァ書房の本とちがって、『歴史との対話――十人の声』(近代文芸社、2002年4月、1800円)は、一般書店見かけるチャンスはほとんどないだろうから、やはりここで宣伝をしておきたい。神宮輝夫・早川敦子監修の本書は、白百合女子大学の「現代児童文学・文化(英語圏)研究プロジェクト」チームが数年にわたって活動してきた成果をまとめた単行本である。
ちなみに十人とは、J・ハイウォーター、G・ソト、P・ライトソン、A・ガーナー、P・ピアス、L・ローリー、M・マーヒー、P・ファーマー、A・ファイン、P・プルマンの作家のことであると同時に、書き手の若い研究者十人のことでもある。子どもの本が子ども像、ジャンル概念などの変化とともに変貌している時代を意識し、歴史を扱う小説・物語の可能性を探っている。神宮輝夫氏は巻頭言、わたしと早川敦子氏は第3部でそれぞれ総括的なアプローチをしているが、わたしたちは員数外(数に入っていない)のである。
宣伝でいささか気がひけたところで、今月はこれにて閉室。