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数ヶ月休んでいる間に、いつのまにか梅の季節である。 回答者が日本在住の外国人ばかりというクイズ番組を見た(関東では2月21日放映)。出題のひとつが「お風呂や温泉などで年配者が口にする台詞は?」だった。ヒントは「あー」のあとに続く言葉。正解したのはセイン・カミュ氏とケント・ギルバート氏で、ほかにもいたかもしれないが、あいにくと覚えていない。全問正解だったカミュ氏はともかく、ギルバート氏が印象に残ったのは、温泉好きでほうぼうに行っているという彼が、「自分では言わない」とコメントしたからである。そうでしょうとも。アメリカ人と「極楽」という仏教の言葉とはすんなり結びつかないものね。番組を見ながら、こういうなにげないレベルの外国文化の常識がいちばん厄介だよなと思った。それどころか、へたをすると足元の日本文化のことも、どこまできちんと知っているか怪しくなっている……。そんなとき、役立ちそうな絵本がある。川浦良枝(絵と文)の『しばわんこの和のこころ』(2002年1月)と『しばわんこの和のこころ 2――四季の喜び』(2002年12月)で、白泉社刊がそれだ。月刊誌MOEに連載後単行本になったもので、かなり売れているらしい。暮れから正月、そして2月、3月にかけては日本の伝統行事に触れる機会が多く、季節ごとの風物や行事とその背景、マナーといったものが気になるときだ。この2冊は主人公こそ、しばわんこ(柴犬)とみけにゃんこ(三毛猫)となっているが、内容は彼らを出しにして読者に豆知識を伝授する、歳時記の一種である。いまさらマナーブックを買うのは抵抗があるという人にも向く好企画だ。この本は友人に教わったのだが、買ってから早速持ち歩いていたところ、あちこちでおとなに好評であった。 * きょうは2002年に出版された本の話をしたい(そういえば昨年2月も同じようなことをやった。) 図書館流通センターのデータによると、2002年に出版された絵本は前年より増え、1598点だそうだ。図鑑や知識の絵本、仮面ライダーからディズニーのおはなし絵本シリーズまで含むとはいえ、新刊を追いかけるのはさぞ大変だろう。……と他人事のように書くのは絵本が専門ではない気楽さから。 数ある絵本のなかから気にいったものにぶつかると、とても得した気分になる。充実した気持ちにしてくれたのが『とどまることなく』(アン・ロックウェル作、グレゴリー・クリスティー絵、もりうちすみこ訳、国土社、原2000 /2002年4月)である。「奴隷解放につくした黒人女性ソジャーナ・トゥルース」というサブタイトルが示すとおり、19世紀アメリカに実在した女性の半生を絵本に仕立てたものだ。オランダ人のもとで育ったイザベラという少女が奴隷市で売りにだされ、アメリカ人に買われ、言葉で苦労したこと、農場主に買われてからは、自分の産んだ子どもをよそへ売られる心配をしたこと、夢にまでみた自由を得たいきさつ、その後奴隷だったころの話を人々に語ることが自分に与えられた使命だと感じ、自分の名前をソジャーナとしたことなどが、簡潔に語られている。 この絵本はクリスティーの絵がなければ値打ちはぐっとさがっただろう。 全編をとおし、一方の頁に横組の文章が、もう一方の頁に絵が配置されている。先に文章を読んだのだが、見れば見るほど雄弁な絵である。人物像は、おそらく奴隷が相手から見下されていたことに対応するのだろうが、上半身が下半身よりも大きめに描かれている。つまり円錐形の尖ったほうを下に向けたものが基本のフォルムになっている。表紙を例にとると、主人公はこちらから見て左手に立ち、右手を体にそって下へ伸ばし、左手を画面の上方につきだすことで左側に存在感を示している。(右側にはタイトルなど。)服のラインと足の小ささによって、左下から右上へ、流れるような動きが感じられる。ほかの頁でも同様で、たとえば裁判所の場面では中央に主人公が、そして画面の三隅に3人の人間が配置されることで、横長の楕円形が作られ、そのなかで画面の上から下までを占めるソジャーナが圧倒的にこの場を支配していることがわかる。 そのほか、まわりの人物は魚眼レンズからのぞいたように小さく描き入れられていたり、人物の首から下だけになっていたりとかなり大胆に省略されている。筆遣いを残したタッチといい、色の選び方といい、どれも絵の語りを補強するものである。 『よこしまくん』(大森裕子、偕成社、2002年11月)は、絵本としては横紙破り!ということになるだろう。19×14センチ、64ページと小ぶりで、内容からみても大人にアピールしそうだ。フェレットの「よこしまくん」の名前の由来は、縞柄(それも横縞)シャツを好むからだろう。もちろん「邪なやつ」というニュアンスもこめられているのだろう。彼が本当によこしまかどうかはともかく、みえっぱりでいじっぱりなことはエピソードが示している。新しいシャツを買いにいって、結局今までと同じものを買うあたりは、みやざきひろかずの『わにくんのTシャツ』(BL出版)と同じ。だが不器用でひねくれもののよこしまくんを見ていると「これからもがんばれよ」とそっと応援したくなる。それって、大森さんの思うつぼなんだろうね。 * 2002年もファンタジーの出版はさかんだったが、個人的に印象に残ったのは、英国の歴史小説家であるサトクリフの本が競うように出版されたことである。一部はケルト(ファンタジー)ブームの余波だろうし、またサトクリフの名前を見て買うのは、大人のファンだろう。半生が語られる物語では、その人物を理解するまで時間がかかる。早いテンポに慣れた現代の子どもたちに、それができるのか、少し心もとない気もするのだ。 ある大学で、児童文学の授業のどれがつまらなかったかを書いてもらった。自分では職業小説が不評だろうと予想していた。ビデオの「リトル・ダンサー」の見せ方に失敗した(と考えていた)せいだ。ところが、学生たちがいちばんつまらなかったとこたえたのは、歴史小説であった。学生が興味をもつのは、すでに作家の名前や本の名前をきいたことがあるが具体的なことまでは知らなかったというケースが多い。彼らはその作家や作品について詳しい話がきけたと喜ぶ。たとえばテレビで見たことのある『大草原の家』シリーズの作者について、よくわかったとか、授業のおかげで『くまのプーさん』の話を読んだ、というように書いてくる。ということは、歴史小説になじみの薄い学生が、歴史小説の話に興味をもてず、つまらなかったと書いたのかもしれない。でも知らないからこそ、目を向けて欲しかったのだが。 わたしは昔から活字中毒気味だったから、サトクリフの『ともしびをかかげて』(1950)を小学校で見つけて読み、感動した。だが、現代はほかにいくらでも選択肢があるから、難しそうな本にまで手を出そうとは思わないのかもしれない。 そこにこそ図書館員や学校司書の活躍する余地と意義があるのだが、作家だって、ただ手をこまねいているわけではない。そのことを感じたのが、『魔女の血をひく娘』(セリア・リーズ著、亀井よし子訳、理論社、原2000/2002年10月)と『葡萄色のノート』(堀内純子作、広野多珂子絵、あかね書房、2002年9月)である。『魔女の血をひく娘』の原題はWitchchildといい、先月号の児童文学書評でも取りあげられている。17世紀のイギリスからアメリカに渡ったメアリーという少女が、魔女狩りの犠牲となる話が本筋で、彼女の手記がキルトのなかから発見されたという設定になっている。あとがきは本文と書体が異なり、「何かの情報をおもちなら、わたくしどものウェブサイトにコンタクトなさるか…」という一文と電子メールアドレスが示され、真実の手記であったのかと錯覚する。訳者あとがきに紹介されていたこの作品のホームページを開いてみた。多くの読者から真実なのかと訊かれたらしく、作者リーズは「これはフィクションである」とはっきり述べている。E・G・スピア『からすが池の魔女』(1958)と同様、この作品もセイラムの魔女裁判を下敷きにしており、プロットに迫力がある。スピアは事件を三人称で語り、主人公のロマンスがハピーエンドを迎えるさまを描いた。リーズは主人公の手記以後の運命は語っていない(続編を待たないといけないらしい)。リーズによると、このような装置を使ったのは、メアリーをはるか昔にいたわれわれと縁のない少女だと思わずにリアルな少女だと感じて欲しかったからだそうだ。 この距離感こそ現代の歴史小説作家が直面する問題であろう。そしてリーズは手記に見せる方法を選んだが、これは英国人のリーズだけではなくほかの作家もやっていることだ。(アメリカでは90年代から日記体を使ったDear America という歴史小説シリーズが作られており、日本ではそのなかの『メイフラワー号の少女』が訳されている。狙いはみな同じであろう。)『葡萄色のノート』の場合は歴史小説であるまえに、手記形式のある家族の家族史である。外枠は14歳の少女梢が父方の祖母から<誕生日プレゼントとして外国旅行を贈るが、行き先は韓国のソウルへの2泊3日で、自分でパスポートをとり、同封のノートを読んでおくのが条件だ>と言われて、喜んだりがっかりしたりするところから始まる。 同封されていた変色して葡萄色になった革表紙のノートには、梢の曾祖母や大叔母など5人の親戚の女性が、それぞれ13歳から15歳ぐらいの時期に書いた手記が載っていた。これが内枠の物語を構成しており、梢はノートを少しずつ読みながら、自分たちの一族と韓国のつながり、その頃の日本と韓国の関係や第2次大戦の経緯などについて理解を深める。そして最後に、自分が韓国を訪問して見聞きしたことを書き記すのである。 装丁はおしゃれで、ワインカラーの表紙の色もぴったりだ。ただノートに書かれた各人の手記に、めいめいがタイトルをつけていることはわざとらしく感じられた。それ以外は、系図とそこに書き加えられた各人の愛称、書き手ごとに変えてある書体、さらに関連歴史年表など、きわめて親切な造りの本になっている。作者は韓国生まれで、母親の遺品中の手記原稿を核とし、それをふくらませたそうだが、思い入れの強さがうまく機能し、読みごたえのある作品に結実している。 * 地元の歴史をひもとくことが恐ろしい魔女を解き放つことに…というスリリングなフィクションもある。『魔女が丘』(マーカス・セジウイック、唐沢則幸訳、理論社、原2001/2002年12月)である。帯に「英国のスティーヴン・キングが描く傑作サスペンス・ホラー」とあるのを見て、一時は読むのをよそうかと思った。でも、見るからに怖そうなアヴィ『クリスマスの天使』(金原瑞人訳、講談社、2000/2002年11月;先月号にひこ田中氏の書評あり)を、なんとか読むことができたので、毒を食らわば皿まで……と、訳のわからない理屈をつけて読んでみたら、怖さも面白さの一部であった。自宅の火事で心に傷を負ったジェイミー少年が主人公。彼は幼い妹キジィを助けなかったことで自責の念にかられている。でも妹は消防士に助け出され、無事なのだ。おばと16歳のいとこアリソンが暮らす西部地方の家で療養することになったジェイミーは悪夢にうなされる。折りしもおばは、ヒストリック・イングランド協会と連絡を取りあい、ほったらかしになって草ぼうぼうの丘をきれいにし、石灰で描かれた昔の絵が見えるようにしようとしていた。ジェイミーはその作業に巻き込まれ、あいまに昔の資料を読むうちに、過去の事件がよみがえってくるのを感じる。 過去と現在がフラッシュバックで進行し、一読では把握しにくいところもあるが、怖さはストレートで小気味よいほどだ。場所にうずまくエネルギーが現代人に影響するという意味でアラン・ガーナ―の『ふくろう模様の皿』(1967)に似ているが、心理的な怖さでは(今年の1月に徳間書店書店から復刊された)ロバート・ウェストールの『かかし』(金原瑞人訳)と、似ているかもしれない。 ほかにも取りあげたい本はあるのだが、閉室の時間となった。それではまた。 |
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