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去年、イントロを用意しただけで、書けなかったことがあった。それは、某保険会社が9月から流していたCMソングの一節、「輝く瞳は女のあかし笑顔と知恵で乗り切るワ
花の命は結構長い」が頭にこびりついているというものだった。その後CMを見かけなくなったし、イントロだけ利用するのは無理だろうと、原稿を消してしまった。今年のはじめ、テレビからまた同じ曲が流れてきたので、おやっと思った。新ヴァージョンのようだが、それならこのイントロも復活できるかもしれない……。
そう思っているうちに、はやくも本物の「花」の季節になっている。きょうは何がなんでも開室しなくちゃ! * 毎年1月から3月にかけて、前年に出版された本をまとめて読んでいる。今年も2003年回顧をおこなうが、タイミングがずれた分、読んだときの感激やら記憶やらが薄れかけている。2003年だけというより近年の傾向だが、海外で主要な賞の候補になった作品が翻訳されるケースが増え、かつ翻訳までの期間が短くなっている。豪華な顔ぶれの一端を紹介しておこう。 最初はアメリカのニューベリー賞。クリストファー・ポール・カーティス『バドの扉がひらくとき』(前沢明枝訳、徳間書店、1999/2003年3月)は2000年の受賞作。内容は1930年代アメリカ南部を舞台に、6歳で母親が死に、孤児となった少年バドのまだ見ぬ父親探しの旅を描いたもの。作者によると、ふたりの祖父の体験を素材としたフィクションだという。普通なら悲惨な話になりがちなところだが、主人公が生き延びるためにつくりあげている「バドの知恵」と称する考察が挿入され、軽いタッチになっている。また、バドと父、祖父をつないだジャズ音楽が新しい人生への切符となることも、ふさわしいと思えた。 カール・ハイアセン『Hoot ホー』(千葉茂樹訳、理論社、2002/2003年4月)は2003年度ニューベリー賞オナーの1冊。環境問題がテーマのひとつだが、物語はそれだけに終わっていない。主人公ロイは転校生。通学用のバスに乗ったとたん、学校一乱暴者のいじめの標的となる。ロイはその対策に頭を悩ます一方、はだしの少年が神出鬼没に走り回る姿を見かけて好奇心を抱く。やがてロイは有名なパンケーキチェーン店の新店舗用地が、アナホリフクロウの営巣地であること、謎の少年がフクロウを保護しようとひそかに活動していることを知る。物語はいじめや家庭環境の問題、警察の表裏、マスコミ操作などが絡み合い、最後まで目を話せない展開となる。タイトルはフクロウの鳴き声らしいが、英語と重ねた背表紙には困惑する。日本語の「ホー」という書名が見にくいのだ。(英語をかな書きにした作品名が増えているが、なんとかならないかと思う。)この本は白地の丸に黒丸を重ねたものを二つ並べ、そのすぐ下に逆三角形を配置して、目玉とクチバシでフクロウを図示している。原書のペーパーバック版の表紙は赤地で、作者名と逆三角形(フクロウのクチバシ)が黄色、裏表紙が青色と色鮮やかでインパクトがあった。これにたいし日本語版は青色を表紙にし、裏表紙をオレンジ色にしてある。また全般的に目の部分が小さめだが、アナフクロウの小ささを表すには日本版のほうがふさわしいだろう。 ちなみに、2003年度のニューベリー賞受賞作も、昨年訳されている。アヴィ『クリスピン』(金原瑞人訳 求龍堂、2002/2003年11月)がそれで、14世紀を舞台にし、孤児の少年が命がけで自分の出生の謎をさぐり、生き方を見出すスリリングな物語。よくできているとは思うが、魂の自由を訴えるテーマ性が勝っているというか、頭で書いてあるような印象を受けてしまい、のめりこめなかった。 ニューベリー賞がらみでは、もう1冊、リンダ・スー・パーク『モギ ちいさな焼きもの師』(片岡しのぶ訳、あすなろ書房2001/2003年11月)も挙げておきたい。これは12世紀韓国を舞台に、みようみまねで焼き物師に弟子入りしたモギと、彼を受け入れた師匠の高麗磁器づくりの物語。作者は韓国系アメリカ人2世だそうだ。日本で書かれている同様の歴史小説と比べて遜色がない──というのも変な評価だが、もともとアメリカで出版されたということを思わず忘れそうになる本だった。 * イギリスの作品では、カーネギー賞受賞作のエイダン・チェンバース『二つの旅の終わりに』(原田勝訳、徳間書店、1999/2003年9月)をまずあげたい。昨年12月に作者が来日したので、複数の新聞でとりあげられていたから、気づいた人も多かっただろう。わたしは残念ながら講演には行きそびれた。イギリス人のジェイコブは17歳。祖母の代理として、アムステルダムにいる祖母と同年代のオランダ人女性ヘールトラウの家族を訪ねる。多感なジェイコブは、かねてからアンネ・フランクに関心をもっていたが、ヘールトラウ(ガンで死期が迫っていた)の手記をとおして、自分と同名の祖父とヘールトラウとの過去を知ることになる。こうした重層的な歴史発見の旅に、地理的な旅、さらには性的アイデンティティをめぐるジェイコブの揺らぎの発見などが加わり、繊細でいながら、スリリング、そして読みやすい、めったにない出来栄えの物語になっている。 ガーディアン賞では、スーザン・プライスの『500年のトンネル』(金原瑞人訳、東京創元社)が上下2冊の文庫本となって出版されている。これについては以前原書を紹介したことがある。評判になった本でもあり、ぜひご一読を。なお原書には続編が出ているそうで、そちらも気になるところだ。昨年翻訳された本でもう1冊印象深かったのが、マーク・ハッドンの『夜中に犬に起こった奇妙な事件』(小尾芙佐訳、早川書房、2002/2003年6月)である。一般向け小説部門で2003年度のウィットブレット賞の小説部門で受賞したほか、その前年にガーディアン賞もとった。主人公のクリストファーは、きまりきった手順がくずれると、すぐパニックをおこす。また他人の表情を理解する能力をもたないが、それでいてまわりのものを瞬時に(写真を見るように)見る能力に長け、数学的才能はずば抜けている。それもこれも、アスペルガー症候群(自閉症の一種)の特徴だという。そんなクリストファーが、身近におきた犬の殺害犯人を追及しようとして、自分の家族の秘密を知り、家を離れる「旅」をおこなう経過を、おもに、彼の一人称で、一部日記をまじえ、語っている本。謎解きの要素もあるし、クリストファーからの問題提起など、多面構成になっているところが現代的だ。内容は深刻なものだが、ユーモアがあり、読者を楽しませつつ、主人公を理解させる点が優れていると思う。 * 優れている本、面白い本は、賞の受賞作だけではないので、このへんでつぎの話題に移ろう。古代を舞台にした作品が目につくのも最近の傾向。イギリスのケルト文化圏を背景にしたマーカス・セジウィック『ダークホース』(唐沢則幸訳、理論社、2002/2003年7月)は、ガーディアン賞の候補になった。一人称による語りと、三人称による語りが交錯している手法は、立場の違いが、物の見方を変えることを示すのに効果をあげている。歴史小説の第一人者サトクリフも、新旧の勢力の交代を好んで描いたが、セジウィックが対立を、戦士の部族と定住型の(漁業・農耕)部族の生活様式の違いから生じるものとして捉えている点が新鮮に映った。 キャロライン・ローレンス『オスティア物語』(田栗美奈子訳、PHP研究所、2001/ 2003年3月)はイタリアの古代都市が舞台のシリーズ1作目で、AD79年というのは、ボンベイ火山の爆発を意識した年代設定だそうだ。ミステリ仕立てで、推理が得意な少女フラビアが、盗難や犬の殺害事件などに挑む。大人向けのミステリ作品に比べれば、すぐにあやしい人間がわかるあたりは物足りないが、個性的な仲間の顔ぶれにひかれた。フラビアのまわりには、隣家に住む医者の息子で投石名人のジョナサン、口のきけない孤児ルーパス、奴隷市にだされていた少女ヌビアなどが配されている。原書には続きがあるそうなので、紹介されるのを待ちたい。 シリーズといえば、去年もファンタジーなどでシリーズものは多かった。とりあえずどれも1巻目を読み、それ以外は後回しにするのだが、つぎにあげるシリーズの場合、途中でやめられなかった。ジョン・ビール『終末の日』『裏切り』『脱走』『反乱』『メルトダウン』『逆襲』(唐澤則幸訳、偕成社 2003)<2099恐怖の年>の6冊本である。高度にコンピューター化した未来の地球を舞台にしたSFシリーズ。機械化・電化された生活がつづき、人々は怠惰になっている。それに危惧を抱いた一部の人が、遺伝子操作をした新人類に未来を託そうと、ひそかに<クワイエタス>なるグループをつくる。だが、彼らの実験によって生まれた新型クローン人間のひとりデヴォンは、(グループの人間が意図した以上に)人間性がなく、ゲーム感覚でクワイエタスの計画をぶち壊そうとする。ほぼ同じ頃、コンピューターに秀でた少年トリスタンは、自分が養子であることを知り、親を調べようとしていて、偶然にもデヴォンのつくっていたパソコンウィルス「破滅の日」を作動させてしまう。彼はかろうじて途中でプログラムを停止させるが、当局に真犯人のデヴォンと間違えられ、恋人モラにも裏切られてしまう。同じ頃、アウトローたちの住む「アンダー」で暮らす少女ジェニアがコンピューターに不正アクセスし、ウィルス感染のことを知る。さらに火星では、やはりコンピューターに秀でたジェイム少年が、火星を支配しようとするクワイエタスの計画に気づき、それを阻止しようと考える。 こうしてデヴォン/トリスタン/ジェイム、ジェニア/モラの若い世代と、ネット保安局や権力者(最高会議のメンバー)たちの、地球と月と火星をまきこんだ生存のたたかいが展開する…。各人物の関係は複雑で、またトリスタンだけでなく、ほかの連中の運命も逆転また逆転となる。1巻だけではやめられなかったのは、おわかりいただけるだろう。なお、ビールほどの複雑さはないが、同様にコンピューター犯罪と家族問題を絡めたマロリー・ブラックマン『ハッカー』(乾宥美子訳、偕成社、1992/2003年6月)も、単独作品では面白かった。初心者向けのコンピューターの説明がまじっており、教育的な本でもある。ビールもブラックマンもプロットと設定が読者をひきつける原動力だが、肝心のパソコンを使う場面が、文章では今ひとつ迫力に欠けるのが泣き所だろう。映像にまさるためには、キャラクターに魅力が不可欠だが、それをも満たしてくれた本となると、すぐには思い浮かばない。(ひょっとすると馬好きのK・M・ペイトンの面目躍如だった『駆け抜けてテッサ』山内智恵子訳、徳間書店、1999/2003年11月、などはそれに近い1冊かもしれない。) * もっと続けたいところだが、持ち時間がなくなってきた。日本の作家・作品では「気まぐれ図書室」(12)で『シノダ チビ竜と魔法の実』をとりあげた富安陽子が、『菜の子先生がやってきた!』(福音館、2003年5月)『竜の巣』(ポプラ社、2003年12月)など活躍している。上橋菜穂子『狐笛』についてもすでに前号で褒めちぎった通りだ。また、講談社がYAエンターテインメントのシリーズを立ち上げたことは同じく(13)で、はやみねかおる『都会のトムとソーヤー』のときに触れておいた。同シリーズにはほかにも香月日輪『妖怪アパートの幽雅な日常(1)』(2003年10月)風野潮『満月を忘れるな!』(2003年10月)など、面白い作品があったことをつけ加えておく。 最後に、那須田淳『ペーターという名のオオカミ』(小峰書店、2003年12月)をとりあげ、今号を締めくくろう。現代ドイツのベルリンを舞台にして、保護センターから逃げ出したオオカミたちの運命と、家出中の日本人少年ふたりの運命が交錯する物語である。語り手は山本亮(リョウ)。新聞社の支局長の父親は、7年ぶりに日本に戻るにあたり、一方的に学期途中での帰国を決めた。それに反発したリョウは、日本語補習学校で元担任だった小林先生を下宿に訪ね、その下宿先の冬の庭荘に自分も居候を決めこむ。小林先生は 音楽家が本業であり、新しく日本からチェロの弟子としてアキラが訪ねてくる。アキラは両親が離婚後、ドイツ人の母と暮らしているのだが、有名チェロリストである父が、自分のコンサートの都合にあわせてアキラと会おうとしていることに内心反発していた。それぞれ事情をかかえたリョウとアキラは、冬の庭荘の住人でマックス老人が、オオカミ保護センターから脱走したオオカミを故郷の森へ逃がそうとしていることを知り、いつしか協力を申し出る。だが、親に内緒だったため、マックスにふたりを誘拐した嫌疑がかかってしまう。ふたりはまた、マックスと保護センターの所長とが幼馴染で、ドイツ分断の歴史によって運命を狂わされた間柄であることを知る。はたして彼らは、オオカミを殺そうと狙う狩猟隊や、マックスを犯人と思い込み、自分たちを探す警察の目をかすめ、オオカミたちを無事に逃がすことができるのだろうか…。 ところどころに挿入される歴史的な背景説明は、親切でありかつ必要でもあるのだが、物語の流れが中断するきらいがある。一方、オオカミの側の物語が挿入されることで、多角的に物語が浮かび上がる効果があった。全体としては伏線の張り方を含めた構成が巧みで、現在のベルリンの様子を知るおまけまであり、スリルのある物語展開にひきこまれ、読後の満足感も心地よかった。きょうはこれにて閉室。 (2004年3月) |
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