エイジ

重松清

朝日新聞社 1999


           
         
         
         
         
         
         
     
 「この作品は、一九九八年六月二十九日から八月十五日まで、朝日新聞夕刊に連載された作品をもとに再構成し大幅に加筆しました」と、本書の奥付には書かれている。なるほど確かに、初出に当たってみると、「大幅に加筆」どころか、ほとんど別物といえるほどに書き換えられ、手が加えられていることが良く分かる。ということは、この作品、初出よりも単行本の方が、作者の思惑をより鮮明に示しているはずである。
 が、しかし、実際に読み比べてみると、連載時のものより単行本化されたものの方が分かりにくいように思えるのは面白い。書き込みはされているのだ。語り手の少年「エイジ」のモノローグも、それぞれのシーンの描写も、会話も、ディテールも、実に細かな点に至るまで、間違いなく「加筆」が行われているのである。けれど、そのことが逆に、物語のコントラストを弱め、まるで被写界深度が深過ぎて前景にも背景にもピントが合ってしまった写真のように、作品全体を不明瞭なものにしているのもまた間違いない。
 真ん中に写った人物を描き出したいポートレートであれば、それは失敗作といえる。つまり、少年「栄司」が主人公の物語であるならば、この作品は失敗ということだ。だが、もちろん、そんなはずはない。ここまで手が加えられている以上、これは意図されたものなのだ。画面全体のあらゆるものにピントを合わせようとする記録写真。いやむしろ、これは一九九七年から九八年にかけての「今」を写した現場検証の写真という方がふさわしい。おそらく、そのとき、作者にとって必要だったのが「十四歳の少年」という記号である。だから、エイジは画像の中に埋もれてしまっているどころか、実は写ってすらいないのだ。風景を切り取るためのフレーム、それがエイジの正体である。
 あまりに露骨な表現であるため、引用するのは少々気が引けるが、「エイジ」について初出では「ぼくは漢字で書く自分の名前が好きじゃない。ふだんはカ夕カナの<エイジ>を遺う。試験の答案にもそう書いて、ときどき叱られる」(第二回)とあり、単行本では「ぼくは漢字で書く自分の前が好きじゃい。でも、『エイジ』という響きは、ガキの頃から気に入っていた。エイジ-age。いつかの父の話、ぼくは勝手にそれが命名の由来だと決めている」 (一七二頁)とある。もはや何の解説を加える必要もなかろうが、語り手の人物造形という点から見ても、生活実感が希薄な方向へと改変されていることが明らかである。すなわち、時代、世代を描くため、作者は語り手の少年を消したのだ。
 連載に先立つ六月二十五日の夕刊に渇載された作者イン夕ビューによれば、「通り魔事件の犯人である少年Aとエイジ」が「いつ入れ替わってもおかしくない十四歳の心の動き」「事件になる臨界点の、こちら側ぎりぎりの気分」を小説化したかったという。その方法を彼は「エイジのゴーストライターのつもりで」と表現する。
 うん、なるほど、このコンセプトは作品に(特に単行本に)結実したといっていい。意図的な風俗小説という作戦は、ものの見事に成功を納めたのだ。が、だからこそ、あえて苦言を呈したい点もある。例えば、固有名詞の「サザンオールス夕ーズ」を残し「ゆず」は外す、というタイプの判断が随所に見受けられることである。交換不能の特殊な個性と状況に依る物語を拒否し、時代の最大瞬間風速を、世代という群を描こうとしたのなら、思い切りよく一九九八年の固有名詞を残した方がカッコよかったと思うのだが…。 (甲木善久)
週刊読書人1999,03,05