赤毛のアン

ルーシー・モード・モンゴメリー

村岡花子訳 新潮文庫 1954(1908)


           
         
         
         
         
         
         
     
 一九世紀後半、カナダの片田舎に初老の農夫が妹と二人だけで暮らしていた。やがて将来に不安を覚えるようになった二人は、孤児院から男の子を引き取って農作業の手伝いをさせようと考える。ところが、どうした手違いからか、やって来たのは男の子ではなく女の子だった。それなのに、駅までその子を迎えに出た兄は、そのまま何も言わずに彼女を家に連れて帰る。

 へンな話は面白い

 『赤毛のアン』の物語はこうして始まる。最初からへンなことの連続である。男の子と女の子を間違えるというのもへンだし、いくら内気で口べたな性格だとしても、彼女に何も言わないこの兄もへンな男である。そもそも、たった一人の妹と、どちらも生涯一度も結婚せずに、二人だけでずっと暮らし続けるということからしてどこかへンで、めったにあることではないと思われる。
 加えて、この女の子というのがそれに輪をかけて変わっている。生後間もなく両親に死に別れ、身を寄せるべき親戚もなく、他人の家を転々としたあげく、孤児院に収容されたという悲惨な過去を背負っているのに、どうしてこんなに明るくしていられるのだろう。とにかくしゃべる、しゃべる。話題は、自分がしたかったこと、これからしたいこと、あるいは「もし薔薇が口を利いたら、すてきでしょうね」というような、夢または想像に関する楽しいことばかリで、それらはよどみなく溢れて尽きることを知らない。
 そして、そのおしゃべリに魅了された無口な兄が彼女を引き取リたいと妹に持ちかけ、最初は猛反対していた妹もついには兄と同じ心境になる。かくして女の子には念願の家庭が与えられ、わびしかった兄妹の暮らしはにわかに活気を取リもどすが、それでは兄妹の当初の計画は一体何だったのだろう。彼らの将来の不安はどうなったのだろう。やはリ、この話はへンである。
 というより、一般的に、読んて面白い話というのは、結局どこかへンな話なのである。

 ほんの少しの過剰、微妙なバランス感覚

 ただし、ただのへンな話が面白く魅力的な話になるためには、いくつかの条件をクリアしなければならない。ひとつには、その「へン」が、読者がそうあって欲しいと思う種類の「へン」であること。さらには、これはなるほどへンではあるが、あってもおかしくない話だと納得できるだけの何かがそこにあること。たとえば、前述した女の子-アンの有りようなどがこれに当たる。
 不幸のどん底にあったはずの子どもが、極めて明るい性格をしているということ。この嬉しい驚きを読者が素直に受け入れることができるのは、彼女のその明るさが、ほかでもない、おしゃべリと空想癖という二点によって表出されているからである。どちらも少女の特性として一般的なものであリ、その意味で読者に親近感を持たせる要素であリなから、アンの場合はその表出の仕方が少々過剰であることによって、彼女に一風変わった印象を与える要素ともなっている。そのために、彼女は大方の読者である普通の少女との接点を保ちなから、非凡な運命を担う主人公たる資格をも併せ持つことができるのだ。
 平凡と非凡、この両者を取リ混ぜる微妙なバランス感覚が、このへンな話を面白くしているのである。根っからの変人である兄-マシュウと典型的独身女である妹-マリラの名コンビも、この感覚なしには誕生しなかっただろう。

 へンであることのさまざまな意味

 そして、読者にとっての嬉しい驚き、なさそうてあリそうな「へン」は、たいていアン自身の夢の実現という形をとって、その後も作品中に次々とたちあらわれる。新しい家グリーン・ゲイブルズの周囲は「彼女が夢見てきた空想の世界のように美しかった」し、これも長らく夢見てきた「腹心の友」ダイアナを得ることもできた。孤児院出身のよそ者であるにもかかわらず、アヴォンリーの村人たちはだれもがアンに優しく、寛容だった。
 こうしてようやく人並みの境遇に身を置くことになったアンは、それを足がかりに次々と願いごとをかなえていく。常にクラスの一、二を争う高い学業成績、当時の女としては最高に近い教養、落ち着いたものごし、美しい衣装、経済的自立の手段、家事をこなす能力、ほのかなロマンス……。そして、最大の悩みであった赤い髪までがいつの間にか美しい褐色に変わリ、今や望むもののすべてを手にしたかに思えたとき、彼女の身に変化が訪れる。マシュウが急死を遂げ、グリ-ン・ゲイフルズの存続が危うくなるのである。
 アンの出現によって一時棚上げされていた兄妹の不安はこうして現実のものとなリ、読者が最初に感じた「へン」は最終的にへンではなくなる。それまで続いたアンの幸福もこれを境に先の見えないものとなリ、彼女は目前にひかえた大学進学をあきらめて、グリーン・ゲイブルズにとどまる決心をする。彼女は心からマリラを愛し、グリーン・ゲイブルズを大切に思っているのだから、これも少しもへンではない。
 そしてそういう形で、彼女は真正の非凡なる主人公へと飛躍する素振リを見せつつ、結局、夢見がちな少女のままにとどまる。これは少しへンかもしれない。だが、それは恐らく読者がそうあって欲しいと思う種類の「へン」なのである。(横川寿美子)
「児童文学の魅力・いま読む100冊・海外編」日本児童文学者協会編 ぶんけい 1995.05.10