赤い風船

岩本敏男=作
福田庄助=絵/理論社/1971年

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 岩本敏男の文学は、己を引きずって《走る》姿に象徴されるだろう――とこう書けば、八郎や三コ(斉藤隆介の同名の作品の主人公)という巨人たちの颯爽とした走りっぷりや、ジョシュやケン(サウスウォールの同名の作品『フォックス・フォーラウ』の主人公)という少年たちの苦渋に満ちた孤独なランナーの表情を思い浮かべるかもしれない。だが岩本の走りは、己(人間の個)というどうしようもなく重いものを引きずっていながら、時折ふっと笑い出したくなるような照れと迷いと下手なピエロ役者のような人間臭い演技を感じさせてしまう。それは、彼の生が己を越えた崇高なテーマを一身に背負って走るほどかっこよいものでないのと、己を犯すものにどこまでも体当たりでぶち当たっていくほどストレートに人間(自己を含めて)を信じていないせいであろう。彼自身「あとがき」で、「これは子どものためのものではないと、大の大人が言い出しました。まるで電力問題のように暗すぎるとも言われました。」と書いているが、なるほど彼の描く主人公たちは、偽善と無理解に悩む少年、貧困のため祝福を受けることのない赤ん坊……と、重くて暗い状況を引きずった者ばかりだ。だが 、だからといって彼の作品が出口のない陰鬱な世界かというと、実は不思議な安堵感、べとつかない温かさ、文体と裏腹なしたたかさを感じてしまうのだ。要するに、岩本敏男は人間を信じていない振りをしながら、つまり人間と人間が交わりあう接点に多様な悲劇を描出しながら、人間自身を、個としての人間を窮極信頼している故であろう。
 作品は「あいうえお」「赤い風船」「ゆうれいのオマル」「夜の汽車」と収録されているが、ぼくは表題作になった「赤い風船」にもっとも岩本敏男らしい世界を感じる。理由は簡単である。この作品に彼の遊びの世界、おおらかな笑いに包まれたナンセンス・ファンタジーを感じるからである。他の作品が《生》のリアルさ、生々しさに押されて、ややもすれば笑いや《遊び》が土俵の外に押し出されそうになるのに比べ、「赤い風船」は存分に笑わせてくれるし、笑っているうちに読者の胸奥に人間存在の悲喜劇の真理をすっぱりと放り込まれているのに気付くからだ。彼は物語の起伏ある展開で読ませる作家ではない。生きていく軌跡をスパッと断ち切って、その断面をシニカルなそれでいて妙にあったかいユーモアで照射していく。ホラネ町アレヨ通りのめがね屋のじいさん、ばあさんが引き起こす風船をめぐっての大騒動は、秋竜山の良質なドタバタ・ナンセンス漫画を見ているようで、大らかな笑いに包まれている。彼の風刺は大げさなセンチメンタルな行動と思考、思いもかけない酔狂な発想を土台としており、それらを人間の交わりの接点と微妙にからまりあわせることにより、作品の底に低 温部合唱となって流れる《生きること》《走ること》のテーマを浮かび上がらせ、読者の心底にズシンと響きわたる感動を伝達するのだろう。
 「そして、二人はだまって立ち上がった。店先へ出てしばらく考えた。それから、じいさんは右へ、おばあさんは左へ、アンヨ通りをまっしぐらに走り出したのである。」
 走りだす動機となったものに岩本流ズレた着想がある。赤い風船がばらまかれたことの真相はあくまでも伏せられているが、じいさんが考えたのは国籍不明の宇宙船が落とした風船爆弾であり、それからホラネ町を守るのがじいさんが愛するフラナガン博士の遺志をついで平和の教えを守ることである。ばあさんが考えたのはタカイデパートが宣伝用に落としたもので、風船をひろうと一等はヨーロッパへ御招待、副賞三百万円、二等は夢のハワイで盆踊り、副賞五十万円とのことである。じいさんとばあさんは風船めざしてひたすら走る。ここには、戦争や苦渋に満ちた人生をくぐり抜けてきた岩本の《叫び》がある。だがそれは、世界平和という精神的崇高なもの(アガペ)と一等賞金に対する利己的欲望(エロス)と突きあわせることにより笑いと遊びの世界の昇華させているし、やがて繰り広げられる大騒動の決着としての真相をさらにつみ上げることにより、思わず吹き出したくなるアッケラカンとした哀感に酔わせてくれる。
 さて、めがね屋のじいさんも走った。ばあさんも走った。「イカとタコ」の生徒たちも、その生徒たちに遅れないようにと職員室めざしてぼくも走った。「おなら」の父とぼくも走った。「おなら」の父とぼくも橋を渡って川っぷちを盗人のように背を丸めて走る。ペンキをぬってフタもつけてあるゴミ箱の家を出ても、またひたすら走るのである。「ゆうれいのオマル」のぼくは柱時計に監視されながら、無心に積木のホテルをこしらえては壊す。「夜の汽車」の中学生は、テストや教育ママから飛びだして、夜汽車でひたすら走る。――だが、一体岩本敏男は何にむかって走ってのだろうか。

 じいさんは、ときどき、自分がなぜ歩かなければならないのかわからなくなった。(「赤い風船」)
 「どこへいくの、あんた?」少女の声が遠くでした。「わらかないんです、ぼく」中学生はうっとり目をあけてこたえた。(「夜の汽車」)

 岩本は答えを出そうとはしていない。だが、ぼくたちに走ることによる岩本の闘いが《己》からとびだしてまた《己》へもどるためのものであることに気付く。彼の作品が重厚な装いをしながら、軽快なリズムとともに快いぬくもりを感じさせるのは、窮極に於て彼が人間(自己)を大切にしているからだと、はやりぼくには思えてならない。だからといって、人間存在と人間の交わりに不条理はつきもので、己と己を結ぶ線は余りにももろい。もしもどの線にも《情愛》というあつい血潮が流れたら……「うちゅう」という小品は、おそらく岩本敏男の内面をふとよぎるユートピア世界なのかもしれない。(松田司郎
日本児童文学100選(偕成社)

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