赤い子馬

ジョン・スタインベック作

新潮文庫 西川正身訳 1938/1955


           
         
         
         
         
         
         
         
    
現代の児童文学に描かれた父親像を見ていこうという中で、なぜ突然一九三○年代のこの作品が候補になったのかその経緯は忘れたが、結果としてここには、現代の弱い、迷える父親と対象的な家父長的存在の父親が厳然として描かれているのに気づいた。そして今、文明が進み、社会の構造が変わり、日常生活が苦労なく送れるようになってくるにつれて、むしろ子どもも父親も生きにくくなってきているのを認めざるを得ない。家族のより所とするものが見えにくくなってきているのだ。このたった半世紀の間に、家族のありようも、人生の生き甲斐も、大きく変わったことを改めて知った点では、この場違いとも思える本の選択も意味があったと言えるかもしれない。
 戦後すぐ、ドス・パソス、ウィリアム・フォークナー、アーネスト・ヘミングウェイ等一九二○年代のアメリカ文学を読んだ時私を刺激したのは、その異文化性だった。乾いた砂のようなザラザラした感触、強烈な太陽と深い谷間の無機質性、文明の重みにあえぐヨーロッパの文学とは違う、明るくはないがどこかに未来への展望を感じさせる力、それらに圧倒された。その中でもスタインベックは嫌いではなかった。特に『エデンの東』は映画ジュームズ・ディーンの面影とだぶって、若い心をゆさぶった。
 『赤い子馬』は一九三七年、『怒りの葡萄』よりも二年前、『二十日鼠と人間と』と同じ年に書かれている。『贈り物』『大連峰』『約束』『開拓者』の独立した短編だが、この四作で主人公のジョーディ(おそらく作者の少年時代と重なる)の成長と、物語の舞台であるサリーナスの谷の自然を描いている。
 『贈り物』はジョーデイが父親から、赤い毛並の勝気な子馬を貰って息がつまるほどうれしく、精魂こめて可愛がるが、雨にあたったのがもとで、必死の介抱にも拘わらず子馬が死んでしまう迄を描く。初めて愛するものの死という事実に直面して、少年は苦しみぬき、やがて人生の不条理をも受け入れる迄に成長する。瀕死の子馬の目玉をつつきだす禿鷲を、押さえきれぬ怒りをこめて石で叩き殺す少年の悲痛は強烈な印象を与える。ここでは父親は躾のやかましい厳格な家父長で、優しい所をみすかされると照れておこるような人物に描かれている。少年の成長に力を貸すのはむしろ雇い人のビリー・バックであり、この人物が父親の役割の一端を担っている。
 『大連邦』では、神秘に満ちた山並の彼方から、得体のしれないヒターノ(ジプシー)の老人がやってきて、「ここは俺の土地だ、俺はここで厄介になる」と言って居座り、やがい老いた馬を選んでまた去っていく。老人の誇りある死を描いて味わい深い。サリーナスの谷での少年は一時波立つが、その中で少年は、父親の困惑をみながら、人生には大人にも明快な答えの出せない問題があるのを知っていく。
 『約束』では牝馬に子ができたらやると父親に言われ、少年は誠心誠意母馬の面倒を見る。「お前なかなかよくやるな」という父親のほめ言葉は千金の重みがある。しかし子馬は逆子で難産、ビリーは母親の頭にハンマーを打ちおろし、腹部を切りさき、内蔵を歯で噛み破って子馬をとりだし、約束を果たす。
 『開拓者』。かって大陸を横断してインディアンとも戦ったというのが自慢の、母方の祖父が訪ねてくる。父親は礼をもって迎えるが、くりかえし聞かされる同じ話にいらいらする。うるさがられていることに気づいた祖父と、非礼を詫びる父親。ここには西へ進む一行のリーダーだった祖父の誇りや、今では西へ進む精神が消えてしまった、と過ぎし日を思う老いることの悲しさや、屈折した父親像が乾いた筆致で描かれている。
こうした文体で書ける家庭像、世界像は古典的なものとなってしまったが、『子鹿物語』『大草原の小さな家』などとともに開拓民アメリカを知るよき一冊である。(石沢小枝子)
児童文学評論 26号 1991/03/01