|
まずここに、二つの文章を置いてみる。「二人の男の児と二人の女の児とが大きく成ッて行くに従ッて、(略)初の内は世間に新しく出来たお伽噺の本を買ッて読んで聞かせるやうに致して居りましたが、それらのお伽噺には、仇打ちとか、泥坊とか、金銭に関した事とかを書いた物が混ッてゐたり、又言葉づかい野卑であッたり、(略)児供をのんびりと清く素直に育てよう、(略)と考へてゐる私の心持に合はないものが多い所から、近年は出来るだけ自分でお伽噺を作ッて話して聞かせる事に致して居ります。その中から三十種ぢかくを擇んで印刷しましたのが此お伽噺です」。「大正五年六月、(略)はじめて子供を得た、無限のよろこびの下に、すべてを忘れて、すずを愛撫した。(略)子供の読みものをも漁って見た。そしてことごとくが実に乱暴で下等なのにおどろき呆れた。そこで私は、別にどこへ出すといふ意味でもなく、ただ至愛なすずに話してやりでもするやうな、純情的な興味から、すずの寝顔を前にしたりして、『湖水の女』外三編の童話をかいたのが、そもそも私が童話にたづさはる、最初の偶然の動機となったのは、いつはりない事実である」 これらは、作家が子ども向けの物語を書くに至った動機を述べたものである。自分の子どもに物語を与えたいと思ったが、世間に出版されているものは「言葉づかい野卑であッたり」、「実に乱暴で下等」であったりして(おそらくどちらも、巌谷小波作品を念頭に置いている)余り感心出来ず、自らそれを作ることとしたと、両者は同じことを言っている。その動機が真実か否かはともかく、我が子以外の子どもたちに読んでもらう作品に関して、我が子のために書いた・語ったものであることを、保証書のように差し出しているわけだ。そこには童話が抱えている二つの問題が露呈している。 まず、それらの物語が商業目的によって生まれたものではなく、親としての無償の愛によって紡ぎ出されたものであると、こうした言葉はほのめかしている。たとえ今その宣言が商業出版された本の中に記されているにしても。 つぎに、これらの言葉は直接の読者として想定しているはずの子どもに向けてでなく、大人、特に親を意識して書かれていること。 それは虚偽ではないけれど、胡散臭さを漂わせてはいる。 この二つの文、前者は与謝野晶子が一九一〇年に『おとぎばなし 少年少女』に「はしがき」として書いたもので、後者は鈴木三重吉が一九二七年に、明治大正文学全集第二十八巻「鈴木三重吉」集(春陽堂)の「私の作編等について」の中で書いたそれである。晶子の書いた童話と三重吉が想い抱くそれとはおそらく相容れないものであったろうことは、晶子が「赤い鳥」に寄稿していない、または原稿を依頼されていない点からも推察されるけれど、それでも同じような動機が書かれるのは、それが童話に関する共通項であったのを良く示している。 さて、そうではあるのだが、同じであるにもかかわらず、女が書いたそれは、母性の賜物とされる。例えば最近出た『母の愛・与謝野晶子の童話』(松平盟子・婦人画報社1998)は、「与謝野晶子は豊饒な母性の人だ。母性の大きなエネルギーに突き動かされ、母としての充実を求め、生きた人だった」と記している。もちろん三重吉が「豊穣な父性の人だ」と評されることはない。 晶子がらいてふと母性保護論争をしたのは良く知られているが、国家による母性保護を主張したらいてふに対する晶子の反論は、女は母性のみに生きているのではないこと、「与謝野晶子は(略)、子どもが母親たる自分の自我の中に抱かれることを知っている、と自らの実感も語る。だが晶子が実感を語るのは、その体験にもかかわらず、『私は母性ばかりで生きて居ない』と言うためであった」(「母性を問う・歴史的変遷(下)」西川祐子 人文書院 1985)。とすれば、晶子の童話もまた、その文脈で読みとられることを望んでいるだろう。にもかかわらず、その足元をすくわれるのは、先に触れた晶子自身の「はしがき」、それが童話として認知されるための保証書も関係しているだろう。けれど、もはや書かれてしまった限り致し方なく、私たちは、その保証書の期限が切れたものと見なし、その童話を読み直す必要がある。 晶子の童話の完成度は高くない。が、おそらくそれ故なのだが、主に少女を描いた作品たちは、晶子が彼女たちに向ける期待と信頼の眼差しがかなり正直に全面に出てきている。 例えば、『環の一年間』(1912年「少女の友」)の前半部では、再会した旧友林子が「お化け屋敷」と呼ばれている所に住んでいることを知った環が訪ねていき、その真相が明らかになるというミステリアスな展開を見せる。実は林子の祖母が昔幼い娘(林子の伯母)を亡くし、世間との関係を断ち切ることで身内を守ろうと考えてしまうようになっており、それを知らない外交官の父親が林子をあずけてしまったのだ。それをどう環が救い出すのかが、スートーリーの骨子となる。家に閉じこもる祖母、そしてその犠牲となっている叔母、と二代に渡って繰り広げられれた「囚われの女」状態から三代目の女である林子が脱出する話なのだ。で、それに手を貸すのが環と君様、二人の女という構図である。ここには母性の良き力の働きなどどこにも描かれていない。むしろ「母性」と呼ばれてしまっているものによって囚われた祖母と叔母が描かれているといっていい。 また、「さくら草」(1911年 「少女の友」)は、療養のため父方の叔母の元に逗留していたことのある千枝子が、叔母が上京してくることを知って喜び、家にある様々なものを叔母と共同物にして欲しいと母親の良子に頼む。喜んでその頼みを聞き入れる良子。が、最後に千枝子が「今日から千枝子を共同物にしませう、半分づつ母さんになリませう」と言ってあげて欲しいと述べることで良子はショックを受ける。最後は父親に諭されて、千枝子が納得するように締めくくられてはいるが、母と娘であってもそれは個なのだという、母性によって覆い隠されない真実をほのめかしていて、興味深い。 童話をみる限りでも、やはり晶子は母性だけで生きているわけではないのだ。 |
|