甘くて哀しいオマケの名作
-カバヤ文庫の思い出から

野上暁


           
         
         
         
         
         
         
    
 この号は、翻訳特集である。ということで、特集の趣旨とはやや離れるかもしれないけれども、何時か機会があったら書き留めておきたいと思っていた、『カバヤ文
庫』について紹介したい。
『カバヤ文庫』は、内外の名作をダイジェストした、B6判ハードカバーで、本文二一○ぺージ余。当時十円の「カバヤキャラメル」の中に、オマケのカードが一枚ずつ入っていて、それを「カ」「バ」「ャ」「文」「庫」と、五枚集めると貰えた。中には一枚で一冊と引き替えて貰える特券のようなものもあったが、それはめったに出なかった。ビックリマンカードなどと同じように、五枚のカードの中でも「文」だったか「庫」だったかが出る割合が少なく、友達と交換しあいながら集めたものだ。
 一九五二年から五四年にかけて、週刊べースで一九五冊刊行され、発行総部数が二五○○万冊ともいわれている『カバヤ文庫』だが、あれだけ当時の子どもたちを夢中にさせたにもかかわらず、不思議なことに児童文学史的には、全く評価されていない。いや、紹介さえもされていない。キャラメルのオマケで、しかも著者名も訳者名も記されていないダイジェストの名作に、文化的な価値を見出だせなかったからなのだろうか。
 ちょうどその頃、我が家は駄菓子屋をやっていた。野球用具が当たるので大ヒットした「紅梅キャラメル」の野球カードブームが、商品が届かなかったりしてウヤムヤのうちに消えてしまった後だったので、子どもたちのカードに対する反応は早かった。キャラメルと本がどのような形で送られてきたかはよく覚えていないが、我が家の店頭にもわずかながらのカバヤ文庫があった。といっても、それは貴重な賞品だから、無闇に読むこともできない。カードを五枚揃えて本と交換にくる近所の友達の誇らしげな顔を、ただうらやましそうに見送るだけだ。それでも、お目当ての本をしまっておいて、自分のカードが揃ったときに手に入れることはできた。そうやって手に入れた本の中で、おぼろげながら覚えているのは、『ロビンフッドの冒険」『レ・ミゼラブル』『謎の鉄仮面』『快傑ウィリアム・テル』『家なき娘』『フランダースの犬』『ノートルダムの怪人』『月世界探検旅行』などだが、それらの全てを手に入れたのか、友達に借りて読んだのかはさだかでない。自分で持っていたのは五冊ぐらいだったような気もする。たしか小学校の四年生か五年生の頃だったから、一九五三、四年頃の話だと 思う。
 カバヤキャラメルでは、カバの格好をした宣伝カーを作って、その奇妙な車が子どもたちの人気になっていた。しかし、当時ぼくが住んでいた、長野県の北のはずれの小さな町にまでやって来るとは思ってもいなかった。それがどういうわけか来ることになったのだ。その日はたしか土曜日だったと思うが、朝から落ち着かなかった。学校から帰ると、まだ学校にあがる前の弟と一緒に、町の大通りでカバの車が来るのを待ちわびた。
 頭のほうが大きなカバの格好をした宣伝カーが、けたたましい音楽を鳴らしながらゆっくりと走ってきた。現在では考えられないが、車からカバヤ文庫のカードを撒くので、走り去った後には子どもたちが群がっている。一緒になって埃まみれになりながら追いかけていくと、車は公民館の広場に入った。公民館の二階の広間で「カハヤ子ども大会」があるのだという。五十畳敷きの公民館の二階は、すでに子どもたちでいっぱいだった。それをかきわけて、比較的前のほうに陣取った。舞台の上では、アコーデオンを抱えたお兄さんやお姉さんが、その頃NHKラジオで大人気だった三つの歌を真似たショーを始めた。指名された参加希望者が舞台に上り、アコーデオンの曲に合わせて最後まで歌い終えるとカバヤ文庫が一冊もらえるのだ。何度も手を上げたがなかなか当ててもらえない。そこで弟を立たせて手を上げさせると、やっと指名にありつき、弟と一緒に舞台に上がることができた。
 その時のことは、今でもはっきり覚えている。アコーデオンから流れ出した曲は「山は白銀、朝日を浴びて-」という「スキーの歌」。緊張しているのと恥ずかしいのとで、第二声で突拍子もない高い音を出してしまったから後が続かない。爆笑の中でなんとか最後までがなりたてて、やっとカバヤ文庫を一冊もらうことができた。そのとき冷や汗をかきながらもらったのが『フランダースの犬』だった。そんな訳で、何冊か熱中したカバヤ文庫の名作の中でも、特にこの作品だけは強く印象に残っている。
 年老いたおじいさんに育てられた小さなネルロと、欲張りで意地の悪い飼い主にいたぶられて死にそうになっていたところを助けられた老犬のパトラッシュ。体がきかなくなったおじいさんのかわりに、ネルロとパトラッシュは毎日町まで牛乳を運ぶ。ネルロと仲良しの粉屋の娘のアロア。絵が大好きなネルロは、教会に飾られているルーべンスの絵を見たくて仕方がないのだが、貧しくてそれを見るわずかなお金も払えない。
 働き者で正直でおじいさん思いのネルロに対する思いいれはもちろん、パトラッシュのような利口な犬への憧れ、ネルロとアロアのほのかな恋心のようなものに対するときめき。二人の中を裂こうとするアロアの父親の無理解に対する反発。父親の誤解が解けてアロアがネルロを探しにいくと、教会のルーべンスの絵の下でうずくまるようにして冷たくなっていたネルロとパトラッシュ。しかもネルロが応募した絵は、当然入賞すべき傑作だったという報われない栄誉。哀しく寂しい思いが一種の悔しさとともに強く印象に残っていた。
 その後、四十年。再びこの作品を読むこともなかったし、あえて読もうとも思わなかった。なんだかそれらのすべてが、少年の日の甘くてはかない思いと一緒に、遥かな時間の彼方にすっかり封印されていたような気がする。今回あらためて岩波少年文庫で読み返してみると、当時の記憶がまざまざと蘇ってくるようだ。そして四十年前の印象にさほど狂いは無かった。ただ驚いたのは、ネルロの年齢の意外な幼さだ。十代の少年ぐらいに思っ
ていたのだが、実際には六才に過ぎなかったのだ。これにはびっくりした。どうしようもない貧しさとの格闘が、作品上の年齢以上に自立的に主人公の姿が見えたからなのだろうか。そしてこの貧しさと、それに対するひたむきな努力、その中で垣間見た夢への憧れといったものが、日本中が同じように貧しかった時代のぼくらをひきつけたのであろうか。とともに、ついに報われなかった悔しい思いが、少年の心を激しく掻きむしったのだろう。
 現在ぼくの手元に十四冊のカバヤ文庫がある。子どもの頃に、欲しくて欲しくてやっと手に入れた数倍の冊数である。十年以上も前に古本屋で見つけ、懐かしさのあまり衝動的に買ったものだ。表紙にも扉にも、訳者名はもちろん原作者名も記されていないのが大部分なのだが、巻頭の「はしがき」の執筆者は驚くほど充実している。『少女ケティ物語」は中野好夫。アンデルセンの『ひきがえるになった娘』は石田英一郎。ドーデの『タルタラン物語』は堀口大学。グリム童話『大入道の小僧』は小松清。『ひとくい鬼』は新村出。坪内稔典の『おまけの名作-カバヤ文庫物語』(1984年 いんてる社)によれば、その他にも桑原武夫、野上弥生子、呉茂一、伊吹武彦、今西錦司、貝塚茂樹、宮崎市定などなど、そうそうたるメンバーが執筆していたという。本が無かった時代、このシリーズにかけた編集者の志と思いのたけがうかがえる。
 思い返してみると、ぼくにとっての海外の古典名作は、大部分がこのカバヤ文庫の中にあった。ちょっぴり甘くて、ちょっぴり哀しい、言うなれば貧しい名作体験だった。しかし、訳者もわからないリライトのダイジェストには違いないが、これらの本によって、そこに登場する人々の生き方に一喜一憂したり感動したりして、本の楽しさを知った。だから、古典や名作と呼ばれているものは、完訳でなければならないなどと言われるたびに、ぼくは今でも恥ずかしい思いがする。その一方で、そういう主張に一種の権威主義的な奢りのようなものを感じてしかたがない。完訳で読める年齢になるまで読まなくていいということなのだろうが、それは違うような気がする。そんなことを言っていたら、現代では読む機会を逃してしまいかねない。できるだけ読むきっかけをたくさん作るためにも、優れたダイジェストやリライトがあってもいいのではないか。もっとも、原著作者の意向を損なわない限りにおいてだが、それは難しいのだろうか。同時代のかなり多くの子どもたちに多大な影響を与えたはずのカバヤ文庫だが、前述したように日本の児童文学史では現在までのところ、ほとんど見向きもされてい ない。それも仕方がないのかもしれない。「遊びの中に名作があった」ぽくにとってのカバヤ文庫は、そんな感じなのだから、児童文学史なんてものに無縁なのがカバヤ文庫らしくてかえっていいのだ。
 この秋、講談社から『痛快 世界の冒険物語』という、現代作家のリライト競作による名作シリーズが刊行されるという。作品のラインナップを見ると、かつて『カバヤ文庫』で読んだ作品が目白押しだ。楽しみである。
パロル8号1998/08/29