|
岡野薫子は『銀色ラッコのなみだ』(一九六四)で児童文学の世界に登場した。この動物文学は、佐藤さとるが指摘したように「物語構成のたくみさ、描写の的確さ」(『ももいろのひよこ』実業之日本社、一九七〇、あとがき)に加えて、感情移入過多の動物文学とも、動物を狩られるものと見る西欧的な動物文学ともちがう独自な視点を持つものとして高い評価を受けた。彼女は、つづいて『ヤマネコのきょうだい』(一九六五年)、『ボクはのら犬』(一九六五)、『カモシカの谷』(一九六七)、『シカをよぶ笛』(一九六八)等を発表し、動物文学の新星としての地位をかためた。一方、幼年向きにも『わたしのカケス』(一九六八)、『まいごになったヤモリの子』(一九六八)、『もしもしラクダくん』(一九六九)があり、一九七〇年に『あめの日のどん』が出た。 この作品は「くろねこのどん」「くろひょうになったどん」「ねこのさんすう」の三話からなっている。第一話は、雨の日にあらわれた黒猫のどんが、えみちゃんのおままごとの赤ん坊になってミルクを飲む話。第二話は、どんがジャングルごっこをして黒ひょうの役になったところ、それがえみちゃんには、まるで本物に見えたという話。第三話は、どんが友だちの猫たちをつれてきて、えみちゃんを先生にして学校ごっこをする話である。 この作品の最大の魅力は、雨の日にだけ遊びにあらわれて、晴れの日には道で会ってもそそくさとどこかへ行ってしまう〈どん〉という猫のアイディアである。雨の日にだけ来る猫というアイディアはどこか神秘的で読者の心をつかんでしまうが、よく考えてみればさほど不思議ではない。おす猫は晴れた日など家にいないで歩きまわる。猫はぬれるのをいとう。となれば、雨の日のどんなアイディアも当然の帰結だが、このアイディアをつかむ前には、周到な観察があり、それをもとにして一つのアイディアに結晶させたところに、非凡さがある。 そして、もう一つの魅力はユーモアであろう。第一話でどんは赤ん坊になる。そして、ミルクびんでミルクをのませてもらう。 小さな びんは すぐ からっぽに なってしまいました。 「もっと ちょうだい。」 「だめ。あかちゃんは いちどに そんなに のめないの。」 「ぼく のめるよ。」 第三話のさんすうごっこでは、計算ににぼしを使う。 「じゃあね、つぎの もんだい。にぼしが七ひき。一ぴき とると――。」 「一ぴき!」 大きな こえを はりあげたのは とらでした。 とらは 六ぴきぶん、だいじそうに かきあつめています。 楽しい笑いが猫の属性から必然的に生まれていてなるほどと思わせられてしまう。この「なるほど」と思わせる自然さが、この作品をぬきんでたものにしている。えみちゃんとどんの出会いは、どんが子猫のときにさかのぼる。 そのときも、やっぱり あめが ふっていて……、そして、きょうのように どんは でまどの ところに やってきて、えみちゃんを よんだのでした。 あめに ぬれた こねこの どんは、かおじゅう くしゃくしゃで、ひげの さきから、ぽたぽた しずくを たらしていました。 雨にぬれそぼった子猫をいたわってやることは、少女としては当然のことである。このエピソードがあることによって、大きくなったどんが、雨のたびにえみちゃんをおとずれるのもごく自然なことになった。えみちゃんは、体をよくふいてやったどんがとても可愛らしいことに気づき、 「かわいいなあ。うちの ねこに なっちゃえば。」 とすすめるが、どんは、 「ぼく、いやだよう。せまいとこに いるのきらいなんだ。」 とことわる。これも、しつこくするといかにもいやそうに人の手から離れていく猫らしい答えである。 こう見てくると、猫が口をきいて女の子と雨の日だけ遊ぶユーモラスでちょっとふしぎな世界が、女の子と猫の、実生活の中でのまじわりを、つまり事実を一つ一つ積み上げ、そこからごく自然に現実と空想の境目をこえていることがわかる。これは長い間にいつしか心中に生まれてきたアイディアなのであろう。むりやり短期間に書き上げたような作品には見られない統一感があり、確固とした物語世界ができあがっている。 岡野は同じ年に、すこしも大きくならず、口がきける上に、猫よりも強いふしぎなひよこを主人公にした『ももいろのひよこ』を出し、つづいて、『コン吉とタヌキのつぼ』(一九七一)、『コン吉と山のともだち』(一九七一)、『コン吉は山のコギツネ』(一九七二)を出した。幼年文学の発想が豊かに溢れていた時期であったと思われる。その後も、『ひかるゴンドラ』(一九七七)『ミドリがひろったふしぎなかさ』(一九七七)などの佳品がつづいている。(神宮輝夫)
日本児童文学100選(偕成社)
テキストファイル化 加藤浩司 |
|