アンネがいたこの一年

ニーナ・ラウプリヒ

松沢あさか訳 さ・え・ら書房 1997

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 病気で死をむかえる主人公を考えたとき、迫真性において物語はどうしても実話にはかなわない。では、物語には実話以上の何があるのか。それは、作者の実話よりも冷静で客観的な視点と、それにこめられた読者へのメッセージだと思う。
 アンネが死んで悲しみで何も手につかないザビーネに、先生はノートにアンネの思い出を書くように勧める。夏休み、ザビーネはアンネノートを書いてすごす。
 一年前の六年生の新学期、ザビーネのクラスに、アンネが上の学年から下りてくる。先生はアンネが白血病だったことを話す。はじめ、夏なのに帽子をかぶったアンネの青白い弱よわしそうな様子にザビーネは反感をおぼえるが、隣の席にすわったアンネとすぐに仲良しになる。
 それからの一年間、学校ではもちろんのことお互いの家を訪ねたり、ザビーネとアンネはいつも一緒だった。アンネは病気のこと、両親のこと、ボーイフレンドのこと、将来の夢のことなど色々なことをザビーネに話す。またアンネは、クラスの暴力に抗議するプロジェクトに異常なほどの熱意を示す。そんななかで、アンネの病気は再発し、アンネはいなくなってしまう。
 死を受容するために思い出をつづるというのは効果的な方法である。作者はこの効果的な方法を用い、ザビーネにアンネノートを書かせるという設定をし、物語の進行も「アンネとの一年が終って」から始まり、「アンネは帽子をかぶっていた」…「アンネが風邪をひいた」…「アンネが入院した」というようにアンネの様子を追い、現実性のあるものにしている。この中から、アンネ、ザビーネ、アンネの両親の気持ちなどが実話以上に痛いほど伝わってくる。
 自分の病気が原因で両親が不和なことに心を痛め、アンネは病気の再発の不安を口にできないでいる。また、うそばっかり聞かされはれものにでもさわるような大人の扱いにアンネはいらいらしている。アンネがザビーネを夜ディスコに誘ったのは、病気の再発を知り、星占いに一途の望みをかけたからだった。病気が悪くなるにしたがって、反対にアンネの行動は大胆になる。無理に学校にも出席し、母親の反対をおしきって母親の誕生祝いを買いにザビーネと外出もする。毎日がすごく貴重だったのだ。
 アンネはザビーネに病気や死の話をするが、ザビーネのほうからはなかなか話しだせないでいる。アンネが崖の上に立っているという死を暗示する夢の話をしたがったときも、ザビーネはアンネをはぐらかしてしまう。五歳のザビーネの弟のほうが、アンネが弟を欲しいのはアンネが死んだ後両親を悲しませないためだと、ストレートに気持ちを表現する。そんなザビーネも一度は爆発し、アンネにたいして自分のつらさや腹立ちをぶつける。また、病状が悪化するアンネをみまもりながら、ザビーネにアンネを友情で支えてほしいと頼む、母親の気持ちのなんと切ないことか。
 病人や病人をみつめる人々の心理の他に、この作品にはもうひとつ作者からのメッセージがある。暴力撲滅のメッセージである。これは、クラスのプロジェクトとして作品にうまく織りこまれている。アンネは生きている証しとしてこのプロジェクトに熱中し、暴力は抗議するだけではだめで、暴力に走る前にその人の気持ちをつかむことが大切だと、クラス全員の窓をつけたクラスの家を作ることを提案し承認される。窓がしまっていればその子が悩んでいる印しなのである。 現在、いじめで命を断つ子どもの記事をよく目にする。死を選ぶほどいじめもひどいのだと思う。それでも、生きられる命を自ら断ってしまうのは、いかにももったいないし、口惜しい。暴力撲滅のための窓のことや、もっと生きたいと願うアンネとそれを見つめるザビーネやアンネの両親の気持ちをなんとかして伝えたいものである。(森恵子)
図書新聞1997年7月19日