アンパオ


ジュマ-ク・ハイウォ一タ一


金原瑞人訳
 べネッセコーポレーション 1977/1988


           
         
         
         
         
         
         
         
    
 『アンパオ』をはじめて読んだとき、ぼくは、そのめくるめく物語世界の中で既知感と居心地の悪さを同時に味わった。これってなぜか知ってるなあ、という気持ちと、これってどうなってるんだっ、という思い、ぼくがどうしてそうした相反するふたつの感情を覚えたのかを問う形で、今また『アンパオ』を読みなおしてみたい。気になるのが原題のAn American Imdian Odysseyという副題だ。『アンパオ』は、美しいインディアンの娘ココミケィスとの結婚を太陽に許してもらうべく、放浪の旅にでた太陽とインディアンの息子アンパオの冒険物語だ。その意味ではたしかに「アメリカインディアンのオデュッセイア」ではある。だがよく考えると、この表現がおかしい。インディアンの若者の冒険をなぜ敢えて『オデュッセィア」という古代ギリシャの叙事詩に例えなければならないのか? アメリカインディアンという名称についても、言語や文化の多様な北米ネイティヴ・ピープルを「白人」の論理で強引に十把一絡にしたもので、インディアンの血をひく作者が無批判に受け入れているとは考えにくい。ではインディアンによるインディアンの物語『アンパオ』の副題に、西洋文化の磁場の中にある言葉が選ばれた理由はどこにあるのだろう?
 ひとつには、『アンパオ』が普遍的に読まれることを望む作者の意識の現れだといえるかもしれない。実際、巻末に掲げられた「もとになった話」からもわかる通り、この物語は無数のインディアン伝承から材をとっている。そのひとつひとつから、ぼくたちが勝手知った世界各地の民話を連想することは容易だし、その伝承を再構成したこの物語の中に見いだせる主人公の成長過程や世界観もなんらかの普遍的象徴として読み取ることが可能だ。たとえばアンパオの分身オパンアはユング心理学でいう「影」だといえるし、アンパオが旅する「雲の上の世界」や「大地の下の世界」は大地を含めて村瀬学の「三界論」を想起させる。
 既知感の答が以上のようなところにあるとしたら、もう一方の居心地の悪さはどこからきたのだろう? その思いがつきまとうかぎリ、ぼくはこの物語を普遍的な象徴へ回収するだけでよしとすることができない。西洋的な論理に基づく普遍化では捉えきれない、インディアン特有の感性がこの物語には書き込まれているはずだ。そしてこの物語を居心地の悪く感じる理由もそこにあるのではないだろうか。その手がかりとして、逆にアンパオが居心地悪く感じたものについて考えてみたい。そこからぼくの居心地の悪さを逆照射してみよう。アンパオがめでたく太陽に出会い、大地に戻ってきたときのことだ。アンパオがたどりついたある村の人々はアンパオの持ち物に羨望の眼差しを向ける。時はすでに「白人」の侵入が始まっている時代で、この村人の態度は天然痘という新しい病とともに「白人」がもたらしたものだと考えられる。羨望の眼差し、つまリ所有の観念、物欲。そして所有の観念は「これは自分のもので、あれは他人のもの」というように「わかつ」ことで成り立っている。その観念を共有できないアンパオは、すでにその世界とわかたれた存在であリ、それがアンパオに居心地悪く感じ させる。これをぼくにあてはめると、逆にアンパオにとって自明の世界が、ぼくの入り込めない、ぼくとはわかたれたものと映り、居心地悪く感じさせたと考えられる。
 ぼくは以前、この「わかつ」論理の対極としてアンパオの世界を成リ立たせているのが「わかち合う」論理であると考えてみたことがある。アンパオは旅の途上さまざまな村で自然に受け入れられ、村人と住まいや食べ物をわかち合う。まさにそれが、アンパオの旅を成立させるための絶対条件になっていたからだ。だが今ぼくは「わかち合う」だけでは不十分だと感じている。「わかつ」/「わかち合う」は共に「わかつ」ことを肯定的に捉える点で同質だからだ。そんなことを考えていたとき、「最後に語り手から」という作者のあとがきのこんな文章が気になりだした。「語り手と語られる話は、たがいに出会った時間と空間のなかでわかちがたく一体になっているのです。」これがもしインディアン世界全体にあてはまるとしたらどうだろう。「わかつ」ものではなく、まさに「わかちがたく一体」であるがゆえに「わかち合う」ことが当然だと捉える感性。それに気づいたとき、ぼくの居心地悪さは一変してスリリングな思いになった。動物か人間か判別できない不思議な登場人物たちは自明なものとなリ、逆にアンパオが求めた知恵の中身が自明のものではなくなり、ぼくらの常識をくつがえす。 さらにつきつめると、インディアン世界と相入れない「白人」世界も「わかちがたい」ものに含みこまれる可能性がでてくる。副題のなぞを解くカギも、おそらくはそのあたりにあるのではないだろうか。まさに「白人」世界の洗礼を受けたインディアン作家ハイウォーターならではの開かれた視点だ。そしてこの開かれた視点は、一五○年前あるインディアンが白人に向けてしたという演説の一節を思い浮かばせる。「わしらは地球の一部だ/そして地球はわしらの一部だ」。こうした「わかちがたさ」を実感すること。子どもまでも巻き込んで競争と所有の論理を蔓延させる現代世界が喪失して久しい何かが、そこから見えてくるかもしれない。(酒寄進一)
「児童文学の魅力・いま読む100冊・海外編」日本児童文学者協会編 ぶんけい 1995.05.10
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