「あらしの前」「あらしのあと」

ドラ・ド・ヨング作

吉野源三郎訳 岩波書店

           
         
         
         
         
         
         
    
 児童文学で「家族」がどのように描かれているかを辿ってみようと輪読合評でとりあげた一冊。勿論家族は登場するが、これはいわゆる「家庭物語」の系譜の作品と意識して書かれたものではないように思う。むしろ主たる意図は、オランダという国の紹介という印象。ストーリーにおりこんでアムステルダム等の街やレンブラント、ヴェルメールのことが紹介される。その点ではドッジ夫人の『銀のスケート靴』などと似ている。ナチスの占領期間中の五年間をはさんでそれ以前とそれ以後の一家のありようと、オランダの状況を書いており、一番辛くて大変であったろう占領期間のことは何故か書いていない。書いていないというのは語弊があるかもしれないが、前篇の終わりで迫りくる戦火を書き、後篇は六年後の戦後から始まり、戦争中のことは回想としてでてくるだけだ。しかも前篇でおそらく多くの読者が中心人物と思って読むであろう六人兄弟の中の次男のヤンが、後篇を開くと「戦争中に死んだヤン兄さん」という書き方で出てくるだけで拍子抜けする。家族にとって最大の危機であり、困難でもあったろう戦争中のことや、ヤンの死や、ミープの戦火によるけがのことなどを書かないの はどういう意図でか理解に苦しむ。
 ここに登場する家族は、ファン・オルト一家。父は四代続きの村の医者、母も薬局をしている。家庭物語としての印象が薄いと言ったのは、父も母も偏りのない円満な性格で家族間にこれといった内的葛藤もなく、やたら人数の多い登場人物たちは、近づく戦争とか、亡命とかいう外的事象によって動かされていて、家族各人の人物造形が立体的に浮かびあがらないからだ。兄弟は六人いて、上から十八才の長女ミープ、長男ヤップ、次男ヤン、次女ルト、三男ピーター・ピム、三女赤ん坊のアンネ。ヤンは父親を見習って医者になりたいと思いつつ、つい怠け心から高校進学も難しくなっている子で、先述したように読者はこの子に身を寄せて読んでいくだろう。他の子はそれぞれの道で頑張っているが特に問題もないから。その他ユダヤ人の少年ヴェルネルやその知人の画家でドイツ人のクラウス、その妻でアメリカ人のイヴ、ミープの夫の歴史家でドイツ人のマルテンやその子ども、一家の女中ヘーシャやアーデルハイド。こうしたさまざまな国籍の人物を登場させたのには、例えば「アメリカ人の長所すべてをもっている」イブを例に、これからの国際社会のあり方についてお父さんに演説させるため かと思われる。ドイツ人のクラウスを描く時も「ドイツ人がみなナチスではなかったことがこの人を見ればわかるでしょう」という姿勢で、ここには作者のナチスにたいする怒りを風化させようという意図があるのだろうかと思わせさえする。「なんでも戦争のせいにするのはやさしいことです。なにをしても戦争が言い訳になるのです。お母さんはそんなことをやめるように言いきかせました」というのも、戦争をそれぞれの人がどう受けとめるかというしっかりとした視点なしには、すんなりとは受けとれない危険な姿勢のように思われる。おそらくこの視点の曖昧さは、作者がオランダ人でありながら、アメリカでこの作品を書いているという状況に由来していると思う。 戦争中の回想では同じ体験をした世代としては共鳴する点もある。特に戦争中秘密抵抗運動として新聞配りなどいっぱしの働きをしていたビムが、戦後はまた子どもに帰らされて退屈しているエビソードなどには共感を抱いた。
 後篇の終わりには、ヴェルネルとルトの再会と、予想される幸せな結婚、ヤップのピアノ演奏会の成功、行方不明だったクラウスの妹がみつかり、ヘーシャはまたはりきって皆の朝御飯の支度にとりかかるという大団円が用意されていて、現代的素材を扱いながら、一時代前の児童文学が備えていた古風なハッピイエンドの雰囲気をただよわせている。(石沢小枝子)
児童文学評論26号 1991/03/01