あしながおじさん

J・ウェブスター 作

恩地三保子 訳 松田穰 絵
偕成社 1912/1967

           
         
         
         
         
         
         
         
         
    
 かって魔法使いはカボチャを馬車に変え薄幸の少女をお姫さまに変えることがあっても、物語の中心に踊りでてスポット・ライトを浴びることはなかった。それは『ペロー童話』の中の「サンドリヨン」や「眠りの森の美女」を見ればわかる。彼女たちはあくまで縁の下の力持ちであって、主人公たちの名付け親としての役割を果たすにすぎないのである。善悪、幸不幸の帳じりをあわすために魔法を使うことがあっても、それによっておのれの存在を印象づけようとはしないのである。物語の結末で幸福を手に入れるのは、じぶんが支援する主人公だと知っている。魔法使いが幸福になって幕を閉じる物語など、魔法使いの思いも及ばぬことだったに違いない。ところが二十世紀初頭になって、この魔法使いの予期せぬ「シンデレラ」物語が登場した。それが、ジーン・ウェブスターの『あしながおじさん』である。
 いうまでもなく、ここにはカボチャを馬車に変えるそういう素朴な魔法使いは顔をださない。ここに登場する魔法使いは、ジョン・スミス氏など偽名を使うジョン・グリーア孤児院の一理事の姿をしているのである。
 「あのかたの名まえはジョン・スミスではないけれど、名まえは知られたくないっておっしゃるんでね。」(谷川俊太郎訳)
と、院長ミセス・リペットはいう。もちろん、そういわれるのはジルーシャ・アボット。十八年間孤児院で育った薄幸の少女である。この少女と正体不明のジョン・スミス氏とが、「サンドリヨン」におけるあの主人公と魔法使いの関係を作っていることは、この物語を一読したものは誰だって感じるだろう。ジョン・スミス氏は、この少女が想像だにしなかったようなすばらしい生活を彼女に送らせてやろうとするからである。大学に入れて好きなだけ勉強させてやろう、衣食住の心配をなくしてやろう……というのだから、ジョン・スミス氏が魔法使いでなくて何であろう。ただこの魔法使いは、ディズニー漫画風に「ビビディバビディブ」と呪文を唱えることはしない。ありあまる「お金」を呪文のかわりにばらまいて、(いや、厳密にいえば「秘書」なる存在を通して有効に使い)少女の運命を変えようとするだけである。ガラスの靴のかわりに、洋服代やクリスマス・プレゼントが、また必要なおこづかいが少女に与えられる。
 魔法使いは、「サンドリヨン」に夜中の十二時までに帰宅せよと命令したが、二十世紀初頭の魔法使いはそんなことをいわない。かわりに、少女の生活ぶりを手紙で書き送るように命令する。少女ジルーシャ・アボットは書く。
 「あなたはとてもお年より? それともほんのすこし? あなたはつるっぱげ?それともほんのすこし?(中略)背が高く、お金持ちで、女の子ぎらい、しかもあるひとりのとてもなまいきな女の子にたいしてだけ、きわめて寛大であるとは、いかなる男性なりや?」
 推理小説マニアなら、この物語の半分のところでこの魔法使いの正体を見破ってしまうだろう。しかし、ジルーシャ・アボットは推理小説マニアではない。この魔法使いがいかなる存在なりやと、物語の最後まで考え空想している。
 「サンドリヨン」では、薄幸の少女は魔法使いのおかげで立派な王子さまと結ばれた。ところが、この物語では、なんと立派な王子さまと魔法使いは一人二役の仕掛けになっている。『あしながおじさん』では、かってのあのつつましい魔法使いは姿を消し、「われこそ幸せをもたらすものなり」というように魔法使いは、主役の位置に踊りでるのだ。ペローの時代の魔法使いたちは、このことを何と見るだろう。一つの魔法の時代は終り、新たなる魔法の時代のはじまりと考えるか、それとも、人間たちが魔法使いを駆逐する時代のはじまりと考えるか、きわめて興味深い点である。
 この今様「シンデレラ物語」は、一九一二年に出版された。明治四十五年、すなわち大正元年にあたる年である。この年、石川啄木が、じぶんの歌集を『悲しき玩具』と名づけ、二十七歳で夭折した。この歌集名を、文字通り無力でやりきれない手すさびと受け取ることは誤りだとしても、この歌集名の底にはコトバを使うものの、コトバに対するペシミスティックな発想がにじんでいる。表現という行為が現実生活をどうすることもできないという屈折した心情。かりに啄木を一方の極に置けば、そうした発想とは対極に位置しているものが『あしながおじさん』である。ここではコトバというものが全幅の信頼を持って見つめられている。少女ジルーシャ・アボットは、大作家になろうと夢見ている。コトバですべての事柄をからみとる作家は、栄光にみちた存在である。それだけではない。魔法使いことジョン・スミス氏は、少女から送られる手紙(コトバ)で少女自身を理解できると考えるし、それ以上の感情を抱くようになる。この物語における魔法は、「お金」だといったが、あるいはコトバそれ自体が魔法のかわりを果たしていたのかもしれない。ジルーシャ・アボットは特異な表現力を持って いるからこそ孤児院を脱出でき、豊かな大学生活を送ることができ、あげくの果てに「王子さま」と結ばれたのである。「孤児」がコトバによって幸福をつかめるという発想。あるいは、「大金持ち」と「魔法使い」と「社会主義者」が同居できるという発想。ここには二十世紀初頭のアメリカのオプティミズムがみごとに息づいている。
 作者ジーン・ウェブスター(本名アリス・ジェイン・チャンドラー・ウェブスター)は、一八七六年ニューヨーク州に生まれた。一九一五年に結婚、翌年出産直後に死亡した。『あしながおじさん』は彼女の代表作であり、一種の青春の文学である。このすこし前に、ルーシィ・モード・モンゴメリーの『赤毛のアン』が出版されている。どちらも「孤児」を主人公にすえている。しかし「孤児」を表現するというよりも「孤児」に仮託して空想のみずみずしさを示したものというべきだろう。いずれにしても「古き良き時代」のあかしかもしれない。(上野瞭
世界児童文学 100選 偕成社1979/12/15

テキストファイル化 杉本恵三子