|
お恥ずかしい話だが、現在、我が国の絵本表現に対する批評の状況は、大変に貧しい。その原因は何より絵本という表現形態(メディア)が、これまで常に子ども(幼児)というファクターと絡めた中でしか認知されなかったという点にあるのは間違いないが、しかし、実はもうひとつ、その不幸をさらに大きくしてしまった理由がある。それは、絵本がその表現形態(フォルム)にふさわしい理論体系を持ち得なかったということだ。 絵画表現の一形態でありながら、作品としてのその完成を果たすのは、作家の描いた原画を文字と組み合わせて(文字のないものもあるが)レイアウトし、それを印刷によって複製化し、さらに製本を施した後である。したがって、版を重ねればその色合いも微妙に変わるし、版元が替われば版型すら変わることもある。そして、<本>という形に依って成り立つという造形芸術でありながら、その受容形態は時間芸術であり、さらに細かくいえば、その場合の連動・リズムが受容者の側に任されている。ストーリーがあるものもあれば、無いものもあり、それぞれの画面の中に空間性と時間性を持ち、それらの複合体としての<本>の中にも、当然、空間性と時間性がある。 そう、これが「絵本」である。これまでの消費形態による既成概念を取り払い、虚心に、そのフォルムを見つめた時、見えてくるのはこんな「絵本」の姿である。 にもかかわらず、巷にあふれる絵本の関係書はといえば、「子ども」「成長」「教育」等とベッタリ癒着したものがその大半を占め、たまに絵本の芸術性を謳い上げる本があるかと思えば、それは単に現代美術の理論を移行しただけの衒学的なものに過ぎなかったりする。 本書は、このような現状に向けて一石を投じた技術書、兼、思想書である。著者・長谷川集平は、絵本作家であると同時に、1978年『絵本宣言序走』(すばる書房)から、『絵本づくりトレーニング』(筑摩書房)『絵本未満』(大和書房)そして、絵本ジャーナル「Pee Boo」(ブックローン出版)への関わりを通し、一貫して、絵本批評の理論構築を目指してきた。彼の理論の根幹をなすのは、映画におけるモンタージュ理論を援用して絵本というフォルムを捉えようとするものであるが、本書では、それを自らの作品『土手の上で』を論ずるという形で実践的に披露してくれる。しかもそれは、作品の表紙から奥付け・見返しまでをむ含む丸ごとの採録の後、引き続いて、縮小画面への書き込みを行ないながら、解説してしまうという荒技である。 この他にも、絵本制作を手軽に(?)体験できる「おべんとう絵本」の作り方と実践、精神科医・稲川美也子との対談による「絵本心理学」「豆絵本のすすめ」「絵本はだれのものか・商売とラヴとプライド」「絵本の文体論」と、本書にぎっちりと収められた内容は濃厚であり、著者の絵本にかける思いがひしひしと伝わる熱い本である。 絵本の書評等にも手を染める者の端くれとして、僕もこの思いを謙虚に受け止めよう。そして、だからこそ、本書について感じた不満も書いてしまう。89頁で著者は西郷信綱の「テキストは読むという行為を通して私たちの意識のなかに、まさに文学作品として構成されてくる」という言葉を引用し、それを「そのまま絵本にも当てはまる」という。けれど一方で、自作について「ここでの多くの実験に気づく人がどれだけいるか」と平気で書くのは何故なのか。また、商業主義によって「すぐれた絵本」が消えていく話の後、そこに自作である『はせがわくんきらいや』の事情を迷いもなく当てはめてしまうのは頂けない。まさか、著者の意識の中に<芸術/普遍的心理/非商業的/自作>というイメージの連鎖があるのではなかろうが、少なくとも評論である以上、自作に対しての精神的な距離をもっと取る必要があったのではなかろうか。この点だけは返す返すも残念である。(甲木善久) |
|