エーミールと探偵たち

エーリヒ・ケストナー
高橋健二:訳 ケストナー少年文学全集 岩波書店

           
         
         
         
         
         
         
     
 「子どもらしい子ども」。これは奇妙な言葉です。というのは子どもは子どもであることだけでもう子どもであるに違いないのですから、「らしい」も「らしくない」も成立するはずはありません。けれど「男らしい男」や「女らしい女」などの言葉が社会(文化)がイメージしたり求めたりする「男」や「女」の存在によって流通してしまうのと同じく、「子どもらしい子ども」という言葉も成立しています。つまり、大人がイメージしたり求めたりする「子ども」らしい「子ども」です。
 この物語は一見「子どもらしい子ども」を描いた代表的なものに見えます。「エーミールは模範少年だった」と語り手は堂々と述べています。続けて「しかし、おくびょうで、欲ばりで、ほんとに子どもらしくないため、そうなるよりほかなかったような連中ではありませんでした。彼は、模範少年になろうと思ったから、なったのです!」。なぜかといえば、「彼は、学校や方々でほめられるのが好きでした。それは、じぶんにとってうれしいからでなく、おかあさんをよろこばせるからでした」。ええ子やなー。と同時に、エーミールが自分以外の別の人のために、「模範少年」になっていることも見逃せません。彼は「子ども」を演じているのです。子どもは子どもを演じること。ケストナーは自らの経験でそれをよく知っていました。だから、「ええ子」にもかかわらず、エーミールは子ども読者の人気を得たのです。
 さて、祖母に届けるはずのお金を盗まれてしまったエーミールが、犯人を捕まえるためにベルリンっ子とともに活躍するこの物語、大人の力を頼らないようにするため、エーミールが警察に行けない理由(銅像に落書きしたのがばれるのを恐れている)を作るのですが、同時に、彼が、大人は子どもの話しなんか信じてくれず、泥棒(大人)の言い分を信用するだろうと思っているとも記しています。これもまた、子どもが大人をどう見ているかをうまく書いていて、子ども読者の共感を呼ぶでしょう。
 つまりこの、「一見『子どもらしい子ども』」は、実のところ、子どもが思う「子どもらしい子ども」なんですね。
 探偵団を作り、役割を決め、子どもの知恵と勇気で泥棒を追い詰めていくエーミールと探偵たち。メンバーが他の子に話したためベルリン中の子どもたちが集まり、泥棒を取り囲んでしまうシーンは、子ども読者にとって、子どものパワーが大人を圧倒してしまう、一瞬の快感です。もちろんそんな事態はまずありっこないことも子どもは知っているでしょうけれどね。(ひこ・田中
徳間書店子どもの本だより2000/04