エレベーターで四階へ

マリア・グリーペ

山内清子訳講談社 1995


           
         
         
         
         
         
         
     
スウェーデンの国際アンデルセン賞受賞作家の最新三部作の第一巻。
十一才の少女ロッテンは、母親が住み込みの家政婦になったため、部屋が十五もあり、使用人もたくさんいる立派な家の一室に移り住む。エレべーターのあるお城のような建物の4階がご主人様の家。エレべーターが今ほど普及しておらず、一部のモダンで豪華な建物にしかなかった当時、ロッテンはもちろんまだエレべーターに乗ったことがない。書名は、そんなロッテンがエレべー夕ーで昇った上の世界で垣間見た、未知と憧れの上流社会を象徴する。
物語は、ロッテンの自我の目ざめを縦糸に、彼女と周囲の人々との交流を横糸にして、様々な人間模様を織り上げる。従ってプロットは、突然上流社会の一隅に身を置くことになったロッテンの日常生活、特にこの家の娘でロッテンより一才年上の少女マリオンや奥さまのオルガとの交流や、思春期の娘ならではの母親との葛藤などを中心に展開する。
ロッテンと母親との衝突の場面はリアルで両者の心理が実によく捉えられている。自分たちに与えられた部屋から出るな、声をたてるな、という母親に対し、ロッテンは強く反発し、「人はその存在を認めてもらうべきものだ。そうでなければ、生きている意味がなくなってしまう。」と言う。また他人、特にご主人様たちには気に入られるようにしろ。という母親に、ロッテンは「あたしは、どう思われようと、ぜんぜん気になりません。」と言って自分らしく生きることを主張する。ここに表れているのは、親と子、あるいは大人と子どもの違いというよりは、むしろ人間の生き方、人生観の違いと言えよう。なぜならロッテンのように他人の目を気にせず、自分らしく生きる大人として、オルガやロッテンのおばあちゃんを登場させている。しかし女手一つで娘を育て、若い頃から苦労し続けてきたため、なるべく目だたず、他人から注目されずに生きていきたいと望むようになった母親に対する作者の目は暖かい。
また母親とロ論した後、ロッテンは真剣に考える。「大人は、子どもというものを、よい子か悪い子のどちらかにきめている……大人は、子どもに関係なく勝手に、あるべき子どもの姿をきめてしまっている。大人の考えたあるべき姿の子どもでいようとする子はかしこい子としてほめられ、そうでない子は、ばかだといわれて、しかられる。」と。
大人に対するこうした鋭い批判とともに本書の魅力となっているのは、現実の中で起こる何とも不思議な現象である。母親からロッテンがもらった便せんに描かれている子ネコの絵が、後にマリオンが連れてきて二人で交代で世話をすることになるマーマレード色の猫とそっくりであったり、左ききのマリオンの洋服を、右ききのロッテンが着ると、ロッテンまで左ききになってしまう。まだオルガの二つの目が、それぞれ悲しみと幸せという別々のものを表しているというのも、たとえそれが象徴的な表現だとしても、何とも言えず神秘的である。
ところでオルガの右目に表れている絶望的な悲しみとは一体何なのか。秘密の娘に関することなのか。その娘は今どこで何をしているのか。また、ロッテンとオルガのただならぬ関係も気にかかる。「オルガはすでにロッテンにとってぬぐいさることのできない存在になっていた。オルガは幸運、自由、美なのだ。」「オルガのことを考えると、とつぜん、最も美しい幻想が、現実を打ちたおしてしまう。」「もう一度オルガの笑い顔があらわれた。いたずらっぽく、きらきら輝くひとみ。」のかがやきには、抵抗できないものがある。」これらの表現から、オルガはロッテンにとって、単なる自分と同種の憧れの女性以上のものであり、両者の間には、もっと運命的でのっぴきならない関係がある、と感じてしまうのは私だけであろうか。
後続の巻は、これらの疑問に答えてくれるのだろうか。邦訳が楽しみである。(南部英子
図書新聞1995/09/30