エルクの日記

A・ローズ作

清水真砂子訳 あかね書房


           
         
         
         
         
         
         
     
一九三九年、エルク十二才、物語はここから始まる。そして終りが一九四五年、エルク十六才。その間に戦争がユダヤ人少女の運命をどのように変えていったかの物語であると共に、子どもから思春期をすぎて大人へと成長してゆく。一人の少女の姿が描かれている。
すでにいくつかのユダヤ人迫害の物語を読んできて、戦争と民族という二重の苦しみによって徹底的に追われ、殺されていった人々を見てきたあとでは、この作品はまだ救われる思いであった。この物語の主人公は逃れることができた。自由の国アメリカへ。その後の彼女の苦しみは生きることが保障されている中での苦しみである。今日の我々と同じように。他の物語の人々や、この物語のララやギナは迫害されること、殺されることが待っている未来に向ってゆくだけなのである。もっともそれは歴史的事実を背景に重ねつつ読むということを我々がしているからで、その人たちは未来に何が待ちうけているか知らずして物語の中を生きてゆくわけで、-歴史をまだ知らない子ども読者もそうなのだが-私のような自然な感情のままに読む読者はそのことがまたいっそう辛いのである。
大波に呑みこまれてゆくララやギナを気づかい、彼女たちと祖国への思いに引き裂かれながらも、エルクはナチの手を逃れてやってきたアメリカで、青春を花開かせることができる。
同じ時代、自由の国アメリカも戦争と関わらざるを得なかったのであるが、エルクがかかえもつ戦争と民族の問題はアメリカの人々の思いとあまりにも異っていて、彼女は断絶を感じる。しかしそれ以前の、祖国べルギ-においても彼女の民族は孤立していたのであって、宿命として常にそれは前に立ちはだかり、のり越えてゆくべきものであった。エルクの青春が二重三重の苦渋の中で花開いたものであることは、まずまず読みとれるのだが、十分に感動的に伝わってこない物足りなさはある。
その原因はキャラクターの類型化と浅さ、それから日記体の中に手紙とニュース記事を折りこむ構成の仕方にあるのだろうか。
早くから社会正義に目覚め、美しく、自らの生きる理想を貫ぬいて死んでゆくララ。惨めにも運命のままに押し流されるより仕方のなかった、幼な友達のギナ。彼女をめぐる不信と愛が、とぎれとぎれの情報へのいらだちと相まってエルクを苦しめる。エルクに好意を寄せつつ、レジスタンスの中で生き残ってゆくシャルル。エルクと同じ事情、同じ悲しみをもち、共にアメリカに同化してゆくイーヴ。これら若者たちの心が訴えてくるものは伝わってくるにせよ、類型的印象もある。日常の細部がないからかもしれない。日常の場面で描かれているエリーゼ叔母さんやブラウンさんがよく描かれているということからも、それはいえる。「アンネの日記」で非日常の中の日常が克明に描かれたことでまわりの人々とアンネ目身がくっきり浮かび上って見えた、それはここにもある。
勿論、心の中の深みをたどってゆく、日記本来のありようと、ここでの使われようの、そもそものちがいは、考えられねばならない。ここでこの形が使われているのは、主に歴史的事実とその年月日が背景にあり、それ自身の役割りを受けもつことと、時間の推移を演出しているといえないだろうか。その構成の上でニュース記事や手紙と同じ使われ方をしている面もあり、それは効果的にはたらいていると見ることもできる。
最初は何日かおきの、ていねいに書きこまれた文章が続くが、情勢の変化、生活の変化の中で、はげしい感情の起伏をぶつけた短い文章や、伏字だらけの絶望の手紙や、ショッキングな新聞の見出しが、時代の揺れと少女の心の揺れを表出する。そして終戦のあと故郷へ帰り、人々の消息を知り、始めてわかった事実を、今や大人になろうとするエルクが受けとめる。そこでの静かさ。日記体が、必要とされる構成の中で単調になることを救って、効果的に働いている面はたしかにあるのである。ひたすら重く重くなってしまいがちな史実を、子ども読者に受けとってもらうため、技術や方法に工夫がこらされることは当然であり、その中でなお、文学としての感動を、私たちは求めっづけるわけである。(松村弘子)
児童文学評論22号 1986/03/31