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ペーター・ヘルトリングといえば、『ヒルベルという子がいた』や『おばあちゃん』などの作品がすぐ頭にうかぶ。ヘルトリングは現代西ドイツで最も人気のある作家の一人で、様々な社会問題をテーマにした作品を書いている。『ヒルベルという子がいた』では悩に障害のある子どもを取り上げ、『おばあちゃん』では交通事故で両親をなくした少年とおばあちゃんの生活を描く。『ヨーンじいちゃん』は老人と死をテーマにして、『ベンはアンナがすき』は十歳の少年の初恋の物語だ。去年訳された『ぼくは松葉杖のおじさんとあった』は第二次世界大戦を舞台にしている。テーマは様々だが、人間(特に子ども)の心に対する深い理解と相手を尊重する態度はどの作品にも一貫している。 本書はヘルトリングの短編集で、一九七O年から一九八一年までに発表された子ども向けの短編を集めたものである。この期間は前述の長編が書かれた時期とほぼ一致する。また、個々の短編のテーマも長編のテーマと重なるものが多い。 「ニンジン」、「トランク」、「車いすの人」は、『ぼくは松葉杖のおじさんとあった』と同じく戦争をテーマにしている。「ニンジン」は、戦争で飢えに苦しむオットーは家主の畑のニンジンを盗む。家主にみつかりひどく殴らてニンジンも取り上げられる。オットーの飢えを知っていた家主がどうしてニンジンだけでもくれなかったか、今でもオットーは不思議だ。「トランク」は、終戦の年のクリスマスイブ、ゲオルクたちはすしづめの貨車であてもない旅をしていた。ゲオルクは遠くの家の窓にクリスマスツリーをみつける。クリスマスを祝っているその家の人々を、ゲオルクは憎む。お母さんがトランクからゲオルクにとショールをだしてくれる。ショールの暖かさがゲオルクにはうれしかった。「車いすの人」は、ギリシャの独裁に反対して拷問をうけ体の自由を奪われた元兵士と友人の涙の対面をテレビで見て、わたしは拷問係りのような人間に も自由を与えていいのか、考えこむ。この三編は、ヘルトリングが体験した戦争の悲劇が下敷きになっていて、それだけ戦争に対する怒りの激しさが伝わってくる。 これも戦争を舞台にしているが、荒れ果てた国の中を意地悪なおばあさんから逃げる男の子と女の子の話「もうひとつのめっけ鳥」は、グリム童話の「めっけ鳥」と現実がいりまじった不思議な作品だ。 「黄色い少年」は、ドイツ人の里親に引きとられたベトナムの孤児のマルクは黄色い肌のため学校でいじめられる。人種差別をテーマとして社会の弱者を扱ったこの作品は『ヒルベルという子がいた』に通じている。 表題作の「家出する少年」や「さすらう人形」は、子どもの心を深く理解しているヘルトリングならではの作品だ。「家出する少年」は、今は画家の少年時代の話。家の外の自然の中で空想にふけりたいエルビンは家出を繰りかえす。そのうち一人の画家と知り合って、家出するかわりに絵の中に入るようになる。このテーマは『テオはにげだす』と同じだという。「さすらう人形」は、いろいろな女の子の手に渡る人形の遍歴の話だが、女の子の気持ちと共にもの言わぬ人形の気持ちまで伝わってくるようだ。 ヘルトリングは環境問題にも関心があるというが、歯が伸びすぎてしまった「ウサギのテオドール」や建設機械に追われては引っ越しする「小さな木の旅」にはそのテーマが見られる。 「うちの子どもたちのおしゃべり」をはじめヘルトリングの四人の子どもたちの生活を題材にした作品は楽しい。これと合わせてあとがきの中の成長した息子にあてた「よびかけ」という詩を読むと、真剣に子どもと向かいあう父親像がうかびあがってくる。 この短編集は、作家として人間として、ヘルトリングの様々な面を見せてくれヘルトリングを身近な人にしてくれる。ただ、あくまでもヘルトリングの本領は長編に発揮されるのではないだろうか。(森恵子)
図書新聞 1989年2月25日
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