イギリス童謡の星座

内藤里永子篇
吉田映子訳 大日本図書 1990

           
         
         
         
         
         
         
     
 イギリスの子どもの詩一ヒ○篇あまりを、シェクスピアの詩の星座、ウィリアム・ブレイク、エドワード・リア、ルイス・キャロル、クリスティーナ・ロセッティ…・・・等々の星座に見立てて、内藤里永子さんが、その星座への案内人となり、吉田映子さんの日本語訳を通して、読者に、それぞれの詩のもつ美しさ、不思議さ、魅力をやさしく語りかけてくれる案内書が出版された。

 イギリスの児童文学では、詩と劇と物語がどれが一番とはいいがたく三本の柱であるにもかかわらず、日本への招介は、物語がどうしても中心になり、詩と劇は結果的にいって軽視されてきていた。それだけに他に類書のない子どもの詩についての系統的な紹介が『イギリス童謡の星座』においてなされたことは、大きな喜びであった。著者は、いかにも楽しそうに『うれしそうに、大切に、大切に、一遍、一遍をとりあげていく。著書の感性の網にすくいとられたお気に入りの詩の数々にふれて、詩の案内書として持つべき一番大切な役割、読者にもっと読みたい、英語でも読みたいという気持ちをわきたたせてくれる。詩を楽しむ心がよくよ伝わってくるのである。
 題名の『イギリス童謡の星座』で使われている童謡というのは、半裸委に意味では、子どもが歌う歌の意であるから、本書が取り扱っている子どもによまれうる詩という意味ではおかレいのだが、著者は、 「定義や範囲にとらわれず、子どもが愛し、感嘆し、魅せられてきた韻文を、とりあえず童謡と呼ぼう」(「あとがき」より)と、意識的に誤用してはばかりない。こうした自在さが、本書の特徴をなしている。
 イギリスの子どもの詩を紹介するにあたってまずシェクスピアを登場させている。イギリスで出版されている子どものための詩選集の殆んどのものに、ごく当り前のようにシェクスピアのものが入っているので導入としても、また、子どもの詩を、子ども読者を意識して作った詩人に限定しないという態度表明としても妥当な見識だと思われる。子どもの詩の「子ども」というところに囚われずに、子どもの詩を解説じていくのが好ましい。
 しかし、系統的な子どもの詩の案内書として再読したときには、ひっかかるところも多い。シェクスピアでは、英語の原詩がついていて、英語でよむおもしろさが語られているのに、二章以後は、日本語訳だけになったのはどうしてだろう。また、極み付けの名詩とされているもので取りあげられていないものが多い点(一例"ブレイクの「虎よ]、キャロルの「セイウチと大工」など)、「第十二章絵本になった詩」はあまりに恣意的すげるし、「第十三章物語のなかの詩」は、このテーマだけで別の一冊をつくってほしいし…。最終章では、イギリスの詩から離れてもっと大きい視野で子どもの詩を俯瞰したいという意図は了解できるものの、現代のイギリスの子ごもの詩の状況にせまってもほしかった、等々である。 いくつかの気になるところがあるものの、充分に楽しみ、満腹した一冊ではあった。(三宅興子)
読書人1990/09/10