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うさぎは、かみさまの言いつけを聞けば願いを叶えられると信じて、とらとわにとさるをだましてたたき殺す。わにを殴っているときや、さるをだましているときのうさぎの表情が印象的だ。特にその目は陰険そのもの。そう、この絵本のうさぎはワル者なのだ。でもこのワルイ顔が、なぜかカワイイ。どしてだろう? それは、うさぎが小物だからではないだろうか。ほかのけものにいじめられないように大きな体が欲しいというそもそもの願いも、そのスケールの小ささが小物らしい。そんなささやかな願いを叶えてもらおうとうさぎは悪事を重ねるが、一方のかみさまはいかにも大物らしいいい加減さで平気で約束を破ってしまう。かみさまの奴、小物の必死のお願いなんかなんとも思っちゃいないのだ。 連続三匹殺害という、大それたことをやってもやっぱり小物は小物。そんなうさぎの姿にぼくは共感を覚えるのだろう。そうなのだ。ちっぽけなワルとは、多かれ少なかれ、ぼく自身のことなのだ。それはないでしょう、という理不尽な裏切りにあうのも、小物の現実生活ではよくあることだ。 現実はキビシイ。ちっぽけな自分の存在を思い知らされることが何度もある。その厳しさからぼくたちは目をそらしてしまいがちだ。子どもには、現実の厳しさや醜さに触れさせないようにと思いやる。苦い現実を語るよりも口当たりのいいおとぎ話を聞かせるのがふさわしいと考える。ところがこの話にしても『たことサボテン』(河出書房新社刊)にしても、メキシコの昔話にはそういう厳しさを敢えて語ってしまうところがある。そこにあるは、むきだしの現実の厳しさを受けとめる強さだ。ぼくが北川民次の絵に惹かれるのも、そういうメキシコ的な、タフでドライな強さを感じるからだろう。 「大きくなりたい」と願うのではなく、小物ながらも自分の置かれた現実を受けとめられる、しっかりとしたシンが欲しいのだ。 (トール) かわいい小動物の代表のように扱われるうさぎですが、私は怖いです。子供のころ従姉妹がパンダうさぎを飼っていて「指を近づけるとくいちぎられる」「大きくならないと言うから買ったのに、頭はそのままで胴体だけ大きくなっている」「普段鳴かないが、怒るとものすごい叫び声をあげる」などとおどされていたからでしょう。実際のうさぎにしても、一点を見つめて、ひたすら口を動かしているだけで気味が悪い。そう感じるのは私だけではなかったようです。 「ちっぽけなみすぼらしい体だから、他のけものにいじめられて殺される」と神様に泣きついたうさぎ。虎とわにと猿の皮を剥いで持ってくれば大きくしてやるという神様の言葉に忠実に、うさぎは次々と殺戮行為を成し遂げるのです。はじめは無理難題を与えられて途方にくれ泣いていたうさぎなのに、知恵をしぼって何とか虎を手にかけてからの変貌ぶりがすごい。ページをめくるにつれ、どんどん目がすわり肩がいかってきて、最後にはしっかり悪人面になっているところが笑えます。 ときに神様はずいぶんと理不尽なことをするものです。言いつけどおりうさぎが三枚のけものの皮を神様の前にひろげたところ「このうえ体まで大きくしたら、きっと森中の動物を殺してしまうにちがいないから、やーめた」なんて。でもまあ、せめてひとところだけでもってことで、うさぎは耳だけ大きくなったという、アステカ時代のメキシコの昔話。 小さく弱々しいはずのものが何かのきっかけで結構なワルになったり、絶対的存在の神様が手のひら返したりする世界は、勧善懲悪ものの昔話とはひと味もふた味もちがう。大きくなりたい欲望のために、内なる悪魔を育てて人が変わってしまったうさぎ。「いつか耳の他も大きくなってやる」と心に野望を秘め、鳴くのも忘れてもくもくと草を食べているのでしょうか。 (大林)
「25才児の本箱」(大林えり子&澤田暢)
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