|
著者のアヒム=ブレーガーは現在西ドイツを代表する児童文学作家の一人で、『おばあちゃんとあたし』は一九八七年のドイツ児童文学賞を受賞している。ブレーガーは、自分は「未来のおとなたちのために」物語を書いていると言っている。未来のおとなたちのために、老いや死、性の問題など児童文学が避けがちなテーマを正面から取り上げて、しかもその筆遣いは暖かい。 『おばあちゃんとあたし』のユタが学校から帰ると、いつも迎えてくれるおばあちゃんの姿が見えない。おばあちゃんは青い顔をしてベッドに寝ていた。おばあちゃんが死んでしまうかもしれないと不安になったユタは、お使いに行こうとして出会った同級生のディルクに思わず「おばあちゃんが病気なの」と話す。ユタはディルクとふだんは話をしたこともなかった。動く度にベッドをミシミシさせるおばあちゃん、お話を聞いているうちに眠ってしまったユタをベッドまで運んでくれるおばあちゃん、おばあちゃんがいれば雷も平気だと、おばあちゃんの写真を見せながらユタはディルクに話す。おばあちゃんのいないディルクは話を熱心に聞き、おばあちゃんのことを一緒に心配してくれた。ディルクに付いてきてもらい、おばあちゃんのことを聞きたいとユタはお医者さんの所に行くがこわくて呼び鈴を押せず、またおばあちゃんの部屋の前まで行くがドアを開けられない。最後、少し元気になったおばあちゃんと話して、やっとユタに笑顔が戻る。 思いもしなかったおばあちゃんの病気に動揺するユタ、おばあちゃんのことを話しながら二人して老いと死を感じ考えるユタとディルク。老いと死をテーマにした作品にはエルフィー・ドネリーの『さよならおじいちゃん…ぼくはそっといった』やペーター・ヘルトリングの『ヨーンじいちゃん』があるが、テーマは同じでも本書はおばあちゃんの死は描かずユタとディルクに話し合わせるだけである。老いと死の見詰め方として新鮮なものを感じた。特に、ユタと同じ十才ぐらいの子供にはこの方が受入れやすいだろう。またユタの気持ちを追って話が進んでいくので、ユタの感じるところはそのまま子供の感じるところになるはずである。 本書には嬉しいおまけが付いている。おばあちゃんの病気のおかげでユタにボーイフレンドができるのだ。初めは皆と同じにディルクを馬鹿にしていたユタだが、親身になって話を聞いてくれるディルクに次第に引かれていく。ディルクの秘密の部屋で遊んだりお互いの秘密の十字架を見せ合ったり、おばあちゃんを心配しながらも二人が仲良くなっていく過程はこの作品のもう一つの大きな魅力である。 また「だんだん年をとると、物事がわかってくる。なにがいちばんだいじなのかおばあちゃんにはわかるようになったから、ユタにはもう、パパのときみたいにきびしくしない、だいじなのはユタなんだ」というおばあちゃんの言葉はおばあちゃんというものの本質をずばり言い表わしていて印象深い。 『ぼくはきみが好き』のミックは十三才。母と妹と義父と共に北ドイツの小さな町に引っ越してきた。親友と別れた寂しさ、思春期というレッテルを貼って自分を見る両親、義父とのぶつかりあい、妹の我が儘、新しい生活は頭にくることばかりだ。しかし、ミックはそこで同じ年の少女ユリアことエスターと知り合い恋をする。ミックの世界は一変する。だが、せっかく仲良くなったユリアも家の都合で引っ越してしまう。しばらくぶりで再開したとき、二人には別々の恋人ができていた。 数か月間のミックの生活を描いたこの作品の中心となるのは、ミックの初恋である。それも十三才ぐらいの少年の性をストレートに表現している。性感、精子、セックスなどの言葉がぽんぽん飛び出し、少年の性的欲望や行為、それに伴う戸惑いや恥じらいが描き出されている。どきっとするような描写もあるのだが、ちっともいやらしさを感じさせず爽やかなのは、全てがミックのモノローグを通して語られているからだろう。「ユリアの首すじの、あのうぶ毛。あそこにちょっとだけでいいから、ふれてみたいなあ…ユリアにふれる…。うわあ、思っただけでかーっとなってしまう」という具合である。 本書は全編をミックのモノローグで綴っているが、各章の終わりにはミックの家庭の状況を客観的に述べた報告を加えている。交互の視点を交えたこのユニークな手法は、ミックと家庭、特に親との関係を明確にしてミックのおしゃべりに厚みを加え、一人の少年の内面世界を余すところ無く見せてくれる。大人の入り口にある読者ばかりでなく、思春期の男の子を持つ親にとって下手な育児書よりずっと役に立つ一冊だと思う。 なお、ドイツではこの作品をもとに、少年達のディスカッションが繰り広げられるそうである。(森恵子)
図書新聞 1988年8月27日
|
|