おばかさんに乾杯

ウルフ・スタルク

石井登志子訳 ベネッセ・コーポレーション 1992


           
         
         
         
         
         
         
         
    
 少女シモーネの十一歳の誕生日は散々だった。母が娘の誕生日を覚えていないのは毎度のことだが、今年は格別みじめだった。母の恋人でうんざりするイングべと一緒に暮らすために、住みなれた市内のアパートから郊外の家へ引っ越さなければならなかったし、その引っ越しの際に愛犬キルロイが行方不明になってしまったのだ。しかも転校先の学校では、何の手違いからか、シモーネSimoneではなく、語尾にeがないシモンSimonという男の子だと勘違いされてしまう。
 訂正しそびれたシモーネは、髪を短く切り、ハード・ロック調の服装に身を固めて、学校では喧嘩っぱやい男の子ことして振る舞う。他人のジャンパーを失敬し、その罪を級友イサクになすりつけたり、その仕返しにイサクにはめられてカンニングの罪をきせられたり、男子ギャングの仲間にまじって秘密の小屋でたばこを吸ったり………。またすっかの男の子が板について、イサクと一緒に男子トイレに入り男子便器の前で並んでしまいそうになったり、男の子であることを忘れて女子更衣室に入り痴漢と間違えられたり、男の子のふりをしているために色っぽい少女カテイにキスされたり、とコミカルな事件が続く。
 しかし読者にとってはコミカルなこれらの事件も、シモーネにとっては不本意だ。家庭では今まで通りの普通の女の子として振る舞うシモーネの唯一の相談相手は、引っ越しの翌日、老人長期療養所から死を予感して抜け出してきた母方のおじいちゃん。物心ついた時から父を知らないシモーネにとって、父親でもあり神様でもあったおじいちゃんは、人間は、おめでたいがむしゃらなばかと、用心深く無感動な利口者の二手に分かれ、それぞれの生き方をするしかないと言う。
 母子家庭の子どもが母親の恋人と同居するという深刻そうな設定にもかかわらず、物語全体の雰囲気はカラッとレていて、抱腹絶倒なおもしろさがある。それはまちがいの喜劇をべースに、その中で甘えと自立の間で揺れ動く思春期の少女の心理を見事に描き出し、人生に対する深遠な洞察を折り込み、全体としておばかさんとして生きるのも捨てたものではないというおばかさん讃歌に仕立てているためであろう。(南部英子
図書新聞1922/04/04