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別冊宝島『音楽誌が書かないJポップ批評2』の第二弾が出た。宇多田ヒカルへの礼賛と小室への批判的風潮が中心を占めている。 執筆者は若くても二十代後半以降が中心。 昨今の「Jポップ」については、正直、距離が遠く感じられているのに、今さら、宮台氏言うところの「意味系」に回帰するのもダサイてなところでどうにも煮えきらない論稿が多い気がしたのだが、結果は予想以上の売り上げを記録。 考えてみれば、アーティストとファンは若くても、仕掛人レべルは三十代から四十代が中心なのが今の音楽界。たとえば小室に対しても「何か書いたい」みたいな衝動が書き手と同時に読み手にもあるんだろう。 華原朋美の自殺未遂など、今こそ叩けるとなれば執筆者の元気な事!前回よりも「書くこ」とがあるぜ!」という情熱を感じる。 私は、ポピュラー音楽というかポップカルチャーというものは、常に「新しい世界があるよ」「みんな変わっていくんだよ」と実態を伏せつつ幻惑、本当であるかどうかは一切責任を取らなくていいものだと思っている。 ポップカルチャーが意味系に支配されたことは過去も一度としてなかった(七十年代フォークにせよ最初のヒットは『結婚レようよ』なのだ)し、実存系に思える歌でも良く聞いてみれば誰でも思い当たりそうな気分が浮き沈みしているのが「実体」だったりする。「これからは本物の音楽が流行る」「選択の時代が来る」なんてのも幻惑の言葉の一つとしてしか私には感じられない。そもそも私は人間を進歩したり成長するものだと必ずしも思っていない。時代が進めばセンスが良くなるとか音楽的になり解脱していくなどという言葉を心から信じることが出来ない。 ただ、ポップカルチャーという限定付きでそれがあるかのように幻惑するいかがわしさと真摯さが、プロレスにおける八百長と真剣勝負のように裏腹なのは愛せるだけだ。 (切通理作)
読書人1999.07.09
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