おとうさんがいっぱい

三田村信行・作 佐々木マキ・絵
1975年5月、理論社(品切れ)1988年10月、フォア文庫

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 いつも通る道がある。通り慣れた道である。その道を通って自分の家に帰る。それをある日、タカシはふと、別の道を通って家に帰ろうとした。ところがなぜか、道を変えただけで自分の家に戻れなくなった。何度もやり直す。やっとたどり着いた家で、今度はタカシの体が溶け始める。

 『おとうさんがいっぱい』に収められた「どこへもゆけない道」のあらすじである。こういう出来事は、実際には起こらないかもしれない。起こらないとしても、読んでいるうちに、ひょっとしたら起こるのではないか…と思えてくる。不思議で変な話である。その不思議で変なところが、ひどくおもしろい。作者・三田村信行の独自の世界が生まれる。

 いつも通る「道を変える」ということは、「決まった生き方」あるいは「暮し方」を変える…と言ってもいいだろう。「ものの見方」を変えるという言い方も出来る。子供に限らず、人が「見慣れ」「知りすぎた」(と思っている)生活を、ほんのわずかばかりずらして眺めると、すべてが今までどおりには見えなくなる。そういう経験は誰にもある。しかし、それを問いつめることなく多くの人は「元どおりの暮らし」に立ち戻る。「人の暮らし」とは、そういうものだ…と解ったふうに言う。
 作者が描こうとしているのは、その「わかったふうに」了解している「現実」あるいは「日常」と呼ぶ世界の不確定性である。人生とは、それほどまでに明確なものか。人とは、それほどまでに「解りきった存在」なのか。そうではないだろう…ということである。
 
「僕は五階で」の少年ナオキは、鍵っ子である。ある日、団地の五階の部屋から出ようとして、出られないことに気づく。あらゆる試みをするが、やっと家の外に出たと思ったら、それは元の自分の家である。最後には、父と母が居るのに、自分は消滅していることに気づく。
 「ゆめであいましょう」のミキオも同じ。ミキオは、夢で出会う自分とそれを夢見る自分との、どちらが本当の自分なのか…解らない。最後には、暗黒の空間に転落していく。
 一室に、閉じ込められて抜け出せない少年。夢と現実の区別がつかない少年。どちらも哲学でいう「存在の不確定性」を示している。
 これは本のタイトルにもなっている「おとうさんがいっぱい」でも同じで、一人のはずのお父さんが、二人、三人と登場して、家族や社会を混乱に陥れる。「かべは知っていた」では、おとうさんが本当の壁の中に入ってしまい、最後にはカズミの前から消えてしまう。

狭い空間から抜け出せない少年の話は、状況と呼ぶものに人が搦め取られている寓話とも受け取れる。複数の父親が突然出現する物語は、今日の父親が、トータルな一人格ではなく、仕事人間、父親、夫と役割分裂した話とも受け取れる。壁男になる父親は、今風に言えば、父権の崩壊を示唆したものとも受け取れる。
そういう解釈は成り立つとしても、これらはすべて「人の不確定性」を表現したものに他ならない。

子供にせよ大人にせよ、自分は「コレデイイノダ」と常に自己肯定して生きているわけではない。「今はこんなふうに生きているが、本当は別の行き方をしたいのだ」と時どき考える。「今の自分」ではない別の自分を夢見る。これは、わたしたちが、この世に生まれ出ることからして、自分の意志ではない…ということに拠っている。
 生まれてみれば、父・母と呼ぶ人が居て、特定の家族があり、特定の時代があり、特定の国籍や社会がある。
「ぼくはは五階で」という作品の「五〇一号室」は、いみじくも人のその立場を示唆している。それはまた、「どこへもゆけない道」の中で表現された「決まった道」でもあるだろう。その「道」は自分の「選択した道」ではなく、生きていく以上、自分が「受け入れなければならぬ道」である。
 「道」とはそういうものだ…というふうに、普通、人は考えない。当然のこととして見過ごしてしまう。しかし、よく考えてみれば、この世に「生を受ける」ことからして極めて、「不条理」なことなのである。

 作者が、そういうことを意識していたかどうかは別として、そういう人の在り方を物語りの中で描き出していることは、高く評価されていい。なぜなら児童文学というものを、特定の価値観、特定の表現形式、特定の枠組みの中に閉じ込めるのではなく、こういう形でも成り立ちうるのだということを、この一冊はわたしたちに示してくれたからである。

 ただし、「生の不条理性」などと言うと政府権力の介入を招く。あるいは良識ある大人の糾弾を受ける。
 「おとうさんがいっぱい」で描かれたように、「おとうさん」は一人でなければならないし、複数の「おとうさん」など存在するはずがない…と言う「健全なる社会常識」が、常に大きい力を持っているからである。複数の「おとうさん」は、政府の力で間引きされた。複数の「おとうさん」の存在を描いた作者は、それではどういう処置を受けたのか。それを知るには、この一冊が出た一九七五年に、これがいかなる評価を受けたか…ということを考えればいい。

三田村信行は、極めてユニークな作家である。それは後に出版された『風を売る男』(PHP出版)でも明らかである。この作家は、人の見えないものを見る目を持っている。着想の独自性こそ文学者の切り札である。(上野瞭
児童文学の魅力 日本編(ぶんけい 1998)
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