おとうさんがいっぱい

三田村信行
佐々木マキ絵/理論社/1975

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 この作品集に凝縮しているのは独自の才能である。別の言い方をすれば、児童文学の可能性を探る卓越した試みといってよい。これを「観念的」な「子どもばなれ」した「大人のひとりよがり」といするような発想からは、何ひとつ新しいものは期待できないだろう。こうした試みを正当に評価しない「正当派」の児童文学というものがあれば、それはすでにみずからの限界を示している。
 ここに五つの作品が収められている。発表年代順に書き抜いてみるとつぎのようになる。「おとうさんがいっぱい」(1965年)、「かべは知っていた」(同)、「ぼくは五階で」(1966年)、「ゆめであいましょう」「どこへもゆけない道」(1967年)。これらの作品は、雑誌初出時からほぼ十年たって一冊の本にまとめられた。このことは、日本の児童文学ないし児童図書出版の状況が、ほぼ十年という長い時間の中で、ようやく「前衛的作品」を受け入れるほど成熟したことを示しているのか、どちらなのだろう。いずれにしても、これらが発表時点で高い評価や賞を受けなかったことで、日本児童文学の思潮の在りようを逆照射していることが興味深い。理解され愛読され世評にのる作品群の中で、ただひたすら児童文学と現代性の接点を求めて、その可能性をさぐる試みは、常に孤立した栄光を背おっている。
 第一話「ゆめであいましょう」にはミキオという少年が登場する。ミキオは、毎夜、夢を見る。夢の中で、赤ん坊だった自分、それから何年かたった自分と、つぎつぎ変化していく自分に出会う。ある晩、夢の中で、「そいつ」は現在のミキオそっくりになって姿を見せる。そして、ミキオにいう。「おまえこそ夢の中のぼくじゃないか。」目をさましたミキオは、隣に眠っているはずの父親を手さぐりする。しかし、そこには何もなくて、まっくらな空間がひろがっているだけである。ミキオはその中に落ちこんでいく。
 この不気味は物語はただの悪夢ではない。夢の形をかりて描かれた現代人の存在の不確かさである。子どもという存在が、現代社会の中でどれほど不安定な不確実な位置を占めているか。そのことと、現代における人間の不確実な在りようとが少年を通して同時に問いかけられる。今の「ぼく」は本当に「ぼく」なのか。本当の「ぼく」が別にいるとしたら、この「ぼく」は何だろう。さまざまな社会的規範の中で「育成」された子ども・大人が、ふいにそんな自分の不確かさを感知する物語である。この物語がうすっぺらな現代風刺に終っていないのは、その底に息づく存在論的発想のせいかもしれない。想像を絶する無限の宇宙空間の中で、一瞬のまたたきにも似た命あるものの姿。そうした戦慄すべき有限者の深淵がこの主人公の横にひらけている。ここには、病気で熱にうかされた子どもの奥が、自分の上にのしかかってくる天井や電燈の光を見た時、ふいに垣間見た不安定に投げだされた自己のあの感覚が生きている。
 第二話「どこへもゆけない道」にも、現代の深淵が顔をだしている。いつも決まった道を通って家にもどった「ぼく」。その「ぼく」がある日、ふと別の道をたどって家に帰ろうとする。見なれた風景の中で「ぼく」は自分の選んだ道でも確実に家にたどりつくものだと考えている。しかし、家のあるべきところに家はない。何度も道を変えて、やっとたどりついた家には、父や母のかわりにまったく見たことのないぐにゃぐにゃの物体がうごめいている。そして、父や母にめぐりあえた時には、「ぼく」の体は溶けはじめている……。
 既成の、あるいは世間一般の認知し指定する人生コースを歩む現代の風潮の中にあって、ここには、それに背を向けて自分の道を歩きだしたものの予想をこえた暗黒が描きだされる。自立することや、自主的判断が、新しい世界を開示することにつながらないという状況の提示である。もし、決められた道筋をたどるだけなら、人間解体した両親や自分に気づかなかっただろう。このおそろしさは、第三話の「ぼくは五階で」にもつながるものである。主人公ヒラタ・ナオキは、ふと両親のことを考える。父や母は、「ぼく」が今、二人のことを考えているほど、「ぼく」のことを考えていないのではないか。これは少年の心の浮んだ一瞬の考えである。このあと、鍵っ子のナオキが、団地の自分の家の501号室にはいったあと、奇妙な出来事が起こる。遊びにいこうとしてドアを開くと、廊下にもでられる、自分の部屋に入ってしまうのだ。ナオキは外にでるためさまざまな方法を考える。ベランダ伝いに隣の家にはいる。シーツをたらして四階の部屋に降りる。しかし、そこにあるのは見なれた501号室である。
 この「出口なし」といった物語が、現代の子どもの(あるいは大人の)、真の人間関係から疎外された姿を描いているのはいうまでもない。団地の一室にナオキのように閉じこめられていないとしても、現代の子どもの多くは枠の中に閉じこめられている。進学塾、学校、テレビ、既成の価値観、予定された人生案内、その他あれこれ。それに瞬間を感じた時、はじめて自分を取りまくものが、この物語のように牢獄に見えるのではないだろうか。
 人間解体は子どもだけの問題ではない。大人もまた子ども同様、解体分裂の不安にさらされている。つぎつぎと父親が増殖する第四話「おとうさんがいっぱい」夫婦げんかの末に壁に入りこんでしまって消滅する第五話「かべは知っていた」。いずれも繁栄と平和のすぐ裏側にはりついている現代人の不安を描きだしている。もちろん、この作品集の魅力は右のようなコメントすくいとれるものではない。仮りに現代の人間状況と規定してが、この五つの作品に息づいているものは、不条理な物語のおもしろさである。このおもしろさがなければ、現代文明批評に終っただろう。不条理を描こうという発想は、条理のみを絶対視する硬直化した既成の価値観への反措定である。それと同時に、人間の構想力の可能性を具現する試みである。繰りかえすようだが、こうした発想こそ、現代児童文学の枠組みを大きく押しひろげる可能性を伏在させているのである。(上野 瞭
日本児童文学100選(偕成社)

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