弟の戦争

ロバート・ウェストール
原田勝・訳/徳間書店

           
         
         
         
         
         
         
     
 作者とのであいは、「機関銃要塞の少年たち」で、第二次世界大戦下のイギリスの少年たちを通して、戦争を描きだした作品だった。戦争告発の意図をもっていながら、今までにない描き方に、目を見張ったのを覚えている。その後、「かかし」という作品では、映画のスクリーンを見るごとくに、迫ってくる恐怖を体験した。いつもあっといわせるようなテクニックを使い、読者を驚かせてくれる。 この作品も、そうであった。湾岸戦争は、私たちにとって、とてもクリーンなイメージの戦争である。ところが、きれいな戦争なんて、ありえないのさ、戦争はどんな場合も、悲惨なものなんだよ、ということを、ひしひしと、骨の髄まで、見せつけてくれた。
 イギリスのごく平均的な、平凡な一家を襲った出来事であった。弟アンディーは、ほんのちょっとだけ変わった性格、人に引き寄せられる、テレパシーをもった少年だった。湾岸戦争勃発とともにその弟に、異変が起こる。イラクの少年兵ラティーフが、弟の体に入りこんでしまう。現実にはありえないことかもしれないが、作品を読んでいると、あながち、ありえないとは言いきれないように感じてしまう程、リアリティーがある。
 体はイギリスにありながら、心はイラクにある。当然心に揺り動かされて体は動く。少年兵の魂の入り込んだ弟は、平和なイギリスの病院の一室で、戦争の真っ只中のイラクの塹壕の生活を、再現して見せる。弟はもがき苦しみ、命さえ危いところまで追い詰められている。一方、同じイギリスの家庭の居間にあるテレビでは、アメリカを中心の多国籍軍が、イラクを空爆している場面を放映している。このコントラストの鮮やかなこと。現実に起こっている戦争の、全体像と部分像。そして、直接戦争に係わっていない国の者は、テレビで見る、痛みも心的苦しみもない映像だけの世界で、まるで、野球やフットボールの観戦さながらに戦争を観戦する。空爆に弾け飛ぶ、イラクの飛行機や建造物に、やったやったと手をたたきながら……。この家族の父親のように、わたしたち日本人も湾岸戦争をそのように見ていたのは、ついこの間のような気がする。近代戦争の落とし穴がそこにある。
 主人公トムは、イラク兵の入りこんだ弟の、変わり果てた姿を見ると同時に、家に帰れば、テレビで、両親と痛みのない戦争を見ることとなり、葛藤が始まる。
 物語は、兄であるぼく(トム)の目を通して、語られていく。弟を中心に据えて、家族の様子を書きながらの、ぼくの成長物語となっている。ぼくは弟が生まれる前から、フィギス(たよれるやつの意味)という名の架空の友を作りだしていた。そして弟をその名で呼んだ。弟の奇妙な行動によって、好むと好まざるとに係わらず、世の中で起こっているさまざまな問題にふれる。また戦争がテレビで見ているように、ある一部の英雄によって成り立っているのではなく、見えない部分で、自分たちと同じように生活している普通の人々が、犠牲になっていることを、弟の、身を呈しての行動によって知る。
 この作品は、もう一つの忘れてはならないことをも、物語っている。それは、ラシード先生に見る、人種差別の問題であ。たまたまラシード先生が、知的で、社会的にも認められた人に描かれているから、救いがあるが、私たちの身の回りにも、いわれなき差別に苦しんでいる人はいるし、また知らないうちに、わたしたちはその加害者になっていやしないだろうか。
 フィギスの両親は、彼の身に起こった出来事の真相を知らされないままに終わってしまった。このことは、どう読むべきなのか。疑問が残る。そして、フィギス自身も、この出来事の後は、ぼくに刺激を与えてくれる事件を起こさなくなり、両親も以前のような活気がなくなった。

 わが家はぎゅっとまとまって、まるで小さな島みたいだ。みんな一緒で元気なら、それでだれもが幸せなのだ。

 これで、めでたしめでたし、なのだろうか。
 作品を読み終えて、とても充実感をうけると同時に、終わり方のあまりのスマートさに、とまどいを覚えた。これだけの出来事が起こっていながら、それに係わった人々が、さらりと元の生活に戻ってしまった。係わった人々の、それぞれの思いを深く追求することなく。特に両親に関しては、以前より生活を縮小してしまい、より小市民的になってしまったことに、あれ? と思った。
 作品が終わると同時に、読者に新たな疑問を抱かせる。書かれていないこの後の、登場人物の行動や考え方を、ああでもない、こうでもないと考えさせられてしまったのは、作者の思いどおりの成果だったのかもしれない。
--フィギスはぼくらの良心だった--
 フィギスのような子がいなくなる。そんなことになってはいけない。たとえ、現実にフィギスのような人物の存在がなかったとしても、一人一人の心の中にフィギスをもち続けなければならないんだよ。作者は、わたしたち読者に対して、そう警鐘しているのではないだろうか。(児玉悦子)
「たんぽぽ」16号1999/05/01