『おやすみなさいフランシス』から遠くはなれて
―ラッセル・ホーバン『それぞれの海へ』をよむ

(三宅 興子)
「児童文学一九八八」 第15号

           
         
         
         
         
         
         
     
 イーホン・ダケノ社から"ノネズミのジリアン"をもう一冊書けといってきているが、毛皮にくるまっ た動物たちのピクニックや誕生パーティーは、もう品切れだ。おとなしい、むくむくした動物にはもう飽きた。次の本は肉食動物にしよう。(7頁)

 ラッセル・ホーバンの『それぞれの海へ』(一九八七)(原著Turtle Diary一九七五)を読みはじめると、中年の男女がそれぞれに書きつけている日記の女性ニイーラ・Hの方に、 こう書きつけてあって、「芸術家風で知的なタイプの女性で四十三歳。未婚。」(59頁)という作家は、すぐにホーバンの分身だということがわかる。そして、"ノネズミのジリアン"のシリーズは、あの"フランシス"だということも。「"ノネズミのジリアン"はもう終りにしようと思っていた。次の話など思いつかない。たとえわたしの生活がかかっていても。」(60頁)と続いていることも、"フランシス"の出版年とあうようである。
一九六○ Bedtime for Frances
一九六四 A Baby Sister for Frances
      Bread and Jam for Frances
一九六八 A Birthday for Frances
一九六九 Best Friends for Frances
一九七○ A Bargain for Frances


 あなぐまのフランシスは、本当にものわかりのいい理想的な両親に恵まれている。スポック博士の育児書の模範的実践成功例とでもいえようか。なかなか寝つかれずに、あれやこれやと理屈を考え出しては、子ども部屋のベッドから抜け出してくるフランシスに、納得いくまでつきあってくれる両親は"フランシス"シリーズの主な読者であろう四、五歳の子どもに安心感を与え、本を子どもの前に届けた親には、親のあるべき姿を教えてくれる。揺ぎない家庭と揺ぎない価値観がそこにはある。永久に不変だと思わせたものが。
 一九六七年に書かれた『親子ネズミの冒険』The Mouse and His Childでは、こわれたゼンマイおもちゃが、ごみ箱に捨てられる発端からして、背景・社会の荒廃ぶりがすさまじい早さで進んでいることが伺えたが、親子ネズミは、自分のなわばり、テリトリィを求めて、前へ前へと進んでいくのだった。安らぎのある家への欲求が結末でかなえられる。家といっても、ゼンマイおもちゃの親子ネズミとゾウ母さん、アシカ姉さん、それに遍歴の途中で知りあったカエル、カワセミ、サンカノゴイ、マニーラットおじさんたちとの寄り合い所帯である。人形の家を改装した「最後に見える犬」荘は、ホテルとなって誰にでも開かれた場として機能していく。ヒッピーの共同体を思わせるものになっているのだ。
 親子ネズミが自らの技術で自動巻きになるという自主独立の精神、「最後に見える犬」をこえた世界が暗示する実存(自分はここに存在しているのだ)、まだまだ価値はしっかり描かれている。
 子ネズミが、カンヅメのカンに描かれたコックの帽子とエプロンをつけた白黒ブチの小犬の絵をみている場面が巻のまん中あたりにある。その小犬は同じラベルを貼っているカンヅメをおぼんにのせて持っていて、またその中の小犬も同じカンヅメをおぼんにのせて持っていて……とおわりのない犬の行列が続く。

 ……子ネズミは、まるで、夢の中をただよっているような気持でした。そしてとうとう、いちばん最後の、いちばん小さい、でもはっきりそれとわかる犬を見つけたのです。……中略……そのむこうには、色のついた点々がちらばっているだけでした。子ネズミはもう一度目をこらしました。そして点々のあいだには、からっぽの、白い空間しかないことを見てとりました。その、なにもないからっぽの空間は、いちばん小さい犬のむこうからいちばん大きい犬へ、そして子ネズミのほうへと、逆にひろがってくるようでした。(183頁)

 捕らえがたいものを、かろうじて、しかし確実に捕らえている子ネズミと比較すると、『ボアズ=ヤキンのライオン』The Lion of Boaz-Jachin and Jachin-Boaz(一九七三)では、すでに絶滅したライオンを探して結末のない旅に、それも別々に出る父子の物語と変っていってしまう。『ボアズ=ヤキンのライオン』がホーバンの大人むきに出版された第一作となったのは、勿論、必然の道程であった。
 ヤキン=ボアズという地図づくりが、何年も何年もかけて息子のヤキン=ボアズのために、この世の全てを知ることのできる地図(マスターマップ)をつくってやる。息子に「この地図に見つけ方が出ていないものがあったら、教えてくれ」というと、鉄でできた扉押えがうずくまるライオンの形をしているのをみつけた息子が「ライオンは?」(15頁)という。父は、ライオンがすでにこの世から全滅してしまっていることを説明したにもかかわらず、そのライオンを見つける旅に出てしまう。残された息子も、ライオンはもういないことを知りながらも、母親にも恋人にも決別して父を探す旅に出る。
 ホーバンは、ラオインに託して、揺ぎなかった筈なのに、消えてしまったもの、しかも至るところに痕跡を残しているものを語ろうと試みている。父親、父親の新しい恋人、そして息子、それぞれの眼からそれぞれのライオンに触れようとする。何かはっきりとあるのに、どうしても近づけない何かを探ろうとしている。そして、作品のふしぎな美しさは感じとれるものの、まだ、表現出来なかった何かを読後に残して終ってしまう。
 その何かは、全く関係なく暮らしていたのに、水族館にいる海ガメを、海に放なちたいという願いを同じころに抱き、そのイメージを、現実に実行してしまう中年の男女の日記を通して、ほのかに見えてくる。『それぞれの海へ』である。
 ロンドンの本屋につとめているウィリアム・Gには、かつて"フランシス"のような家庭があった。今は、片隅で目出たないように一人ぐらしをしている。ニイーラ・Hは、作家、フランシスみたいな物語をつくることにうんざりしてしまい、行きづまっている。二人は動物園の水族館の狭い水槽に閉じこめられている海ガメに共感をもち、飼育係主任の援助によって海ガメを救出しようとする。ウィリアムは、ニイーラと出会った日「ここにもひとり、僕がいるのだ」(65頁)と書きつける。読み方によれば、ウィリアムとニイーラは、一人の人間の女性性と男性性をあらわしていて、二人とも作家なのかもしれない。
 二人は、いやホーバンは、ウィリアムの最後の日記(同じフラットにいた一人ぐらしのニープさんが、葬式のやり方まで決めて自死したという事件をもふまえて)に書きつける。

 何かが違ってきたわけでも、よくなったわけでもないし、僕自身も同様だが、それでも今、僕は、生きていることを苦にしない。結局のところ、次に何が起こるか、誰が知っているというのだ?(304頁)

 ニイーラにとって海ガメとは何であったのか。

 ウミガメのことを思うとき、わたしは彼らの動きを我が身に感じる。緑色の水を掻く前足の、筋肉の収縮が感じ取れる。彼らには、彼ら自身しかない。それでも彼らは旅を続け、ついには、自らの内にあって見出されるのを待っているものを見出す。彼らの内に、彼らの泳ぎつくべきところがあり、旅の果てに彼らがそこにたどりついたとき、それは実体を持って海中から現れる。現実に、幻想ではなく。(270頁)

 ニイーラには、静かな人物、飼育係主任と結ばれてはじめて、それまでの自分の淋しさに気がつくという現実が展開してきた。

 わたしも、ウミガメと同じものは持っている。わたし自身。わたしも、少くとも自分が行きたいところへ行く途上で死ぬことはできる。ノネズミのジリアン!これでは足りない。全然足りない。(271頁)

 ニイーラは(そしてホーバンは)自分のつくってきた子どもの本の世界に、自分のいる場所がないと繰り返し語っている。ウィリアムとニイーラは同質の人間であるゆえに、海ガメという一点でつながっただけに終って、ウィリアムは、もはやフランシスのような家庭を築くことは考えられない。二人は、違う道を選びとる。あくまでも静かに、ひっそりと。

 人々はこどものための本を書き、別の人々が、子どものために書かれた本について書くが、それもこれも、子どものためなどではない。

 わたしの考えでは、子どものことをあれこれ心配する人たちは皆 、ほんとうは自分のことを心配しているのだ。自分の世界がばらばらにならぬように、子どもたちがそれを助けてけてくれるように。それはたしかに一つの世界だと、子どもたちが同意してくれるように。(ニイーラ 158頁)

 ホーバンは、かつて、それと知らずして、自分の世界を守らんがために"フランシス"を書きつづっていたのだろうか。それとも、守るべき世界が、いつのまにやら、そこになくなってしまったので、後で納得させるために分析してみせてくれているのであろうか。
 同じニイーラに「エディプス王はテーベへ行き、ピーター・ラビットはマクレガーさんの庭に入り込むが、物語は、本質的に同じだ――生きるとは、恐怖に向かって進むこと。ビアトリクス・ポターは、ピーターがワシミミズクのくちばしからたれ下がる場面を、ジョン・グールドに任せた。」(73頁)と述べさせているところがある。ハッピー・エンドを強く望む読者の存在はここでは問われていないようである。
"フランシス"では足りない世界を求めて、海ガメを海に放したホーバンは、「子どものため」ではない子どもにも読める作品にいつか辿りつくのだろうか。新しい世界像の提示……それは、いつの時代でも、意欲的な作家に求められているものであるが、ホーバンは、『それぞれの海へ』で、それまでの世界観と自分の作品を否定してみせることで少しだけ、ほっとしているように見える。少しだけ……。

『おやすみなさいフランシス』(ガース・ウィリアムズ 絵 まつおか きょうこ 訳 福音館書店)
『親子ネズミの冒険』(乾 侑美子 訳 評論社)
『ボアズ=ヤキンのライオン』(荒俣 宏 訳 早川文庫)
『それぞれの海へ』(乾 侑美子 訳 評論社)

(三宅 興子)
「児童文学一九八八」 第15号
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