海は知っていた

キャサリン・パターソン作

岡上鈴江訳/偕成社


           
         
         
         
         
         
         
         
    
「わたしが人々の注目をあびたのは、わたしが生まれてほんの二、三分のことであった。そのあと、妹が生まれて、人々の興味はすべて妹がひとりじめした 。双子の姉ルィーズは、出生時から始まったこの陰の存在、忘れられた存在としての自分に苦しむ。両親にこれっぽちも心配をかける必要のない、自分の健康さを呪う。」
幼時から持ちつづけたこの孤独感は、自意識に目ざめる年頃からはいっそうはけしい内面世界の葛藤をもたらし、神までも自分を愛さないばかりか、憎んでいるとまで思いつめさせる。原題「われ、ヤコブを愛し」という聖書の言葉、私にはあの「エデンの東」といった方がなじみ深いテーマである。始めて気づいた母やまわりの人々が手をさしのべたときには、すでに固く閉ざされた彼女の心はそれを拒否するばかりであった。
少女は遠まわりをしてやっと、自分が何かの故にして自らに立ち向かうことから逃げていたことに気づく。しかし彼女が足を踏み出すための勇気を持てなかったのは、自分も愛されていることの確信が持てなかったことによる。このあたり河合隼雄流の心理の解釈をしたいところだが、ボロを出す前にやめておくことにする。
作者の書きたいことがきちんと適確に伝わってくる、すぐれた作品である。作品の舞台である四十戸ほどの人が住む小さな島。カキ漁、カニ漁という特殊な漁法。それから一九四○年代前半という、第二次大戦がもろにかかわってくる時代背景。その中で祖母や船長、両親、姉妹やコールという三つの世代の人々が同時によく描かれている。簡潔な表現の中で人それぞれの過去や状況を示してみせる作者の力量を感ぜずにはおられないのだが、ストーリーの小気味よいテンポとおもしろさは抜群である。
そして、外側のストーリーと同時に少女の内面に起こってくる内側のストーリーに、読者が同化できる要素が大きい。海面上に見えている世界に比して、海面下のなんという深さ。暗さ。外側では、海が好きで、働くことが好きで、すすんで家計を助けようとする少女の、海面下で起こっている狂おしいまでの感情の揺れ。何らかの意味で同じ心理的体験を持つにちがいない読者の、その共感の故にこそ、その後少女が突破口を開いて、努力して目立の道を獲得していく必然性が感じとれるのである。
事の終りと事の始めをつなげようという最終章について、書きすぎという意見もあるようだが、私はごく素直にこういう物語の完結の形が好きだし、児童文学の中ではされていいと思っている。ここに限らず、計算通りに作られすぎているという不満も聞かれるが、それは確かに作者が一つの意図のもとに作り、成功しているだけに、読者に委されている部分は少ないといえるかもしれない。しかしそれは作品の可否にかかわることではな (松村弘子)

児童文学評論23号 1987/07/01