売れればエライか?

甲木善久

ぱろる8号 1997/12/25

           
         
         
         
         
         
         
    
 「売れればエライか?」という問いかけの答は、もちろん、いろいろな条件が作用してイエスともノーともいうことができる。だが、しかし、少なくとも現在の状況に限定していうのなら、やっぱり、売れればエライーと答えるしかない。
 たとえば。
 先日、知り合いの作家H氏と久しぶりにおしゃべりをしていて「そうそう、そうなんだよねー」と妙にわかり合えちゃったのは、新刊時評なんかでこの頃の児童書を読んでいると森林に申し訳ないような気がしてくる、ということだった。「この本、読んでもらおうと思って作っているんだろうか?」というやつが、おそらく、現在出版されている本の半分はある。それは、どんな本なのかといえば、まず、装丁がちゃち。おまけに、タイトルがダサい。もう見るからに、子ども向きの本ってこんなもんだよね、って感じが全体に漂っている。それでも、仕事だからってんで無理やり読んでみると、だいたい、内容の煮詰め方が足りなくて、文章のそこかしこから作者の独り善がりがにじみ出ていて、物語としてスカスカでも、テーマ設定さえ出来てれば児童書はそれでいいのだ、ってのが見え見えなのである。
 確かに、こういう本でもセットの中に放り込んでしまえば、学校図書館は購入してくれるかもしれない。さらに(恐ろしいことだが)場合によると、教育県の推薦なんかもらっちゃってバッチリ各学校に行き渡ったりすることもあるだろう。
 が、しかし、だ。
 子どもにだって審美眼はある。そんな本は、感想文を書くためにその年は幾人かに借りられたにしても、その後は白い貸出カードを抱いたまま、廃棄処分となる日を長々と待ち続けていくことになるのは想像に難くない。
 本は読まれてこそ華。読まれなければ、只の汚れた紙の束なのだ。読まれない本など、その存在自体が自然破壊といっても過言ではない。もちろん、読まれようが読まれまいが、紙を使い、インクを使い、エネルギーを消費して本を作る作業は同じである。したがって、自然環境に対する負担に差があるわけはなく、むしろ、売れる本を作ってしまう方が罪は深いということはわかる。
 けれど。
 これは、知り合いのI氏の名言だが、人間にとって究極の自然保護は死しかない。生きていくということ-現代では経済活動をすること-は、否応もなく、自然環境や天然資源に負担をかけることに他ならないのである。ならば、同じ罪を背負うにせよ、食べるために魚を捕ることと、殺すためだけに捕ることと、どちらに理があるのか、いうまでもないではないか。
 一生のうち一度くらいは本を出したい、というのなら自費出版で数百部を刷り、友人知人の迷惑も顧みず配りまくればよい。子ども達はこういうことを知り、考えるべきである、と思うのなら、教師にでもなればよかろう。児童書といえども、作っているのは商品なのだ。商品を作り、それを売り、金銭を得るのなら、まず、それが手に取ってもらえるよう、そして、商品として使用に耐える(喜んで読んでくれる)よう、作り手として心を砕くのが資本主義の最低のモラルだと思う。
 さらに、いえば。
 各地方自治体の予算によって成り立つ、学校図書館という名の倉庫に収まるためだけに、書かれ、作られ、売られる駄本の存立構造と、土建国家のシステムの中で今日も掘ったり埋めたりがくり返されている道路工事や河川の治水工事のあり方とは、僕には同じに見える。そこで動く金額のケタ以外に、どこが違うのか誰か教えてほしいもんである。

そうだ。イヤな風景を思い出した。
一○年ほど前の話だが、子どもの読書運動を推進する某団体の全国大会での体験だ。その当時僕は、ほんの数年だけそこの会員だったのだが、百数十名の熱心な会員が集まったシンポジウムの席上、Aという児童文学者が「はれときどきブタ」(矢玉四郎・作/岩崎書店)を槍玉に挙げて、「あんな売らんかなの本を出版するから、子どもの本がダメになるのだ」といった主旨の発言をなさったのだ。彼は、義憤に駆られたといった様子で、それが正論であることに毛筋ほどの疑いも持たなかったのではないかと思う。いや、そうでなければ、商業出版を行っている自分が、そうした発言をするという行為の意味に気づかないはずはない。
 「売らんかな」なのである。
 売ろうと思って売れるなら、何も苦労はない。売ろうと思っても売れないから、商品内容に、パッケージに、価格設定に、広告に、みんな智恵を絞るのである。
 また、商品を作る以上、売ろうとするのは当然だ。そうでなければ、経営は立ち行かないのである。作品を出版社に持ち込み、商業出版のルートに乗せるということは、売ることを前提として自らの表現を社会にアピールするということに他ならない。そのことをわきまえずに「売らんかな」を批判する作家など、自腹を切って私家版でも作っていればいいのである。

 本づくりは、情熱や人情の世界である。このことは実感として、僕にもわかる。ギャラの多い少ないによって書く内容が変わることはないし、むしろ、そんな器用なことのできる作家がいたら会ってみたいくらいである。それよりも、作品に影響を与えるのは、担当者との信頼関係だ。熱心でマメな担当者だと、作家も優先順位を上げるだろうし、その結果、良いものが仕上がることは多かろう。だが、それすらも、間違いなく資本主義の原理によって裏付けられているのだ。
 そう、その担当者が初対面で渡してくれた名刺も、打ち合わせに使った時間も、かけてくる電話の代金も、また、本づくりに関わるありとあらゆる経費は、その人の所属する出版社の経営から支出されたのである。
 時折、信頼関係を築いた担当者が会社を替わったからといって、過去の作品にさかのぼって本を遷してしまう著者の話を聞くが、あれもかなり勘違いなのではないかと思う。品切れ状態で放置してあるとか、売り方が悪いとか、その出版社のやり方と折り合いがつかなければ、版を遷すのは妥当だろう。あるいは、次の作品から出版社を替える、というのも人情としてはよくわかる。が、これまで通りに売っている過去の作品に手を付けようとするのは、商業出版の原則を逸するものだ。例えば、フリーランスの編集者との仕事でA社から本を出し、後に彼がA社と疎遠になりB社と仕事をするようになったからといって、版権を遷すことがあるだろうか? もちろん、そんな話は聞いたことがない。はあ〜。
 とはいえ。
 こういう潔癖な感覚を持っているのは、おおむねマイナーな作家だけである。メジャーになればなるほど、そんなことはいっていられない。だって、メジャーになるということは社会的影響力が増すということで、そんな言動をしちゃったら、その出版社に限らず、他の出版社も見てるから、「ああ、そういう感覚の人なんだ」という風評が立っわけね。すると、次の仕事がやりにくい。それを割り引いてもなお魅力的なスゴイ作品をバンバン出しているならいざ知らず、他人様のお金で自分の表現を世に送り出し、他人様に買ってもらうことで生きているのなら、コトの本質を考えるしかないじゃない。そうして、あぶり出すょうに、作家は自分が表現するということを突きつけられてしまうのだ。
 たぶん、だからなのだろう。
 今回の特集に寄稿して下さった作家・翻訳者の方々の文章を拝見すると、その、表現するということへの情熱に胸を打たれる。そして、それは、とりもなおさず、読んでくれる人へ真摯に向かう姿勢なのだ。
 また、編集に携わった方々の文章を拝見するとき、そこに「この作品をしっかり読者へ届けたい。そういう本を作りたい」という共通の想いを発見する。それは、営業成績云々といった問題でなく、「私」が惚れた作品を一人一人の読者の許へ届ける-手をかけて本を作り出す、というやはり情熱なのである。
 こうした諸兄姉の情熱が本に照り返し、たまたま結果として、売れた。情熱があれば売れるというものではもちろんないが、少なくとも、読者へと真摯に向かうことがなければ売れることはないのだろう。
 だから、今。
 売れればエライ!のだ。
 売れ続けることは、もっとエライのだ。
 そうして資本が蓄積され、次の表現の下地を作り、新たな本が世に出され、再び読者へと還元される。売れている本があるからこそ、実験もまたできるのだということを忘れてはならない。
(そういう雑誌に「ぱろる」(わたし)はなりたい。)