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「年とったウサギが私のアパートの押し入れの中で古本屋を店開きしてしまったので、いろいろ困ったことが起こるようにな」る話である。 その本屋は押し入れ下段奥の、大型テレビほどの規模のもので、「ペーパー・マッチくらいの大きさの本がぎっしり詰まった書棚がいくつも並んでいて、その奥には安楽椅子に身を落ち着けたあのおいぼれウサギのやつが、のんびり夕刊なんか広げている」。 入口が狭すぎてこの古本屋へ入れないネコが、人間の出入口を利用したいと語り手「私」を待っている。大岡昇平全集や校本宮沢賢治全集を売りたいのだというところなど、つい笑ってしまう。 このウサギは詩人なのだが、彼の詩「かぜ」が有名な詩のパロディーだったりするのも楽しい。死んだウサギは月にのぼり、下界のウサギの暮らしぶりを眺めながら幸福に暮らすという伝説をもとにした詩「つき」など、ユーモアと悲哀のこもる卓抜なさし絵とともに人間のかなでる悲しい調べを聞く思いがする。 この古本屋の情景は「私」に、「どこかで聖母や救世主の生涯の場面を描いた宗教画を見」たときと同じような心の安らぎを覚えさせる。 だれの心にも、触れるとぬくもりがよみがえるエピソードがある。そこにそっと触れてくれる佳品。(神宮輝夫)
産経新聞 1996/12/20
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