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あの神戸の事件以来、14歳の少年が殺人を犯すということに衝撃を受けた社会の中で、この主題をめぐって、いくつもの作品が相次いでうみだされた。そうした時代の流れの中では、『うつくしい子ども』は、やや遅れ馳せの登場といった感がある。しかし、遅れたからにはそれなりの理由があり、そのことが必ずしもデメリットになるわけではない。 大人たちは、子どもの心に少しでも寄り添おうとし、その心の闇を覗き見ることに必死となったが、同時にそれは、書き手自身の心の深淵を真っ向から見つめることが必要とされた。しかし、少年Aに近づき理解しようとするあまり、いつのまにかその自分さえも見失ってしまうという危うさのために、作品そのもののバランスを崩してしまったものも少なくない。また、この作品の中でもくり返し語られることだが、そうした少年をうみだしてしまった原因を、学校や家庭環境といった外部要因に求めようとする傾向や、それを助長させたマスコミの功罪も含めて問い直すには、‘事件後’から物語を始める必要があったのだ。時間が経過したことのメリットが、ここには充分活かされている。 《いってはいけないことなのかもしれないけれど、ぼくは弟のカズシがかわいそうだった。人を殺したあとも生きていかなきゃいけないカズシがかわいそうだった。》 女児殺人事件の犯人が中学1年生の自分の弟だったとわかった時、主人公のミキオはその事実をこうして受け止める。なぜ弟は殺人を犯したのか。その理由を探る中で、それに協力してくれる仲間との出会い、彼らを襲う様々な圧力との闘い、事件の鍵を握っている〈夜の王子〉探し、そしてむかえる最後の夜…。若い新聞記者の眼からみた事件と事件後が、ミキオの謎解きと平行して交互にさしはさまれる作品構成は、ミステリーの進行に緩急を加え、作品に立体感を与えている。記者が「少年」(童顔であるため)とあだ名されているのも、大人と子どもの中間に位置し、事件の裏と表を繋ぐ役割を担う人物にふさわしい。 また作品の舞台となる「夢見山」というネーミングには、柴田勝茂『夜の子どもたち』や皿海達哉『EE’症候群』といった、SF小説の趣をもつ作品の舞台設定との類似から、完璧な調和や美しさの背後に隠された殺伐とした恐怖を、読むものに与える効果をもっているが、その主眼とするものは2作品とは異なる。ここにあるのは、教育という名のもとの‘管理体制’への批判ではない。 保護処分をうけ施設で暮らす弟を訪ねたミキオは、施設の規律に従うだけで自分で何も考える必要のない生活に安心感を見出すカズシの姿に愕然とする。少年を守るどころか自ら思考・行動する力を奪っていくシステム、そして社会の現状はミキオにとって明るい希望ではない。しかし、彼は他者に依存するのではなく、自分の力で弟と〈灰色の海〉を泳いで行く道を選択する。人権などという言葉を持ち出すまでもなく、自分にとって一番身近にある人たちを丸ごと受け止めていこうと決意したのが、彼にとっての‘事件後’なのだ。 《「弟にも誰かがそばにいてやらなきゃいけない。誰かわかってやる人がいなくちゃって思って。殺人犯を相手にそんなことを考えるのはおかしいんでしょうか。だけどあいつはぼくの弟なんです。」》 弟の存在、自分の存在、そしてすべての人々のそれぞれの人生を肯定しようというミキオの叫びが、この作品の核となっている。 『うつくしい子ども』というタイトルには、子どもは純粋な存在であって欲しいと願う大人の気持ちと、うつくしさとはかなさが表裏一体であるという哀しみが微妙に交錯する。そしてそれは、本来人間誰もが抱えている‘残忍性’などという結末に、この物語を安易に導くことを拒んだ、作者の意思のあらわれでもある。
(上原りか)
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