宇宙のみなしご

森絵都

講談社 1996


           
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
     
 わたし陽子は中学二年。一つ年下の弟リンがいる。都心で印刷所を持っている両親は仕事が忙しく、「わたしたちが小さいころからほとんど家にいなかった」。だから、姉弟だけですごす時間が長く、けんかをすれば止めてくれる人もないので、「仲よくするのがおたがいのためだと学んだ」。
 といった所から物語は始まります。弟との関係を、「仲よくするのがおたがいのためだと学んだ」と考えている主人公に違和感を覚える方も多いでしょう。共感できない方もたぶん。そうした感情が起こるのは、ある意味で当然。一人称、陽子の語りで進むこの物語、陽子は自分の気持ちのままに語っていますから、子どもの振りをしていないのです。
 ちょっとややこしい話になりますが、子どもは多くの場合、子どもの振りをしています。正確に述べれば、その時代の社会や大人が好む子ども像に合う子どもの振りです。このことは自分が子どもだった頃を思い出されればお解りになるでしょう。子どもは大人社会で常にサバイバルをしているのです。
 この国の場合一見豊かですから、サバイバルって感じはしないかもしれません。でも、元気で明るくスクスクと真っすぐに正直に思いやりのある優しく正義感に満ちしっかりとした子どもになって欲しいというメッセージを発している大人/親が同時に、学歴を積み他のだれよりもいいポストに着き社会のより上位にいることが幸せなんだから今は我慢してでも塾に通って受験戦争に勝ち抜くことが大事だとのメッセージも発している。そんな国で生き残るのは結構大変。
 この物語の主人公陽子はだから、弟との付き合い方も、ある距離感を持って処理することが望ましいことを十分承知しているわけです。日常のやり過ごし方とでも言いましょうか。
 この後、主人公は、両親が仕事が忙しくて帰宅をしない夜中に、他人の家の屋根に弟と上るのが好きになっていく。クラスのはぐれ者の二人も加わって、
 ラスト、はぐれ者の一人が屋根の上で、元担任のメッセージをみんなに伝えます。
 「ぼくたちはみんな宇宙のみなしごだから。自分の力できらきら輝いてないと、宇宙の暗闇にのみこまれて消えちゃんだよ」
 「宇宙のみなしご」。とてもいい言葉です。子どもであるという意味がストレートに表現されています。(ひこ・田中
げきじょう 44号 1996





 この作品の魅力は、複雑多様で、多忙で、しかも柔軟性のない大人たちに対立して14 歳の陽子が14歳の両足でしっかり大地にふんばって生きてるところにある。あらゆるものに「無所属」で、だれかとだけ仲よくして生きるユニークなキャラクターの陽子と、だれとでも仲よくしながら、しかも個性的な弟のリン。ここに描かれているめっぽう仲のいい姉弟の日常は、ほとんど大人不在の、思春期前の子どもの世界である。思いついたら即実行に移る、がまんぎらいの姉弟の思考と行動は、あきらかに子どもの側の論理から発していて、大人たちはみごとにはずされて向こう側にいる。そしてその二つの側の接点に、陽子の母親の親友、バツなし独身でキャリアウーマンのさおりさんと、前の担任のすみれちゃんという、大人の論理だけでは生きてない大人たちがいるのもおもしろい。
 また、仕事が忙しすぎて子どもの悩みにも気づかない親だから、自分たちで頭をひねり、ひとの助けをほしがらず、なんとか苦しみや困難を乗越えてきたという姉弟はかなりさめていて、陽子にいたってはニヒリスティックな雰囲気さえただよわせているのも、今という時代を反映していて意味深い。
 この作品のキーワードである真夜中の屋根のぼりは、それ自体無鉄砲な子どもの冒険だが、「見つかったらただの犯罪者で、それなりの覚悟がいるわりに、やっていること自体は徹底的にくだらない」と、陽子はさめている。それでいて、「そのかわり、わたしたちはその夜を手にいれる」と、自力でのぼった屋根の上で夜空の月や星や雲を愛で、自分たちだけの世界に心の満足を得るところなど、子どもの夢と希望のふくらみを感じさせてくれる。そしてこの奇抜な冒険である屋根のぼりが、マイナーな友人二人をけっこう変えていくのだ。 その一人は陽子のクラスメイト相川和男。気が弱く、自分に自信がなくて対人的にはひとテンポはずれている。そのためだれからも相手にされなくなり、不良ぶった男の子たちにこきつかわれて「ひと駅に一つある便利な」キオスクとあだ名されている。現実が生きづらい彼は、パソコン通信仲間のあやしげな集会に参加していて、自分は人類滅亡を救うために生まれてきた、今の自分は仮の姿だといっている。そんなキオスクが、どのグループにも属さず、イヤになったらさっさと登校拒否さえする陽子を友だちにしようと、しきりに近づいてくる。 もう一人は 同じくクラスメイトの七瀬綾子。「若草物語」と名づけられている4人グループの一人だが、ここでもいじめがあって、ベス役のおとなしすぎる七瀬さんは無視されている。ところが彼女はリンにさそわれて陸上部に入っており、クラスではほとんどくちをきいたこともない陽子にあこがれていた。まず屋根のぼりに参加したいと申しいれたのが七瀬さん。彼女と親しくなり、危険な遊びを共にした陽子とリンは、日常の圧迫から開放されたときの素顔の七瀬さんをしだいに発見していく。 一方キオスクは、自分の部屋の窓から、真夜中の屋根にのぼっている陽子たち3人をみつけてしまった。キオスクも屋根のぼりを考えはじめる。だがその決断力のなさは陽子をイライラさせる。そしていざ実行というときになっても、もちまえの小心が彼の前に立ちふさがってしまって目的の屋根の下から一歩も動けない。陽子が救助の手をさしのべたがやはりだめ。そこで陽子は、これまでは何の同情も友情も示さず、ただキオスクをきらってバンバンきびしい言葉をあびせたにもかかわらず、「いいんだよ、むりしないで」と、思わず自分らしくない同情の言葉をかけてしまった。だれにも相手にされないキオスクにと って、どんなにぼろくそにいわれても陽子は自分を無視しない唯一の友だちだ。その陽子に同情の言葉をかけられた彼のショックは大きく、その翌日から学校を休んでしまう。 この物語は、ここから後半の陽子がすばらしい。キオスク自殺未遂のうわさがクラス中にひろまると、たちまち同情したり見舞いにいこうといいだす女の子たちの様変わりに憤慨する陽子は、あいからず真直ぐな自分をもっている。担任も陽子をキオスクの唯一の友だちと思っていて、学校側の大人側のかってな論理で陽子を質問ぜめにするが、どう誤解されようと陽子は自分を曲げない。そして担任の話を聞きながら、キオスクはとびおり自殺をはかったのではなく、一人で屋根のぼりに挑戦しようとして転落したのだと気づく。それは陽子の同情によるショックからなのだ。キオスクが登校拒否を始めたときから、そのことにすでに感づいていながら、考えたくない、関わりたくないと逃げていた自分に、陽子もあらためてショックを受ける。リンはリンで七瀬さんとのはじめてのぶつかりに悩みだし、二人はまっ暗。だがここからの二人は、「友だちのことで悩むのは学生の特権」というバツなし独身のさおりさんからのひとこと もあって、友だちのことについて真剣に考え行動していくのだ。 陽子がキオスクの家を訪ね、彼の自殺未遂の真相を聞きだす場面は圧巻だ。手きびしい陽子の誘導尋問にかけられたキオスクはあっさり事実を語ってしまう。だが彼はまわりがたててしまったうわさに立ち向かう勇気がない。陽子もその困難さは承知しており、自殺でなかったことを証明する手段は、屋根のぼりという大切な遊びから大人たちに話すしかないと覚悟する。話せばもう実行できないこの遊びを最後にもう一度と、七瀬さんとキオスクをさそった姉弟。4人は意外にも陽子の家の二階から屋根にでるのだが、いくつものハードルをこえてある友情の絆はここで固く結びあわさった。しかもあまやかな友情ではなく、結局、人はひとり、自分で輝いていないと「宇宙のみなしご」になるという、人間の根元的なむなしさ寂しさをもただよわせて。 さて、ここで考えてみたいのは、いじめという問題のとりあげ方である。 当節、深刻の度合いを増していくいじめという大きな問題は、児童文学作品の中でどう描かれようと明るい結末などありはしない。だからというわけでは決してなかろうが、この「宇宙」の作者はそれを問題として 正面からとりあげようとはしていない。たしかに作者は、いじめ、いじめられたに関する子どものキャラクターの型を的確に描きだしてはいく。キオスクのそれはいじめられる側の典型だし、七瀬さんの属するグループもいじわるが起こるべくして起こる構造になっている。「けんかならだれにも負けないよ、って顔してればいいの」という、陽子のいじめられ予防対策も、だれとでも仲よくのリンの自由さも、いじめられない側のキャラクターの典型だ。だが作者はこのいじめ現象を問題視するのではなく、それぞれの個性を生きる子どもたちの日常としてまるごと描いている。 町全体を遊び場にして数々のいたずらをしてきた陽子とリン。真夜中、他人の家の屋根にのぼるという大胆で危険な遊び。むしろ、ずっとむかしの子どもならやりかねないいたずらだが、画一的な教育がいきわたっている現代、あり得ないといえばあり得ない。しかしそれが具体性をもって描かれ細部のリアリティーに支えられているから、冒険のおもしろさとなってストーリーをひっぱっていく。そしてこの危険なキーワードが、後半、年令相応に悩み考える4人の子どもたちの心のひだをうまくすくいあげていくのだ。 この作 品にはユーモアあり、詩情あり、文章も作者の若々しいセンスに満ちている。さらに、現代の重い問題を問題として取り組まず、いじめられない側、ゆたかな個性としっかりとした自分をもっている陽子とリンの側から描いたいじめ物語は、明るくて軽やかだ。 その意味で「宇宙」にはある種の否定的な読みがあることも私は知っている。主人公陽子は、許される範囲でのはみだしであり、巧みにつくられた物語は、もっと掘りさげて考えるべききびしい現実から浮遊しているという読み。また、人は人に支えられて生きている、人が生きるとはこんなにすばらしいことなのだ、という人間賛歌を児童文学の真髄とする人たちは、陽子の、ひいては作者のただよわせるニヒリズムがむなしく恐いという。 だが私はこの作品を、きびしい現実と四つに組んで創られた物語と同列に考えたくはないし、巧みに構築されたこの物語の力こそ、現実からの癒し、励ましになるのではないかと思うのだ。また、リベラルな考えをもつ陽子姉弟のヒューマニズムは、戦後日本のリアリズム児童文学が描こうとしてきたヒューマニズムとは形を変えて、このきびしい現実を救っており、大人、子どもの接点にいる独身女性のさ おりさんやすみれセンセイの存在も、現代のさみしい子どもたちのよりどころとなっていると重う。それでいて、オプチミスティクな人間賛歌をみごとに拒否している作者のニヒリズムが、私にはここちよい。これからの児童文学のよきあり方を示唆している作品として、私は『宇宙のみなしご』の魅力をどこまでも肯定したい読者なのである。 (持田槙子)
書き下ろし 1995/03
テキストファイル化 林さかな