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主人公のボク、広瀬勇之介は小学六年。絵かきの父親と離婚した母親は現在ピアノの先生と再婚。だもんでボクはピアノを習っている。義父はいいだし、義理の息子がピアノを弾くのを喜び、じまんにも思っているのも知っている。けどピアノを止めようと思う。理由は自分でもよくわからない。 ボクは学校で見知らぬ女の子から声をかけられる。彼女、別のクラスの高橋さやかは、今度会長選挙に立候補するので、ボクに手伝って欲しいという。実はボクはペーパークラフトが趣味。雑誌で全国二等となったことがあり、その雑誌を見てボクの存在を知った彼女が、自分の等身大の紙人形をボクに作らせようとの考え。こうしてボクは彼女と出会う。物語はここから彼女が父親の転勤でロスに引っ越すこととなり別れるまでをたどる。 短いこの小説は、<子ども>であるということの意味を、シンプルに、私達の前に差し出してくれている。 ボクは高橋さやかから、ヒロセと呼ばれているのだが、この「ヒロセ」は元々誰の姓なのか?それは明確に示されてはいないのだが、明確だはない事態から、この国の通例に従えば、義理の父親のものだと考えてもいいだろう。とすると、タカハシにとってヒロセ以外の何者でもないボクは、3年前までヒロセではなかったこととなる。また、止めようと思っているピアノは、義父の才能をトレースしようということであり、一方のペーパークラフトへの興味(彼は大会で全国2位となった腕前)は実血父のそれに対応している。そのことをボクは気づいているし、母親が気づいていることも気づいている。 つまり、ボクなる子どもは、アイデンティティの確立などという、従来<子ども>の成長の指針とされてきた風景からズレた場所にいる。例えば、「クローディアの秘密」(E.L.カニグズバーグ 1967)を、思い浮かべてもらえばいい。そこではミケランジェロに関する秘密を得ることで、ほかの誰でもないクローディアとなる(アイデンティティを確立する)少女の姿が描かれていたが、その秘密を分け与えるフランクワイラー夫人なる大人の制御の下に彼女があったのも明白で、それに対する疑念のない「クローディアの秘密」と「ガールフレンド」との距離は、相当のものである。 「母さんは常識的な人をバカにしているくせに、子供は、元気がよくて明るくて、勉強なんかできなくても積極的で友だちが多くて、それで、暗くなるまで外で遊んで、どろんこになってサッカーボールをころがしてるのが、子どもらしいって思っているのさ。/それって、ものすごい常識っぽいことだろう。それに、気づいていないんだ」。とのセリフも、単にボクが利発であるというより、自分が置かれている<子ども>という場所を自覚的に生きている「ボク」を、よくあらわしている。 相手役のタカハシは、3歳のとき双子の姉妹はるかを亡くしており、自分がさやかなのかはるかなのかわからなくなる状況にある。だから自らを刻印するために毎年何か記念になることをしていり、6年では快調に立候補している。そんな、アイデンティティ・クライシスのタカハシに、ヒロセはこう言う。 「ほんとうの名前がどうであろうと、タカハシはタカハシだ。さやかもはるかも記号みたいなもんだって。つまりりんごがバナナって名前でもやはり赤くてまるくてシンがあるってことだって」。 もちろんこれは説得力のあるセリフであるはずもなく、タカハシには受け入れられないのだが、こう言えるボクも、それを簡単に受け入れないタカハシも、秘密を守ることで確立できるアイデンティティや成長を受容する子どもとは別の<子ども>を生きている。 これは、この物語が、今風の子どもを描いているからなのだろうか?そうではなく、児童文学が、あるべき<子ども>でも、こうであるはずの<子ども>でもなく、子どもが<子ども>をどう生きているのかを描き始めた兆しなのだ。(ひこ・田中)
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